MIYA / 第75話

第57話 行ってらっしゃい

 翌日の夕方、楓はもう一度便利堂へ来た。  千鶴は表で提灯の電球を確認している。透は店を閉める準備を済ませると、楓を母屋の奥へ案内した。  昔、二人でよく使った離れだった。  今は古い棚や座布団を置いているだけで、普段はほとんど人が入らない。窓を開けると、庭から蝉の声が入ってきた。  「ここでいいんですか」  「人が来ないから」  「それだけ?」  「それだけ」  透は座布団を二枚出した。  向かい合わせには置かなかった。  一枚を窓の近くへ、もう一枚を少し後ろへずらす。  楓がその並びを見る。  「顔、見ないんですか」  「預けられたとして、すぐ俺の前にいたら出るかもしれないだろ」  「ああ」  楓は納得したように後ろの座布団へ座った。  透は窓のほうを向く。  庭では、葉の間から夕方の日が差していた。            ※  「昨日と同じで、できる保証はない」  透が言う。  「わかってます」  「変だと思ったら言って」  「はい」  そこで会話が止まった。  誰かの最期の言葉を受け取るとき、透は特別なことをしてきたわけではない。  相手が託し、透が受け取る。  今まで必要だったのは、それだけだった。  透は膝の上に両手を置いた。  母の顔を思い浮かべる。  十五年前の港。  雨に濡れた髪と、頬へ触れた冷たい手。口元が最初に作った音だけは、もう思い出している。  透。  その先がない。  「楓」  「はい」  「預かってほしい」  後ろで衣擦れの音がした。  透は振り返らない。  「俺の言葉じゃない。母さんが、あの夜に俺へ言った言葉」  楓から返事はなかった。  透は続ける。  「俺の中に残ってるなら、それを預かってほしい」  短い間のあと、楓が答えた。  「預かります」            ※  胸の奥が、わずかに引かれた。  痛みではなかった。  喉とも違う。  そこに何かあったと初めてわかるような感覚だけがあり、次の瞬間には消えた。  透は息を吐いた。  後ろから小さく音がした。  「透さん」  振り返る。  楓は喉へ手を当てていた。  目が合った。  その瞬間、楓の口が開いた。  「透。ごめんね。行ってくるね」            ※  雨が降っていた。  風に押された雨が港へ叩きつけられている。  十二歳の透は岸に立っていた。  靴の中まで水が入り、服は身体へ張りついている。周囲では大人たちが走り、縄を運び、暗い水面へ向かって声を上げていた。  遠くに灯りが見えた。  舟だった。  岸へ近づくにつれて人が集まる。  木の船体が岸へ当たり、父が中から人を降ろした。母も一人を支えている。  透はその場から動けなかった。  母が顔を上げた。  透を見つける。  舟から降り、こちらへ来た。  目の前でしゃがむ。  両手が頬へ触れた。  冷たかった。  母は息を切らしながら、透だけを見た。  「透。ごめんね。行ってくるね」  今度は、声まで聞こえた。            ※  十二歳の透は首を横へ振った。  母の服を掴む。  行かないで、と言った。  母は透の手へ自分の手を重ねた。  「行ってくるね」  もう一度、同じような顔をした。  別れを告げる人の顔ではなかった。  父は舟のそばにいる。  母が立ち上がった。  透はまだ服を離さない。  母はその手をゆっくり外した。  透がもう一度伸ばした手は届かなかった。  父と母が舟へ戻る。  周りから止める声が上がる。  母は一度、岸を振り返った。  透は何も返せなかった。  舟が岸から離れていった。  雨の向こうで灯りが小さくなり、やがて見えなくなった。            ※  離れの中へ戻った。  楓が目の前に座っている。  透は何度か息をした。  今聞いた言葉を頭の中で繰り返す必要はなかった。  母の声で覚えている。  楓が喉から手を離した。  「透さん」  透は俯いていた顔を上げた。  「届きました?」  少し時間がかかった。  「ああ」  声は出た。  「届いた」  楓は何も言わなかった。  透は窓の外を見る。  夕方の日が庭へ落ちている。  あの夜、母へ返せなかった言葉があった。  行ってほしくなかった。  戻ってきてほしかった。  だから、どうしても言えなかった。  透は一度、口を開いた。  「行ってらっしゃい」  楓がこちらを見る。  透は目元を手で押さえた。  少しして、もう一度言った。  「行ってらっしゃい」            ※  楓は隣へ移ってこなかった。  透も、何か話してほしいとは思わなかった。  しばらく二人でそのまま座っていた。  庭で蝉が鳴いている。  車が一台、家の前を通った。  遠くから祭りの太鼓も聞こえた。  透は膝の上に置いた手を見る。  十二歳のころより、ずっと大きくなっていた。  「母さん、帰ってくるつもりだったんだな」  透が言った。  楓は小さく頷いた。  それだけだった。            ※  店へ戻ると、千鶴が提灯の箱を片づけていた。  「おかえりなさい」  「ただいま」  千鶴は透と楓を見た。  何か訊きかけたようだったが、箱を棚へ押し込む。  「麦茶ありますよ」  「飲む」  「楓さんも?」  「もらいます」  三人分のコップが机へ並んだ。  千鶴が冷蔵庫から瓶を出し、麦茶を注ぐ。  透は一口飲んだ。  「薄い」  「梶さんに言ってください」  「昨日より薄くない?」  「昨日と同じ瓶です」  楓が横で笑った。  透ももう一口飲んだ。            ※  千鶴が空いたコップを重ねようとして、机の端に置いてあった工具箱へ腕を当てた。  中のドライバーが一本、床へ落ちる。  「あ」  透が拾った。  千鶴が手を伸ばす。  「すみません」  「いいよ」  透はドライバーを工具箱へ戻した。  口の中で、一つだけ確かめてみる。  音は出なかった。  透はそのまま蓋を閉じた。  桑島の言葉は、まだ深いところに残っている。  母から届いたものとは、別だった。  「透さん?」  千鶴に呼ばれ、透は顔を上げる。  「何でもない」  工具箱を棚へ戻した。

運営おすすめ

週間ランキング

全ランキング

反応スコアランキング

もっと見る

PV・ブックマークランキング

もっと見る

更新された連載作品

すべて見る
読み込み中…

新着短編

すべて見る
読み込み中…

作品一覧

読み込み中…

作品ダッシュボード

作品全体の公開状況と、読者からの反応をひと目で確認できます。

作品パフォーマンス

選択期間のPVが多い順

上位5作品
ライブラリ

作品の公開状況と構成

最近の更新

最後に編集した作品

要チェック

公開前に確認したい項目

プレビュー
読者に表示される見た目

表示設定

文字サイズ
100%
背景色
縦書き表示
リッチモード
目次
読み込み中…

キーワードを入力して作品を探しましょう

アクセス解析
アクセス解析データは 5分おき に自動更新されます
読み込み中…
ランクイン記録
通知
通知はありません
地形ブラシ
25
スタンプ
ツール
装飾
表示
100%

世界地図

100%

REACTION SCORE

反応スコアの内訳