MIYA / 第64話

第46話 元気なうちに

 梅雨が明けると、町の音が変わった。  朝から蝉が鳴き、商店街には祭りの提灯が少しずつ増えている。便利堂の前を通る子どもたちは帽子を深くかぶり、日陰のある側を選んで歩いていた。  春に氷見家で見た四世帯については、楓と義信が調べている。  透も名前は控えてあるが、新しくわかったことはまだなかった。  その日の午前中は、便利堂の裏で古い扇風機を分解していた。  首を振るたびに金属が擦れる音がする。千鶴は外した羽根を雑巾で拭いていた。  「これ、買い替えたほうが早くないですか」  「持ち主にも言った」  「じゃあ、なんで直してるんです?」  「三十年使ってるから捨てたくないって」  千鶴が羽根を光へ向けた。  「三十年なら、家電というより家族ですね」  「それ本人に言って」  透が軸へ油を差していると、表の戸が開いた。  「ごめんください」  女性の声だった。  千鶴が先に立ち上がる。            ※  店へ入ってきたのは、小柄な老女だった。  薄手のカーディガンを羽織り、小さな布鞄を両手で持っている。  透が工具を置くと、老女は古い看板を見上げた。  「ここ、榊便利堂で合っとるね」  「はい」  「榊さんは?」  「俺です」  老女は透の顔をしばらく見た。  「ほんまに孫やね」  「爺さんを知ってるんですか」  「顔はよう知っとるよ」  老女は布鞄を持ち直した。  「|宮下《みやした》ハルです」  透は名前を覚えていた。  浦上ノブから聞いた、昔からの友人だ。  「ノブさんの」  「友達」  ハルが先に言った。  「ノブから聞いたんよ。今は孫が店やっとるって」  透は来客用の椅子を出した。  千鶴が茶を淹れるあいだ、ハルは店内を見回した。棚や古い柱を眺め、最後に壁際の工具箱へ目をやる。  「昔とそんな変わらんね」  「来たことあるんですか」  「ずっと前にな」  それ以上は話さなかった。            ※  千鶴が茶を置くと、ハルは礼を言って湯呑みに手を添えた。  「今日は何のご依頼です?」  透が訊く。  「便利屋のほうやないんよ」  透はハルを見る。  「預かり屋ですか」  「そう」  千鶴は空になった盆を持って奥へ下がった。  「誰か亡くなったんですか」  「まだ死んどらんよ」  ハルは茶を一口飲んだ。  「わたしの話」  透は椅子へ座り直した。  「死ぬとき、来てもらいたいんですか」  「来られるならね」  生きているうちに頼みに来る人は、これまでもいた。  「病気です?」  「歳は取っとる」  「余命を言われたとか」  「なんもない」  ハルは手を振った。  「今日も歩いてここまで来たんよ」  「じゃあ、どうして今?」  「歩いて来られるうちに頼んどこうと思って」  透は頷いた。  「呼ばれたとき、俺が動ける状態なら行きます」  「それでええ」  ハルはあっさり答えた。            ※  「届け先は決まってます?」  透が訊くと、ハルの指が湯呑みの縁で止まった。  「決まっとる」  「今、聞いておけますか」  「それはまだ言わん」  「探すのに時間がかかる人だと困ります」  「たぶん、探してもらうことになる」  透はハルを見る。  「なら、余計に先に聞きたいんですけど」  「せやけど、今は言わん」  声は変わらなかった。  透はしばらく待ったが、ハルから続きを話す様子はない。  「期限は七日です。それは知ってます?」  「知っとる」  「預かれるのは一つだけです」  「それも知っとるよ」  「誰から?」  ハルは茶を飲んだ。  「昔から、この町におるからね」  答えはそこまでだった。  透も追わなかった。            ※  ハルは布鞄から紙を一枚取り出した。  住所と電話番号が書かれている。  「娘と住んどる。何かあったら、この番号から電話が来ると思う」  透は受け取った。  「言葉も、そのときですか」  「そのとき」  「宛先も?」  「そう」  「忘れてませんよね」  「まだ大丈夫」  ハルが笑った。  立ち上がってから、もう一度店の中を見た。  「榊さん」  「はい」  「ノブは元気やった?」  「元気でしたよ」  「そう」  ハルはそれだけ聞くと、布鞄を持って戸へ向かった。  透は店先まで見送った。  真昼の日差しの中を、ハルは急がず商店街のほうへ歩いていった。            ※  店へ戻ると、千鶴が扇風機の前に座っていた。  「予約でした?」  「ああ」  「元気そうでしたね」  「本人もそう言ってた」  透はハルから受け取った紙を机の引き出しへ入れた。  まだ預かった言葉はない。  千鶴が扇風機の羽根を取り付ける。  「相手は聞いたんですか」  「言わないって」  「またですか」  「今回は探すことになるらしい」  「七日なのに?」  「だから先に聞きたかったんだけどな」  透が前面のカバーを留め、電源を入れる。  羽根が回り始めた。  しばらく首振りをさせても、金属音はしなかった。  「直りましたね」  「たぶん」  「そこは言い切ってくださいよ。お客さんに返すんですから」  透はもう少し動かしてから電源を切った。            ※  夕方、梶が茄子を持ってきた。  スーパーの袋いっぱいに入っている。  「多くないですか」  「もろた」  「全部?」  「いらん言うたら、持ってけ言われた」  「減らす交渉に失敗してますよ」  梶は聞こえないふりをして、茄子を台所へ運んだ。  透は修理した扇風機のコードをまとめながら言った。  「今日、宮下ハルさんが来ました」  梶が冷蔵庫を開けたまま止まる。  「ハルさん?」  「知ってます?」  「顔くらいはな」  「預かり屋の予約でした」  「そうか」  梶は茄子を冷蔵庫へ入れた。  それだけで話を終わらせようとする。  透は工具箱を閉じた。  「梶さん」  「なんや」  「前に爺さんが言ってたこと、覚えてます?」  「何をや」  「届かなかった言葉のこと」  梶は冷蔵庫の扉を閉めた。  「急になんや」  透自身にも、ハルの来訪からなぜそこへ考えが移ったのか、うまく説明できなかった。  祖父を知る人がまた一人現れたからかもしれない。  「俺が預かり屋になった理由って、聞いたことあります?」  梶はしばらく透を見た。  「ない」  「血筋とか」  「知らん」  返事は早かった。  透が黙っていると、梶は椅子へ座った。  「ただ、一遍だけ、あの人が言うたことはある」  「爺さんが?」  「ああ」  梶は空の湯呑みを引き寄せた。  「届かんかった言葉が、次を作ることがある、ってな」  透は何も言わなかった。            ※  「それ、どういう意味ですか」  「知らん」  「梶さん」  「ほんまに知らんのや」  梶は湯呑みへ自分で麦茶を注いだ。  「一回聞いただけや。わしも意味訊いたけど、あの人はそれ以上言わんかった」  「誰かが言葉を届けられなかったら、その人が預かり屋になるってこと?」  「せやから、知らん言うてるやろ」  透は椅子へ座った。  桑島の言葉を腐らせたのは、ずっと後だ。  その前から透は言葉を預かっていた。  「俺には合わないですよね」  梶は麦茶を飲んだ。  「わしに聞くな」  「爺さんから、俺について何か聞いてません?」  「聞いてへん」  今度も返事は早かった。  梶は湯呑みを置き、台所を指した。  「それより茄子、明日には使えよ」  「多すぎます」  「千鶴に持たせろ」  話はそこで終わった。            ※  店を閉める前、透は机の引き出しを開けた。  宮下ハルの連絡先が入っている。  まだ何も預かっていない。  期限も始まっていなかった。  透は紙を確認して、引き出しを閉めた。  表では祭りの練習が始まったらしく、遠くから太鼓の音が聞こえていた。

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