MIYA / 第65話

第47話 二十七番

 宮下ハルが便利堂へ来てから数日、電話は鳴らなかった。  透も急いではいない。  まだ何も預かっておらず、七日の期限も始まっていない。ハル本人が言っていたとおり、すぐに呼ばれる話ではなさそうだった。  その間にも夏は進んだ。  午前は網戸を張り、午後は古い室外機の掃除へ行く。商店街では祭りの提灯を吊るす仕事も始まり、夕方になると遠くで太鼓の練習が聞こえた。  その日の昼前、楓が便利堂へ来た。  透は机で請求書を書いていた。千鶴は裏で扇風機の梱包をしている。  「透さん、一つだけ場所を追えました」  楓が紙を机へ置いた。  「四軒の?」  「はい。公開されている古い地図と、現在の区画を照らしました」  千鶴も裏から戻ってきた。  「見ていいやつです?」  「大丈夫です」  楓が即答してから、透を見る。  「最初に言わないと心配する人がいるので」  「俺は何も言ってないだろ」  「今までがあるので」  千鶴が黙って頷いた。  透は紙へ目を戻した。  十五年前、義信が名簿から外した四世帯。そのうち一軒があった土地だけは、現在の区画まで辿れたという。  「港東二十七番です」  楓が地図の一角を指した。  港の東側にある低地だった。  「今も家は?」  「ありません。地図では空き地です」  透も場所はだいたいわかった。  港から少し外れ、倉庫や空き地が増えるあたりだ。  「行ってみる」  「わたしも行きます」  「仕事は?」  「今日はもう上がりました」  千鶴が自分を指した。  「あたしは?」  「店番」  透が答えると、千鶴は小さく息を吐いた。  「聞くだけ無駄でした」            ※  商店街を離れるにつれて、太鼓の音は薄くなった。  港東へ入ると、代わりに蝉の声が近くなる。海からの風はあるが、日向を歩けば背中に汗がにじんだ。  二十七番は、道の突き当たり近くにあった。  金網で囲われた空き地だった。  中には草が伸びている。隣には倉庫が建っているが、反対側は同じように空き地が続いていた。  「ここです」  楓が古い地図と現在の区画を見比べた。  十五年前の地図には、この場所に家の形が残っている。  透は金網の前まで行った。  道路沿いの草だけが短い。  金網に絡んだ蔓も途中で切られている。  「放ったらかしじゃないな」  楓も門の南京錠を見る。  「誰か来てるみたいですね」  透は土地の中へは入らなかった。  持ち主のものだ。  わかったのは、昔ここに家があったことと、今も誰かが土地を管理しているらしいということだけだった。            ※  便利堂へ戻ったあと、透は登記について正規に確認できる範囲を調べた。  翌日、手続きのうえで現在の名義を確かめる。  そこにあった名前を見て、透は一度だけ紙から目を上げた。  黒瀬巌だった。            ※  黒瀬へ電話をかけると、本人は隠さなかった。  「港東二十七番の土地、黒瀬さんの名義ですよね」  『はい』  「少し話せますか」  短い間があった。  『土地のところでよろしいですか』  それだけで通じた。  夕方に行くと、黒瀬はすでに軽トラックを止めていた。  今日は上着ではなく作業着を着ている。荷台には刈払機と熊手が載っていた。  「草刈りしてたの、黒瀬さんですか」  「ええ。伸びたころに来ています」  楓も一緒だった。  黒瀬は彼女にも頭を下げる。  「氷見さん」  「こんにちは」  楓は金網の向こうを見た。  「十五年前、ここに家があったんですよね」  「ありました」  「父が外した四世帯の一軒ですか」  黒瀬は少し間を置いてから頷いた。  「そうです」  透は南京錠を見る。  「どうして黒瀬さんが持ってるんです?」  「あとになって、手放される話を聞きましてね。私が引き取りました」  それ以上の経緯は話さなかった。  「何のために?」  今度は返事まで少し長かった。  黒瀬は金網越しに空き地を見る。  「なくしてしまう気にはなれなかったんです」  透は続きを待ったが、黒瀬は南京錠を開けた。  「中へ入りますか」            ※  草の中には、家の形がわかるものはほとんど残っていなかった。  黒瀬が先に歩き、透と楓が後ろをついていく。  奥に一本だけ木が立っていた。  柿だった。  まだ青い実がいくつかついている。  「これは昔から?」  透が訊く。  「ええ」  黒瀬は枝を見上げた。  「家を片づけたときも、この木だけは残しました」  楓が少し離れて幹を見る。  「住んでいた人を知ってたんですか」  「知っていましたよ」  黒瀬は足元の枯れ枝を一本拾った。  「町が今より狭かったころですからね」  十五年前の名簿にあった家。  現在は黒瀬の土地になり、家はなくなっている。  それでも柿の木だけは残されていた。  「ここの人は、戻らなかったんですか」  透が訊いた。  黒瀬は枝を手にしたまま答えた。  「少なくとも、私は会っていません」  断定はしなかった。  透もそれ以上は訊かなかった。            ※  黒瀬が刈払機を動かし始めたので、透は軽トラックにあった熊手を取った。  「手伝います?」  楓が訊く。  透はもう一本を渡した。  「あるから」  「その理由、前にも聞いた気がします」  楓は受け取り、道路側へ向かった。  三人でしばらく草を片づけた。  黒瀬が刈ったところから土が見え始める。  柿の木の下には小さな青い実が一つ落ちていた。  透が拾おうとすると、黒瀬が言った。  「まだ渋いですよ」  「食べません」  「なら結構です」  透は実を木の根元へ戻した。            ※  作業を終えるころには、日がかなり傾いていた。  黒瀬は機械を荷台へ戻した。  楓が金網の外から空き地を見る。  「この土地、どうするんですか」  黒瀬は軍手を外した。  「今のところ、何も」  「売らない?」  「その予定はありません」  「ずっと空き地に?」  黒瀬は答えず、門を閉めた。  南京錠を掛けてから言う。  「名簿のことは、お父さまから聞きました」  楓の顔が上がる。  「戻せるか調べてます」  「そうですか」  黒瀬は一度、頭を下げた。  「お願いします」  楓はすぐには返さなかった。  やがて「はい」とだけ言った。            ※  帰り道、祭りの提灯が見えるところまで来ると、太鼓の音が戻ってきた。  楓は歩きながら言った。  「黒瀬さん、あの土地ずっと手入れしてたんですね」  「ああ」  「誰にも言わずに」  透は返さなかった。  黒瀬が何を考えて買ったのか、全部聞いたわけではない。  草を刈り、柿の木を残している。  今わかるのはそれだけだった。  商店街の入口で楓と別れた。            ※  便利堂へ戻ると、千鶴が机で伝票をまとめていた。  「遅いです」  「ごめ――」  そこで声が詰まった。  千鶴が顔を上げる。  透は言い直すのをやめた。  「店番ありがとう」  「どういたしまして」  千鶴もそれ以上触れなかった。  「何かわかりました?」  「二十七番、黒瀬さんの土地だった」  「黒瀬さん?」  「ああ」  透は楓から借りた地図を机へ広げた。  「昔は家があった。今はない」  「住んでた人は?」  「まだわからない」  千鶴は地図を少し見てから、伝票を横へ寄せた。  透は二十七番の位置をもう一度確認し、紙を閉じた。  店の外では、太鼓の練習が続いていた。

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