MIYA / 第71話

第53話 戻らなかった

 七日目の朝、透はいつも通り便利堂の戸を開けた。  入口を掃き、前日に使った工具を棚へ戻す。千鶴が来るころには、店先へ脚立まで出してあった。  「今日、行くんですよね」  鞄を置きながら千鶴が訊いた。  「ああ」  「トヨさんのところ」  昨日、ハルの古い住所録からトヨの妹へ電話がつながった。  宮下トヨは生きている。  町の外で暮らしており、午前中なら本人に会えると妹は言った。  そこまで来て、ようやく探す仕事は終わった。  あとは届けなければならない。  「店、頼んでいい?」  「もちろん」  千鶴は机の上を見る。  「朝ごはんは?」  「食べた」  「何を?」  「パン」  「今日はほんとですか」  「ほんと」  千鶴はまだ疑っていたが、追及はしなかった。  透はハルから受け取った住所を書いた紙を鞄へ入れた。            ※  町を出て、教えられた住所へ着いたのは昼前だった。  古い住宅が並ぶ一角に、小さな庭のある家があった。  呼び鈴を押すと、昨日電話で話した女性が出てくる。  「榊さん?」  「はい」  「遠いところを」  女性はトヨの妹だった。  昨日の電話では名前を聞かなかった。透も、必要がなければ訊くつもりはなかった。  家へ通される。  玄関で靴を脱いだところで、胸の内側にあるハルの言葉がわずかに持ち上がった。  透は足を止めた。  まだ声にはならない。  「どうしました?」  「いえ」  透はそのまま廊下へ上がった。  トヨは、この家にいる。            ※  妹は居間へ透を通した。  「姉には、ハルちゃんのことで人が来るって話してあります」  「ハルさんが亡くなったことも?」  「ええ」  妹は湯呑みを二つ置いた。  透は手をつけずに訊く。  「十五年前から、ずっとこちらに?」  「ほとんどは」  妹は向かいへ座った。  「あの晩のことを知りたいんでしょう」  透は頷いた。  ハルの言葉の内容を話すつもりはない。  ただ、二十七番から消えたトヨが、どうしてここにいるのかは知っておきたかった。  妹は少し時間を置いてから話し始めた。  「あの夜、姉は家を出ていたそうです」  「二十七番から?」  「水が上がってきて、家にいられなくなったって」  どこを通ったのか、本人も細かくは覚えていないという。  暗い中を高い場所へ移動し、そこで助けを待った。  「舟に見つけてもらったそうです」  透は黙って聞いた。  「港の反対側へ向かっていた舟だったみたいで、そのまま向こうの救護所へ運ばれたって」  黒瀬から聞いた話とは別の舟だった。  父と母が二度目に港を離れたころ、トヨがどこにいたのかを正確に重ねることはできない。  透はそこを訊かなかった。            ※  「翌日、うちにも連絡が来ました」  妹が続けた。  「姉が見つかったって」  「臥雲町《がうんちょう》には?」  「伝わってると思ってました」  救護所では名前も住所も伝えた。  家族へも連絡が来た。  だから町の側にも当然届いているものだと考えていたという。  「二十七番には戻らなかったんですか」  「すぐには無理でした」  家は水と泥で傷み、暮らせる状態ではなかった。  しばらく妹の家で過ごすうち、そのまま町へ戻らなくなった。  「荷物は?」  「あとから親戚が少し取りに行きました。でも、ほとんど駄目だったって」  透の頭に、ハルの家から出てきた古い表札が浮かんだ。  泥の中にあった宮下の二文字。  それについては、まだ言わなかった。            ※  「ハルさんとは、そのあと会ってないんですか」  妹は首を横へ振った。  「姉は会ってません」  「連絡も?」  「少なくとも、私の知ってる範囲では」  透は湯呑みを見た。  ハルは十五年間、トヨに返さなければならないものがあると言っていた。  黒瀬には、トヨが戻ったら教えてほしいと頼んでいた。  それでも二人は会わなかった。  「ハルさんから年賀状は来てました?」  「私には何度か」  「トヨさん宛てには?」  妹は少し考えた。  「見たことはないです」  それ以上のことは、妹にもわからなかった。  透は追わなかった。  ハルがなぜ直接ここを探さなかったのか。  トヨがなぜハルへ連絡しなかったのか。  二人のあいだで止まったものを、周りの人間が理由まで埋めることはできない。            ※  「榊さん」  妹が呼んだ。  「はい」  「ハルちゃん、姉に何か?」  透は答えるまで少し間を置いた。  「届けるものがあります」  「物ですか」  「言葉です」  妹はそれ以上訊かなかった。  しばらく透を見たあと、立ち上がる。  「姉は奥にいます」  透も椅子から立った。  廊下へ出る。  数歩進むと、胸の奥の重みがさっきよりはっきり動いた。  ハルの声が上がってくる。  まだ口からは出ない。  妹は廊下の突き当たりで止まった。  閉じた引き戸の向こうから、かすかに人の気配がする。  「今日は朝から起きて待ってます」  透は頷いた。  妹が戸へ手を掛けた。

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