MIYA / 第73話

第55話 榊透

 翌朝、便利堂へ網戸が一枚持ち込まれた。  下の戸車が外れ、枠も少し歪んでいる。  透は店先へ新聞紙を敷き、その上に網戸を寝かせた。  「今日中にいける?」  持ってきた老人が訊く。  「これなら昼までには」  「助かるわ。夜、蚊が入ってかなわん」  「夕方に持っていきます」  老人を見送ってから、透はドライバーを取った。  昨日までとは違い、今日は時計を見る必要がない。  宮下ハルから預かった言葉は、もう自分の中にはなかった。  トヨへ届いた。  透は戸車を留めているねじを外した。            ※  外したねじが一本、指先から落ちた。  拾おうとして工具箱へ肘を当てる。  蓋が開き、金属の工具が床へ散った。  大きな音に、奥から千鶴が顔を出した。  「何壊したんですか」  「壊してない」  「その音で?」  「工具箱倒しただけ」  千鶴は足元まで転がってきたスパナを拾った。  透もしゃがんでドライバーを集める。  「すみません」  千鶴が手を止めた。  「私に?」  「いや」  「じゃあ誰に謝ったんですか」  透は倒れた工具箱を起こした。  「工具箱」  「昨日までの疲れ残ってません?」  「大丈夫」  千鶴はまだ何か言いたそうだったが、拾ったスパナを箱へ戻した。  透も作業へ戻る。  「すみません」は言える。  けれど、「ごめん」は今も出てこない。  桑島の言葉を腐らせてから、そこだけは変わっていなかった。            ※  昼前には網戸が直った。  透は何度か滑らせ、戸車が引っかからないことを確かめた。  千鶴が昼食を買いに出ているあいだ、透は奥の棚を開けた。  祖父の古い控え帳を取り出す。  開いたのは十五年前の夏だった。  八月から九月にかけて、仕事の記録が途切れている。  以前は何かを隠すための空白なのではないかと疑ったこともあった。  今見ると、そこにあるのは何も書かれていない頁だけだった。  両親が亡くなったあと、祖父は十二歳の透を引き取った。  仕事が止まっていたとしても不思議ではない。  透は頁をめくった。  名前も、説明もない。  母の言葉について祖父が何を知っていたのかも、帳面からはわからなかった。  棚へ戻そうとしたところで、店の戸が開いた。            ※  来たのは梶だった。  胡瓜の入った袋を片手に下げている。  「またですか」  「何がや」  「野菜」  「もろたんやからしゃあない」  梶は台所へ向かいかけ、透が持っている控え帳を見る。  「何見とる」  「十五年前」  梶はそれ以上訊かなかった。  冷蔵庫へ胡瓜を入れてから、いつもの椅子へ座る。  透も帳面を机へ置いた。  「梶さん」  「なんや」  「前に言ってたやつ、もう一回聞いていいですか」  「どれや」  「爺ちゃんの言葉です」  梶が眉を寄せる。  「届かなかった言葉が、次を作ることがあるって」  「ああ」  「それ、本当にそれだけ?」  「それだけや」  「どういう意味かは?」  「知らん」  梶の返事は変わらなかった。  透は帳面へ目を落とした。  「俺が預かり屋になった理由、爺ちゃんから聞いたことないんですよね」  「ない」  「俺の親が死んだあとも?」  「ない」  梶はそこで湯呑みを取った。  まだ何も入っていない。  「何か思い出したんか」  透はすぐには答えなかった。  「まだ、途中です」  「ほな途中で決めるな」  「わかってる」  梶は自分で麦茶を取りに立った。  透は控え帳を閉じた。            ※  千鶴が戻ってから、透は網戸を届けに出た。  老人の家で取り付けまで済ませ、便利堂へ戻る道を途中で変えた。  向かったのは港だった。  昼を過ぎた海は穏やかだった。  岸壁では釣りをしている人がいる。少し離れたところで、親子が小さなバケツを覗き込んでいた。  黒瀬から十五年前の話を聞いた倉庫の近くまで歩く。  そこで透は足を止めた。  ここから両親は一度目の舟を出した。  三人を乗せて戻り、そのあともう一度港を離れた。  その二度目からは帰ってこなかった。  透は海ではなく、岸壁の足元を見た。  しばらくして目を閉じる。            ※  雨の音がした。  今の港ではない。  十二歳だった夜の断片だった。  大人の声が重なる。  岸へ舟がぶつかる。  濡れた人が降りてくる。  誰かが走っていく。  その向こうから、一人の女がこちらへ来る。  母だった。  髪も服も濡れている。  透の前でしゃがみ、両手を伸ばす。  頬へ触れた手が冷たい。  そこまでは以前から浮かんでいた。  母の口が動く。  何かを言ったこともわかっている。  透はその口元だけを見た。  一度開く。  閉じる。  もう一度動く。  何度も見てきた動きだった。  家の中で。  店の前で。  遠くから呼ばれたときにも。  透は目を開いた。  もう一度閉じる。  母の口元が動く。  今度は、音が一つだけ戻った。  「……透」  自分の声で呟いた。            ※  透は目を開けた。  海は変わらず穏やかだった。  母は自分の前にしゃがんでいた。  自分を見ていた。  最初に呼んだのは、自分の名前だった。  その先の言葉はまだ出てこない。  透は岸壁から少し離れた。  祖父は、その名前を声にできなかった。  透。  文字なら書けても、祖父の口からは一度も聞かなかった名前だった。  その名前を母は、最後の夜に口にしている。  透は喉へ触れなかった。  今、自分の中で何かが動いたわけではない。  ただ、十五年間欠けていた場面に、一つだけ音が戻った。            ※  便利堂へ帰ると、千鶴が帳場で伝票を書いていた。  「遅かったですね」  「港寄ってた」  手が止まる。  「また?」  「うん」  透は財布と鍵を机へ置いた。  千鶴は理由を訊かなかった。  代わりに、冷蔵庫を指す。  「梶さんの胡瓜、増えてます」  「見た」  「今日持って帰ってくださいよ」  「千鶴も持って帰れば」  「昨日も茄子もらいました」  透は椅子へ座った。  少しして千鶴が訊く。  「何か思い出しました?」  透は机の木目を見る。  「母さん、俺の名前呼んでた」  千鶴の手が止まった。  「透さんって?」  「ああ」  それだけ言うと、店の外から太鼓が聞こえた。  千鶴はしばらく黙っていた。  「じゃあ、そのあとに言ったことって」  透は顔を上げた。  「まだわからない」  「そうですか」  千鶴は伝票へ目を戻した。  透もそれ以上は話さなかった。            ※  夕方、店を閉める前に、透は一人で机に座っていた。  母が最後に話した相手は、十二歳の自分だった。  少なくとも、その場面ではそうだった。  透は祖父の言葉を思い出す。  届かなかった言葉が、次を作ることがある。  意味は今もわからない。  母の言葉と、自分が預かり屋になったことが本当につながっているのかも決められない。  ただ、これまで一つだけ違う方向を探していた可能性があった。  透は閉店札を出すために立ち上がった。  店の戸へ手を掛けたところで、もう一度だけ母の口元が浮かんだ。  透。  その先は、まだ聞こえなかった。

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