MIYA / 第76話

第58話 失敗のまま

 翌朝、透は店を開ける前に控え帳を出した。  頁をめくり、桑島与一の名前があるところで手を止める。  七十八歳。  宛先はマリア。  預かった言葉も、そのまま残してある。  マリアに、うちは怒っとらんと言うといてくれ。  透はしばらく文字を見ていた。  母の言葉が届いたあとも、桑島から残ったものは変わっていない。喉へ上がることはなく、身体の深いところに沈んでいる。  そこにあることだけはわかった。  店の戸が開いた。  「おはようございます」  千鶴が入ってくる。  「おはよう」  鞄を置いた千鶴は、机の控え帳に気づいた。  「桑島さん?」  「うん」  「また探すんですか」  透は頁へ目を戻した。  マリアが亡くなったのは、桑島から預かるより八、九年も前だった。  あの七日間に調べられることは調べた。  「いや」  透は首を横へ振った。  「もう探さないと思う」  千鶴は少しだけ透を見たが、理由は訊かなかった。  そのまま奥へ行き、冷蔵庫を開ける。  「麦茶ありますよ」  「まだあるの?」  「梶さんの瓶、大きすぎるんです」  「薄いやつか」  「飲むんでしょ」  「飲む」  千鶴がコップを一つ出した。            ※  午前中は、商店街の文具店へ棚を直しに行った。  戻ってから請求書を書いていると、勝手口の外で軽トラックが止まる。  梶だった。  今日は手ぶらだった。  「野菜ないんですか」  「毎回持ってくると思うな」  「最近、毎回だったから」  「胡瓜残っとるやろ」  「あります」  梶はいつもの椅子を引いた。  机に開いたままの控え帳を見る。  「桑島か」  「はい」  透はペンを置いた。  「梶さん。腐った言葉って、あとから変わったことあります?」  「知らん」  返事は早かった。  「爺ちゃんからも?」  「聞いとらん」  「そうですよね」  梶が眉を寄せる。  「何や。また届ける気か」  透は少し考えた。  「昨日までなら、そう思ってたかもしれないです」  「今日は」  「わからない」  梶は控え帳へ目をやった。  「マリアさんは、もう亡くなっとったんやろ」  「はい」  「それ知ったあとも探したんか」  「七日目までは」  透は覚えている範囲を話した。  マリア本人には会えなかった。  墓へ行っても言葉は出ず、期限を越えた。  そのあと言葉は沈み、「ごめん」が口から出なくなった。  梶は途中で口を挟まなかった。            ※  「俺の失敗です」  透が言うと、梶が鼻から息を吐いた。  「そら仕事は失敗やろ」  思っていた返事と少し違った。  「そこ否定しないんですね」  「届けられんかったんやろ」  「はい」  「ほな成功ではない」  梶は机の麦茶を取った。  一口飲み、すぐに顔をしかめる。  「薄いな」  「梶さんが作ったんですよ」  梶はコップを見た。  「水入れたやろ」  「入れてないです」  奥から千鶴の声が飛んでくる。  「私も入れてません」  梶は納得しない顔のまま、もう一口飲んだ。  透は少し笑った。  「じゃあ、やっぱり俺が悪かったってことですか」  「何がや」  「桑島さんのこと」  梶はコップを置いた。  「仕事が失敗したんと、全部あんたが悪いんは別やろ」  透は黙った。  「七日で見つけられんかった。相手はずっと前に亡くなっとった。それで、あんたは何をすればよかったんや」  「それをずっと考えてました」  「答え出たか」  「出てません」  「ほな、ないんちゃうか」  梶はそれ以上続けなかった。            ※  透は控え帳の桑島の頁を見る。  あのとき、探し方を変えれば何かあったのではないかと何度も考えた。  もっと早く手紙を読める人へ持っていけば。  先に別の場所を当たっていれば。  けれど、どの道を選んでもマリアが亡くなっていた事実は変わらない。  マルのときのような例外が、どの死者にも起きるとも限らない。  そのことは、透にもわかっていた。  「爺ちゃんも、ずっと引きずってたんですかね」  梶が透を見る。  「知らん」  「ですよね」  「わしは、あの人が何を考えとったかまでは知らん」  梶は椅子の背にもたれた。  「ただ、しくじったあとも便利堂はやっとった」  それだけ言った。  透は返事をしなかった。  祖父は「とおる」を失った。  それでも仕事を続け、透を育てた。  名前で呼ばれたことはないが、朝になれば飯があり、帰りが遅ければ玄関の灯りがついていた。  透は控え帳を閉じた。            ※  梶が帰ったあと、千鶴が帳場で伝票を書いていた。  透は桑島の控え帳を棚へ戻す。  「しまうんですか」  「うん」  「もう見ない?」  「必要なら見るよ」  それだけ答えた。  千鶴のペンがまた動き始める。  透は向かいの椅子へ座った。  「千鶴」  「はい」  「俺が『ごめん』言えなくなってから、代わりに言ったことあるだろ」  千鶴は顔を上げた。  「ありますね」  「何回くらい?」  「知りませんよ」  「結構ある?」  「必要なときだけです」  即答だった。  透は少しだけ肩の力を抜いた。  「毎回じゃない?」  「毎回だったら面倒すぎます」  「そうだよな」  「『すみません』で済むときは透さんが勝手に済ませてますし」  「勝手にって」  「事実です」  千鶴はまた伝票へ目を落とした。            ※  しばらくして、透は訊いた。  「迷惑だった?」  「何がです?」  「代わりに言うの」  千鶴はペンを止めた。  少し考えてから答える。  「必要なら言いますよ」  「それだけ?」  「それ以上、何があるんですか」  透は返事をしなかった。  千鶴は首を傾げたあと、また書き始めた。  机の端には修理待ちの小さなラジオが置いてある。  午後から見る予定のものだった。  透はそれを手元へ引き寄せた。  「ドライバー取って」  「どれです?」  「細いやつ」  千鶴が工具箱を開け、一本渡す。  「はい」  「ありがと」  透は裏蓋のねじへ先端を合わせた。  桑島の言葉は、まだ奥に残っている。  それは変わっていなかった。  ねじを一本外し、小皿へ置く。  次も同じように外した。

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