MIYA / 第18話

第18話 知らないでいる権利

 役場の裏にある自動販売機の前で、楓は買った缶コーヒーを開けずに持っていた。  昼休みは半分ほど残っている。建物の裏手は来庁者がほとんど通らず、ときどき職員が駐車場へ向かうくらいだった。  透が話し終えても、楓はすぐには口を開かなかった。  竹岡実が庭で倒れたこと。最後に「かあちゃん、こたつ、出しといて」と残したこと。その母親であるハツには、実の死が伏せられていることまで話した。  楓は缶の底を膝へ当てた。  「私は、届けないほうがいいと思います」  透が予想していたより、迷いのない声だった。  「佳代さんが勝手に隠してるだけなら、また話は違います。でも、ハツさんは実さんが倒れたところを見ただけで具合を崩したんですよね」  「うん」  「お医者さんからも負担を避けるよう言われてる。それで家族が相談して、今は知らせないと決めてるなら、透さんが外からひっくり返すのは違うと思います」  楓はようやく缶のプルタブを起こした。小さく炭酸のような音がしたが、飲まずに手元へ戻す。  「でも、息子が亡くなったことだぞ」  「わかってます」  「ハツさん自身は、知らないままでいたいって言ったわけじゃない」  「知りたいとも言ってません」  透は黙った。  楓は少し考えてから続けた。  「知る権利ってあると思います。でも、だから何でも本人に知らせればいい、とは思わないです。知らないで過ごしている時間まで、外の人が勝手に取り上げていいんですか」  自動販売機の冷却機が動き始め、二人の間に低い音が入った。  透には答えがなかった。  佳代の判断を聞いたときから、同じところを行き来している。  「楓。もう一つある」  「何です?」  「俺が届けない場合の話」  楓がこちらを見る。  「俺には、ハツさんの前に立って、それでも言わないっていう選び方ができない。本人の前へ行けば、実さんの言葉は勝手に出る」  「じゃあ行かなければ」  「七日を過ぎる」  「過ぎたら、腐るんでしたっけ」  透は頷いた。  楓には預かり屋について何度か話してきたが、その先まで詳しく説明したことはなかった。  「腐った言葉は中に残る。それと引き換えみたいに、俺が使ってた言葉が一つ出なくなる」  楓が缶を持ち直した。  「何がなくなるかは?」  「わからない」  「戻るんですか」  「爺ちゃんは戻らなかった」  楓は缶コーヒーをベンチの横へ置いた。  「それ、ずるいですね」  「俺が?」  「違います」  返事はすぐに来た。  「その仕組みです。届けないほうがいいって言ったら、今度は透さんにそれを持てって言ってるみたいになる」  透は何も言わなかった。  楓はしばらく駐車場を見ていたが、やがて缶を取り上げて一口だけ飲んだ。  「でも、私は意見を変えません」  「うん」  「ハツさんには、今は知らせないほうがいいと思います」  「わかった」  「納得しました?」  「してない」  楓が透を見た。  「そうですか」  それだけ言って、もう一度コーヒーを飲んだ。  昼休みが終わる少し前に、楓は立ち上がった。  「答え出なかったですね」  「出ると思って来てないよ」  「なら、なんで私に聞いたんです?」  「違う意見が欲しかった」  楓は少し眉を寄せた。  「それ、最初に言ってくださいよ」  「言ったら違う意見にならないだろ」  「透さん、そういう面倒なところ昔からありますよね」  楓は空になった缶を回収箱へ入れ、役場へ戻っていった。            ※  夕方、梶が便利堂へ来た。  千鶴が麦茶を出すと、梶はいつもの湯呑みに注がれた中身を見てから、何も言わずに口をつけた。  「梶さん、訊いていいですか」  千鶴が向かいへ座る。  「内容による」  「届けたら、受け取った人が困るかもしれないときって、どうしてたんです?」  梶の手が止まった。  透から竹岡家の話は聞いている。しばらく湯呑みの中を見ていたが、すぐには答えなかった。  「知らん」  「知らないんですか」  「わしは預かったことない言うたやろ。あの人がどう考えとったかも、全部聞いとるわけやない」  千鶴は「そっか」と言い、麦茶の容器を冷蔵庫へ戻した。  梶はその背中を見送ってから、透へ向き直った。  「ただな。あの人、四十年やって一遍だけ、自分でしくじった言うたことがある」  透は梶を見る。  「爺ちゃんが?」  「ああ」  「何を?」  「言わんかった」  梶は湯呑みを畳へ置いた。  「わしが聞いても、そこは話さんかった。何を預かったんか、誰に届ける話やったんか、それもな」  透の頭に、三十二年前の控え帳が浮かんだ。  持越。  けれど、それと同じ一件なのかを梶に確かめる材料はない。  「そのあと、爺ちゃんはどうしてた?」  「いつも通りや」  「いつも通り?」  「仕事行って、帰って、飯食って寝る。次の日も仕事や」  梶は空になった湯呑みを千鶴の方へ滑らせた。  「しくじったからいうて、誰かが正解教えてくれる仕事やないんやろ」  「重いこと言った直後に、洗い物こっち寄こさないでもらえます?」  千鶴が湯呑みを持ち上げた。  「話終わったんやからええやろ」  「自分で洗う選択肢ありますよ」  「ない」  「あります」  梶は聞こえないふりをした。            ※  梶が帰ったあと、透は竹岡家の作業伝票を机へ出した。  剪定はまだ半分残っている。佳代からも続きを頼まれているので、便利堂の仕事として行く理由はある。  ただ、事情を伏せたまま庭へ入れば、ハツと顔を合わせたところで終わる。  実の言葉が出れば、取り消せない。  千鶴が流しで湯呑みを洗いながら言った。  「透さん、明日行くんですか」  「このままでは行かない」  「じゃあ休む?」  「佳代さんに会う」  水道の音が止まった。  千鶴が振り返る。  「何て言うんです?」  「実さんから預かったことは話す。期限があることも」  「言葉の中身まで?」  透は少し考えた。  「そこは、まだ決めてない」  佳代は母へ知らせないと決めている。  その判断を無視してハツへ近づくことはしたくなかった。それでも、自分が何を抱えているのかを伏せたまま、佳代の判断だけを受け入れるのも違う気がした。  「佳代さん、怒るかもしれませんよ」  「そうだろうな」  「断られたら?」  透は作業伝票の日付を見た。  「そのとき考える」  千鶴が露骨に嫌そうな顔をした。  「それ、全然決まってないじゃないですか」  「決まってないよ」  今回は、それしか言えなかった。            ※  翌朝、佳代へ連絡する前に、透は楓へ電話をかけた。  昨日とは逆で、すぐにつながった。  『どうしました?』  「佳代さんに話してくる」  『何をです?』  「俺が実さんの言葉を持ってることと、期限のこと。黙って庭に入るのはやめる」  電話の向こうで少し間があった。  『そうですか』  「楓が言ってたことを聞くなら、それしか思いつかなかった」  『私のせいにしないでくださいよ』  「してない」  『半分くらいしてます』  いつもの調子に近い声が返ってきた。  それから楓が訊いた。  『何時に行くんです?』  「十時に会う」  『私も行きます』  透は受話器を持ち直した。  「仕事は?」  『休み取ります』  「そこまでしなくていい」  『昨日あれだけ言ったんです。途中だけ聞いて、あとは知りませんって戻る方が嫌です』  楓は少し間を置いた。  『それに、私はまだ届けない方がいいと思ってますから』  「わかってる」  『なら十時ですね』  電話はそこで切れた。  透は受話器を置き、机の上にあった竹岡家の伝票を裏返した。  佳代との約束までは、あと一時間あった。

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