MIYA / 第74話

第56話 預ける側

 午後になっても、透は午前中に直した網戸のことを考えていた。  正確には、網戸を届けた帰りに寄った港で思い出したことを、まだ整理できずにいた。  母は十二歳の透を見ていた。  頬へ触れ、最初に名前を呼んだ。  透。  そこから先は、まだ聞こえない。  店の奥では、修理を終えた古い扇風機がゆっくり首を振っている。千鶴は帳場で伝票をまとめていた。  「透さん」  「何」  「それ、さっきから同じところ拭いてます」  透は手元を見る。  作業台の上を雑巾で拭いていたはずが、右端だけ妙にきれいになっていた。  「考え事?」  「ああ」  「進んでます?」  「全然」  「じゃあ、そこ拭くの一回やめたほうがいいですよ」  透は雑巾を流しへ置いた。            ※  昼過ぎ、梶が来た。  今日は野菜ではなく、空になった麦茶の瓶を取りに来ただけだった。  「また作るんですか」  「返せ言われた」  「誰に」  「瓶くれた人に決まっとるやろ」  透は聞くのをやめた。  梶が冷蔵庫から瓶を出しているあいだ、透は机へ座った。  「梶さん」  「なんや」  「預かった言葉を、別の人に預けたことってあります?」  瓶を持ったまま、梶が振り返った。  「なんの話や」  「そのままです」  「わしが預かり屋やったことあるように見えるか」  「爺ちゃんから聞いたことは?」  「ない」  梶は瓶を机へ置いた。  「なんで急にそんなこと訊く」  透は少し迷ってから答えた。  「母さんの言葉かもしれないものが、俺の中に残ってる」  梶の顔から、いつもの雑な調子が消えた。  透は港で戻った記憶を話した。  母が自分の前にしゃがんだこと。  最初に「透」と呼んだところまで思い出したこと。  その先だけが、今もないこと。  梶は途中で何も言わなかった。            ※  「宛先は、あんたやと思っとるんか」  「たぶん」  「たぶんか」  「まだ全部思い出してないから」  梶は椅子へ座った。  「ほな、決めつけんほうがええ」  「わかってる」  透は頷いた。  「でも、母さんが俺を見て言ったことまでは戻った」  梶は返事をしなかった。  透は続ける。  「もし俺宛てなら、今までのやり方じゃ出てこない」  言葉を持っているのも透で、受け取るのも透になる。  これまでの依頼では、預かり屋と宛先は必ず別にいた。  「それで、誰かに預け直すんか」  梶が言った。  「できるかは知らない」  「俺も知らん」  「ですよね」  梶が眉を寄せる。  「変なこと試して、なくしても知らんぞ」  「そうなんだよ」  そこが一番引っかかっていた。  十五年前から残っていたのだとすれば、今になって自分の判断で消してしまうわけにはいかない。  梶はしばらく考えていたが、やがて言った。  「自分の言葉は預けられん。それは聞いとるな」  「ああ」  「なら、そこだけ間違えるな」  透は梶を見る。  梶はそれ以上説明しなかった。            ※  自分の言葉は預けられない。  祖父から教わった掟の一つだった。  透はその言葉を、夕方まで何度か考えた。  もし自分の中に残っているものが母の言葉なら、それは透自身が作った言葉ではない。  桑島の言葉を抱えていても、桑島の言葉が透のものになるわけではない。  ハルから預かった一言も同じだった。  持っている人間と、言った人間は別にいる。  そこまで考えて、透は電話を取った。            ※  仕事帰りの楓が便利堂へ来たのは、日が傾き始めたころだった。  「何かありました?」  「相談」  楓は少し意外そうな顔をした。  「透さんから?」  「俺だって相談くらいするよ」  「しますけど、大体もう半分決めてから呼びますよね」  否定できなかった。  奥で伝票を書いていた千鶴が笑う。  透は楓を来客用の椅子へ座らせた。            ※  母の記憶が少し戻ったことから話した。  楓は以前と同じように、途中では口を挟まなかった。  「透さん、って呼んだんですね」  「ああ」  「そのあとは?」  「まだ」  「じゃあ、宛先が透さんっていうのも」  「確定はしてない」  透は答えた。  「ただ、俺に向かって言ったのは間違いないと思う」  楓は少し考えた。  「それで相談って?」  透は机へ両手を置いた。  「もし、俺が持ってるのが母さんの言葉なら、別の人に預けられないかと思ってる」  楓の眉が動いた。  「預け直す?」  「うん」  「そんなことできるんですか」  「知らない」  「梶さんは?」  「知らない」  「お祖父さんの記録は?」  「ない」  楓は透を見た。  「何もわかってないですね」  「それは梶さんにも言われそう」  「言われてないんですか」  「似たようなことは」            ※  透は祖父の掟について話した。  自分の言葉は預けられない。  だが、母の言葉なら透自身の言葉ではない。  だからといって、別の人へ移せると決まったわけでもない。  楓はしばらく黙っていた。  「誰に預けるつもりです?」  透は楓を見る。  「楓」  「私?」  「ああ」  返事はすぐには来なかった。  「なんで私なんですか」  透は少し考えた。  「十五年前のことを知ってるから、ではないな」  「違うんですか」  「それなら黒瀬さんでも梶さんでもいい」  楓は続きを待った。  「頼めると思ったから」  それだけ答えた。  楓はしばらく透を見たあと、椅子の背へ身体を預けた。  「重い頼み方しますね」  「嫌ならいい」  「そこで急に軽くしないでください」  透は口を閉じた。            ※  千鶴が帳場から顔を上げた。  「私、裏にいますね」  「別にいていいよ」  「私が気まずいので」  そう言って奥へ消えた。  楓はその背中を見送ってから、もう一度透へ向き直った。  「もし預かれたら、そのあとどうするんです?」  「わからない」  「またそれ」  「でも、俺が宛先なら」  透はそこで言葉を選んだ。  「俺以外の誰かが持ってくれれば、少なくとも今までと同じ形にはなる」  預かる者がいて、その前に宛先がいる。  そこから先は、今までの仕事で何度も経験している。  ただし、本当に母の言葉なのか。  楓へ移せるのか。  何が起こるのか。  どれも試してみなければわからない。  「怖くないんですか」  楓が訊いた。  透はすぐには答えなかった。  「怖いよ」  楓は頷いただけだった。  「それでもやる?」  「ああ」            ※  店を閉める時間になり、千鶴が表の札を裏返した。  楓はまだ椅子に座っていた。  「今日やります?」  透は考えてから首を横へ振った。  「もう一回、俺の記憶を確かめたい」  「わかりました」  楓は立ち上がった。  玄関で靴を履き、戸を開ける前に振り返る。  「透さん」  「何」  「預かれるかどうかは知りませんよ」  「ああ」  「でも、やるなら付き合います」  透は頷いた。  楓はそれ以上言わずに帰っていった。  外では祭りの太鼓が鳴っている。  透は戸を閉め、鍵を掛けた。

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