MIYA / 第32話

第32話 言わない言葉

 翌朝、透は便利堂の机に古い控え帳を三冊広げていた。  昨夜見つけた年賀状も、端へ置いたままにしてある。  祖父の帳面には、預かった人間も届け先も、姓と名まで書かれていた。浦上音吉もそうだ。ほかの頁をめくっても、省略している名前はほとんどない。  それなのに、口では人を下の名前で呼ばなかった。  透にはチビスケ。中学へ上がってからはオマエ。  年賀状には、榊透くんと書けている。  戸が開き、千鶴が入ってきた。  「まだ見てるんですか」  「今朝からだ」  「昨日、何時まで見てました?」  透が帳面をめくると、千鶴は返事を待つのをやめた。  机の横まで来て、年賀状を手に取る。  「やっぱり、ちゃんと透って書いてありますね」  「うん」  「字を忘れたわけじゃない」  「そうみたいだな」  千鶴は年賀状を元へ戻した。  「でも、呼ばなかった」  透は帳面を閉じた。  その違いを、もう偶然で片づける気にはなれなかった。            ※  昼前、梶の家で雨樋の掃除をした。  昨夜降った雨で落ち葉が濡れている。透が脚立の上から袋へ落とすたび、重い音がした。  下では梶が脚立を押さえていた。  「梶さん」  「なんや」  「爺さん、昔からあんなに喋らない人でした?」  「昔いうても、いつや」  「俺が生まれる前」  梶は上を見た。  「わしが知っとるころには、もう無口やったよ」  透は樋の底に残った葉を掻き出した。  梶が祖父に正式に仕事を教わり始めたのは、三十二年前の一件よりあとだ。それ以前から近所の顔見知りではあったが、毎日一緒にいたわけではない。  「喋り方が変わった時期は?」  「そこまでは知らんな」  梶は少し考えた。  「正月に酒入ったら、普段よりは喋ったけど」  「酒、飲んだんですか」  「飲むよ。一杯で真っ赤になっとった」  透は脚立から梶を見る。  「初めて聞きました」  「言うてへんからな」  「何飲んでたんです?」  「熱燗」  梶が笑った。  「そこはあんたと似とる」  「似なくていいところですね」  残りの落ち葉を袋へ入れ、透は脚立を降りた。            ※  仕事が終わると、梶が昼飯を出した。  大根と鶏肉を煮たものが、茶碗の横へ置かれる。  「食べてきました」  「何を」  「コーヒー」  「それは飯やない」  透は箸を取った。  梶も向かいに座り、大根を割る。  「爺さんがもっと若いころを知ってる人、まだいますか」  「なんで?」  「本当に昔からああいう喋り方だったのか知りたい」  梶はしばらく箸を動かしていた。  「田所の婆さんやな」  「シズさん?」  「あの人なら、便利堂ができる前から知っとる」  田所シズは九十を過ぎている。  いまも田所商店の奥に座り、店のことは家族に任せながら、気になることには口を出している。  透は残っていた飯を口へ入れた。  「午後、行きます」  「もっと噛め」  「噛んでます」  「早い」  透は言われたとおり、もう少し噛んだ。            ※  田所商店は、店先に箒や縄、洗濯用品が並んでいた。  シズは奥の机で古い荷札をまとめている。  「シズさん」  「何」  「爺さんのことで訊きたいんですけど」  手を動かしたまま、シズが透を見る。  「あんたも最近、そればっかりやね」  もう町で知られているらしい。  「若いころの爺さんって、よく喋りました?」  「喋ったよ」  透は返事に詰まった。  シズが笑う。  「何、その顔。生まれたときから無口やと思っとったん?」  「そういう人だと思ってました」  「若いころは今のあんたより喋っとったわ」  それが多いのか少ないのか、透には判断しにくかった。  「いつごろ変わりました?」  「そんな細かいこと覚えとらんよ」  シズは荷札を紐でまとめる。  「でも、途中から変な喋り方するようにはなったね」  「変な喋り方?」  「道訊いたときが面倒になった」  シズは手を止めた。  「昔なら、浜のほうの道をまっすぐ行って、次の通りを曲がれ、みたいに言うとったんよ。それが、いつからか魚屋の角を曲がって、その先の古い倉のところをどうのこうのって」  「建物で説明するようになった?」  「そうそう。知っとる人には余計わかりにくいの」  シズが笑った。  「榊さんに道訊いたら遠回りさせられる言うて、よう言われとったよ」  透はメモ帳を開いた。  「それ、三十二年前にはもう?」  「どうやったかな」  シズは眉間に皺を寄せた。  「その前後やと思うけど、そこまで責任持てんよ。三十年以上前のことやからね」  「十分です」  「十分にしたらあかんよ。わからんもんは、わからんのやから」  透は鉛筆を止めた。  「はい」  シズは満足したように、また荷札を束ね始めた。            ※  店を出たあと、透は商店街を歩いた。  田所商店から便利堂までは、道を二回曲がれば着く。  人に説明するなら難しくない。  それでも、ある言い方を避けなければならないとしたら、別の目印を使うことになる。  魚屋。薬局。橋。空き店舗。  一つ先の建物を使えば、同じ場所へは行ける。  透は角を曲がった。  祖父は人の名前も同じように避けていたのかもしれない。  そう考えたところで、足を止めた。  まだ、そこまではわからない。            ※  便利堂の近くで、千鶴と会った。  自転車を押して歩いている。  「透さん、何してるんです?」  「帰るところ」  「なんで道の真ん中で止まってたんですか」  「考えてた」  「歩きながら考えるの、やめたほうがいいですよ。前に電柱ありますから」  透は前を見た。  少し先に電柱があった。  「当たらないよ」  「当たってから言う人、だいたいそう言います」  二人で便利堂へ向かった。  透は田所シズから聞いたことを話す。  「若いころは、もっと普通に道を教えてたんですね」  「ああ」  「途中から、建物を順番に言うようになった」  「らしい」  千鶴は自転車のハンドルを押しながら考えた。  「言いたくない言葉でもあったんですかね」  透は千鶴を見る。  「どういう意味?」  「ほら。一個だけ言えない言葉があったら、そこだけ別の言い方にするじゃないですか」  「たとえば?」  「魚屋って言えなかったら、干物並べてる店とか」  「田所さんの店なら?」  「箒売ってるところ」  「長いな」  「だから、だんだん喋るの嫌になりそうです」  千鶴はそれだけ言って自転車を押した。  便利堂の看板が見えてくる。  透は答えなかった。  祖父は名前を書けた。  道も知っていた。  それでも、口にするときだけ言い方を変えていた。            ※  事務所へ戻ると、透は年賀状をもう一度取り出した。  榊透くん。  その横へ、田所シズから聞いた道案内の変化を書いたメモを置く。  名前を呼ばないことと、道を遠回りして説明すること。  同じ理由かどうかは、まだわからない。  透は二枚を重ねず、そのまま机の上に置いた。

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