MIYA / 第72話

第54話 持っていったんよ

 妹が引き戸を開けた。  「姉ちゃん。榊さん来てくれたよ」  窓際の椅子に、小柄な老女が座っていた。  白くなった髪を短く整え、膝には薄い布を掛けている。老女がこちらへ顔を向けた。  目が合った。  透が挨拶するより先に、胸の内側から言葉が上がった。  「トヨちゃん。あれは、うちが持っていったんよ」  七日間抱えていた声が、そのまま口から出た。  老女の目が見開かれる。  透の中にあった重みが消えた。  宮下トヨは、しばらく何も言わなかった。  やがて椅子の肘掛けへ置いていた手を動かす。  「……ハルちゃん?」  「はい」  透はトヨの前に立った。  「宮下ハルさんからです」  トヨは口を閉じた。  妹が少し離れたところに立っている。  「ハルちゃんは?」  透は答えた。  「亡くなりました」  トヨは一度だけ頷いた。  窓の外から、蝉の声が入ってくる。            ※  妹がお茶を持ってきた。  透は勧められた椅子へ座ったが、トヨはしばらく窓のほうを見ていた。  先に口を開いたのはトヨだった。  「最後に、そんなこと言うたんやね」  「はい」  「ほかには?」  「預かったのは、今の言葉だけです」  トヨが頷く。  「そう」  透はそこで初めて、ハルの家から出てきたものについて話した。  「ハルさんの娘さんが、遺品を片づけていて古い表札を見つけました」  トヨの顔がこちらへ向く。  「表札?」  「宮下と書いてあります。端が少し欠けた木のものです」  トヨの手が止まった。  「……あれか」  透は何も足さなかった。  トヨが膝の布へ視線を落とす。  「ハルちゃんが持っとったんやね」  「二十七番の家にあったものだと、黒瀬さんが確認しました」  トヨは小さく息を吐いた。  「そうか」  しばらくして、口元がわずかに動いた。  「持っていったん、あの子やったんか」            ※  十五年前、水が引いてから町の人たちが二十七番の片づけに入った。  その中にハルもいたことは、黒瀬から聞いている。  透はそれ以上の経緯を知らない。  「表札、今はハルさんの娘さんが持ってます」  「捨てんといてって言うといてくれる?」  「わかりました」  「そのうち、こっちへ持ってきてもらうわ」  隣にいた妹が言う。  「私が取りに行ってもええよ」  「遠いやろ」  「姉ちゃんよりは動ける」  トヨは妹を見た。  「まだ年寄り扱いされたないわ」  「歩くんも大変なくせに」  「家の中なら歩ける」  妹は返さなかった。  透は二人のやり取りを聞きながら、出された茶を一口飲んだ。            ※  「榊さん」  トヨが呼んだ。  「はい」  「ハルちゃん、うちがここにおること知らんかったん?」  透は少し考えた。  「妹さんの住所は、ハルさんの古い住所録に残ってました」  トヨが妹を見る。  「ほんなら、知ろうと思えば知れたんやね」  妹は何も言わなかった。  透も答えなかった。  ハルがなぜ連絡しなかったのかは、本人から聞いていない。  トヨは湯呑みへ手を伸ばした。  「わたしも一緒やけどね」  「一緒?」  「戻ろうと思えば、戻れた」  それだけ言って茶を飲んだ。  透は続きを訊かなかった。            ※  帰る前、トヨがもう一度呼び止めた。  「榊さん」  「はい」  「ハルちゃんに――」  そこで言葉が切れた。  トヨは透を見てから、首を横へ振る。  「いや、ええわ」  透も何も訊かなかった。  「表札のことだけ、娘さんに頼んどいて」  「伝えます」  「ありがとう」  玄関まで妹が送ってくれた。  靴を履いていると、奥の部屋からトヨの声がした。  「ちゃんと包んどいてもろてな」  妹が振り返る。  「わかったって」  「欠けとるから」  「それも聞いた」  透は玄関を出た。            ※  |臥雲町《がうんちょう》へ戻ったのは午後だった。  便利堂へ入ると、千鶴が帳場で納品書を整理している。  顔を上げた。  「おかえりなさい」  「ただいま」  千鶴は手にしていた紙を揃えた。  「届きました?」  透は頷いた。  「届いた」  「そっか」  それ以上は訊かなかった。  透は机へ鞄を置き、すぐにハルの娘へ電話した。  表札をトヨが覚えていたことと、捨てずに置いてほしいと言っていたことを伝える。  電話の向こうで、娘はしばらく黙っていた。  『わかりました』  「妹さんが、取りに来るかもしれません」  『はい』  そこで通話は終わった。            ※  夕方になると、商店街の提灯に明かりが入り始めた。  千鶴は表へ出していた脚立を片づけ、透は午前中に届いていた修理品を作業台へ載せた。  古い卓上扇風機だった。  「また扇風機ですか」  「夏だからな」  「これも三十年物?」  「知らない」  「先に聞かないんです?」  透は背面のねじを外した。  「直してから聞く」  「順番逆じゃないですか」  千鶴が伝票を持って奥へ行く。  店の外から太鼓が聞こえた。  透は工具箱からドライバーを一本取り出した。

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