MIYA / 第66話

第48話 トヨちゃん

 宮下ハル本人からの電話は来なかった。  連絡してきたのは、娘だった。  昼を少し回ったころ、透は商店街の衣料品店で祭り提灯の配線を直していた。脚立を下りたところで携帯が鳴る。  知らない番号だった。  「はい、榊です」  『宮下と申します。母のことで』  透は工具箱へ伸ばした手を止めた。  ハルは数日前から食事が取れなくなり、前日に入院したという。朝までは話せていたが、昼前から呼吸が弱くなった。  その前に娘へ、榊便利堂へ電話してほしいと頼んだらしい。  『約束してあるから、と言ってます』  透は工具を片づけた。  「今から行きます」            ※  ハルは窓際のベッドにいた。  便利堂まで一人で歩いてきたときより、布団の中の身体が小さく見える。  娘が耳元へ顔を寄せた。  「お母さん。榊さん来てくれたよ」  しばらくして瞼が開いた。  透を見ると、ハルの口元がわずかに動いた。  「……来たね」  「来ました」  声は細かったが、意識はある。  透がベッド脇の椅子へ座ると、ハルは娘を見た。  娘は何も訊かなかった。  「外にいるね」  ハルが「ごめんね」と言う。  娘は布団の端を直してから病室を出た。            ※  戸が閉まるのを待って、透はハルへ向き直った。  「届け先、聞いていいですか」  ハルは一度目を閉じた。  呼吸を整えてから、小さく答える。  「トヨちゃん」  初めて聞く名前だった。  「名字は?」  ハルは首を横へ動かした。  「いらん」  「それだと探すの大変ですよ」  「榊さんなら……探すやろ」  「探しますけど」  ハルの口元が少し上がる。  便利堂へ来た日と同じ顔だった。  「この町の人ですか」  「そう」  「今も?」  返事はなかった。  透は質問を止めた。  「言葉を預かります」  ハルが窓のほうを見る。  夏の日がカーテン越しに差していた。  遠くで太鼓が鳴っている。  ハルは少し時間をかけて息を吸った。  「トヨちゃん。あれは……うちが持っていったんよ」  最後まで声が出ると、透の胸の内側へ重みが入った。  意味はわからない。  何を指す「あれ」なのかも知らない。  透はそのまま受け取った。  「預かりました」  ハルが小さく頷く。  「七日以内に届けます」  目を閉じたハルの唇が、もう一度動いた。  透が少し近づく。  「何です?」  「よかった」  今度の言葉は、透の中には入ってこなかった。            ※  娘を呼び、透は病室を出た。  廊下を歩いているあいだも、ハルから預かった一言は胸の奥に残っていた。  便利堂へ戻ると、受け取った日と宮下ハルの名を控え、宛先には「トヨ」とだけ記した。  千鶴が向かいから見る。  「名字は?」  「聞いたけど言わなかった」  「住所は?」  「知らない」  「この町にはいるんですか」  「ハルさんはそう言ってた」  千鶴は机の紙を見た。  「ノブさんなら知ってません?」  「俺もそう思った」  透は浦上家へ電話をかけた。            ※  ノブはトヨという名前を聞くと、すぐには返事をしなかった。  『どこで聞いた』  「ハルさんからです」  『……そうか』  「知ってます?」  また少し間が空く。  『名前だけな』  「名字は?」  『知らん』  「どんな人です?」  『そこまでは聞いとらんよ』  透は受話器を持ち直した。  「何を知ってるんです?」  『ハルが昔、ときどき言うとったんや』  「何て?」  『トヨちゃんに返さんといかん、って』  透は何も言わなかった。  「何を返すのかは?」  『訊いても、まだええって言うてな。結局聞かんかった』  ハルらしい返事だった。  それ以上、ノブからわかることはなかった。            ※  翌朝、宮下家から電話が入った。  ハルは明け方に亡くなったという。  透は娘へ短く礼を言って電話を切った。  机には、前日に書いた控えがある。  トヨという名前だけでは、まだ届け先へ辿り着けない。  透は楓へ連絡した。            ※  午後、二人は図書館で古い住宅地図と町の公開資料を広げた。  楓にはハルから預かった内容は話していない。  「探すのはトヨという人。昔から町にいたらしい」  「名字はなし?」  「なし」  「かなり広いですね」  「だから困ってる」  楓は古い電話帳の索引を確認した。  透も別の冊子をめくる。  読みがトヨになる名前をいくつか当たったが、ハルと結びつく人物は見つからなかった。  「宮下さんの昔の知り合いから聞くほうが早いかもしれませんね」  「ノブさんは名前しか知らなかった」  「ほかの人は?」  「これから」  楓が住宅地図を閉じかけ、ふと手を止めた。  「宮下」  透が顔を上げる。  楓は十五年前の古い地図を開き直した。  「四世帯の中にありましたよね」  義信が名簿から外した四世帯。  その名前は、透も控えてある。  確認すると、そのうち一軒の世帯主が宮下姓だった。  透は地図を引き寄せた。  「場所は?」  楓が頁を追う。  指が止まった。  「二十七番です」            ※  数日前、黒瀬と草を刈った空き地だった。  家はなく、柿の木だけが残っている。  透と楓は夕方、もう一度二十七番へ向かった。  南京錠の掛かった門の外で、楓が古い住宅地図を開く。  十五年前には確かに家が描かれている。  その横にある名字は、宮下だった。  「トヨさんがこの家にいたとは、まだ言えませんね」  楓が言う。  「ああ」  世帯主は別の名前だ。  家族まで載った資料ではない。  同じ姓というだけで決めることはできなかった。  透は金網越しに空き地を見た。  ハルの言葉は動かない。  ここが昔の家だったとしても、今そこにトヨ本人はいない。  透は地図へ目を戻した。  十五年前の二十七番には、宮下と記されていた。

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