MIYA / 第17話

第17話 入れない家

 竹岡家の門の前まで来て、透はインターホンを押せずにいた。  庭の生垣は、三日前に途中まで刈ったままになっている。山茶花の高さが門を境に少しずれており、その奥から金木犀の匂いが流れてきた。  玄関へ続く敷石に足を乗せるだけなら簡単だった。  けれど門の近くまで来たころから、喉の奥に小さな引っかかりがある。  ハツは家にいる。  姿を見てはいない。それでも、この先へ進めば言葉が出るかもしれないという感覚だけはあった。  透はポケットの中で手を握り、また開いた。  期限までは、もう四日を切っている。  それでもインターホンには触れず、門から離れた。  軽トラへ戻って運転席に座る。フロントガラスの向こうには、途中まで揃った生垣が見えていた。            ※  三日前、透はその庭で松の|剪定《せんてい》をしていた。  竹岡家からは毎年秋になると庭仕事を頼まれる。松と椿を整え、生垣の山茶花を刈る。全部やれば一日では終わらないので、例年二日に分けていた。  脚立の上で伸びすぎた枝を探していると、縁側から声が飛んできた。  「榊さん。上、あんまり切らんといてね」  「切りすぎませんよ」  「去年、切ったやろ」  「去年も同じこと言われました」  「ほな今年は気いつけて」  竹岡ハツは八十一歳だった。  半年前から心臓を悪くしており、以前のように庭へ出ることは減ったらしい。それでも透が仕事に来ると、縁側へ座って時々口を出す。  十時を回ったころ、庭先に車が入ってきた。  降りてきた男を見て、ハツが縁側から声を上げる。  「実。今日来るなんて言うとらんかったやろ」  「言うたら掃除するやろ、かあちゃん」  男は後部座席から紙袋を取り出した。  竹岡実、五十二歳。ハツの息子で、町を離れて長いが、ときどき実家へ戻っている。透も何度か顔を合わせたことがあった。  実は庭に脚立があるのを見て、透へ手を上げた。  「榊さんとこの。毎年悪いね」  「仕事なので」  「かあちゃん、ほかの人やと文句言うから」  「そんなこと言うてません」  すぐに縁側から声が返り、実が笑った。  透も枝へ目を戻した。  それから二十分もしないうちだった。  実は車へ何かを取りに戻り、庭を横切る途中で足を止めた。片手を胸元へやったあと、身体が前へ傾く。  透は剪定鋏を置き、脚立を降りた。  最後の一段を飛ばして地面へ着く。  「竹岡さん」  実は横向きに倒れていた。  呼びかけると目は開いたが、返事がうまく続かない。透はすぐに一一九番へ電話し、場所と状況を伝えた。  「実?」  背後からハツの声がした。  縁側から立とうとしている。  「ハツさん、そこにいてください」  「何があったん」  「救急車を呼びました。立たなくていいです」  透は実から目を離さなかった。  ハツは結局、縁側まで出てきたものの、柱に手をついたところで動けなくなった。騒ぎを聞いた近所の人が門から入ってきたので、透はハツを家の中で休ませてほしいと頼んだ。  玄関が閉まったあとも、ハツの声が何度か聞こえた。  実の呼吸は、その間に少しずつ弱くなっていった。  透は通報先から言われたことを続けながら、救急隊を待った。  やがて実の唇が動いた。  声として耳へ届いたわけではない。  それでも透には聞こえた。  「かあちゃん、こたつ、出しといて」  実の声だった。  庭で話していたときより若く聞こえたが、その理由を考える暇はなかった。言葉は透の喉を通り、そのまま胸の奥へ収まった。  玄関の向こうから、ハツが実の名前を呼んでいる。  透はそちらを振り返らなかった。  救急隊が庭へ入ってきた。            ※  翌日の夕方、妹の佳代から連絡があった。  待ち合わせたのは町外れの喫茶店だった。四十九歳になる佳代は、透が席へ着いたときからコーヒーにほとんど手をつけていなかった。  「榊さん。昨日、兄のそばにいましたよね」  「はい」  「何か言いましたか」  透はすぐには答えなかった。  佳代が何を知っているのか確かめる前に、預かった言葉をこちらから話すつもりはなかった。  「母には、兄が亡くなったことを言ってません」  透は佳代を見る。  「ハツさん、倒れるところは見てましたよね」  「見てます。でも、そのあと母も具合を崩して、近所の人に家の中へ連れていってもらったでしょう。兄はそのまま病院に運ばれたと話してあります」  佳代はカップの取っ手を指でなぞった。  「母は、兄が入院してると思ってます」  「いつまで隠すんですか」  「わかりません」  答えは早かった。  「主治医から、できるだけ大きな負担をかけないように言われています。兄が倒れた日も、あれだけでかなり具合を崩しました」  佳代はそこでコーヒーを一口飲んだ。  「今日、兄の葬儀を済ませました。母は連れていってません」  透は何も言わなかった。  「ひどいでしょう」  「俺が決めることじゃないです」  「そう言うと思いました」  佳代は窓の外を見た。道路を走る車の音が、ガラス越しに小さく聞こえる。  「母は兄が帰ってくると思ってます。入院が終わったら、また来るって」  透の胸には、実の声が残っていた。  こたつ、出しといて。  「榊さん」  佳代がこちらへ向き直る。  「もし兄が何か残してたとしても、母には言わないでください」  透は返事をしなかった。  佳代も急かさなかった。  しばらくして、別の話をするような口調で言った。  「庭の続き、来てもらえますか」  「庭?」  「母が気にしてるんです。榊さん、途中で帰ったから。兄のことで仕事止めさせたって」  「行くのは構いません」  「じゃあ、お願いします」  佳代は伝票を書くような調子で日時を決め、その日は別れた。            ※  約束した朝になって、透は竹岡家まで来た。  だから門の前にいる。  庭の仕事は残っている。依頼も受けている。  入らない理由は、本来ならなかった。  透はもう一度軽トラを降り、荷台から脚立を下ろしかけた。  門の向こうで、玄関の戸が開く音がした。  「榊さん?」  ハツの声だった。  透の手が止まった。  姿はまだ見えない。  「来てくれたん?」  透は脚立を荷台へ戻した。  「すみません、ハツさん。道具一つ忘れました」  「そうなん。ほな待っとるよ」  「はい」  透は運転席へ戻り、エンジンをかけた。  忘れた道具などなかった。  便利堂まで戻ると、途中まで書いていた竹岡家の作業伝票が机の上に残っていた。  透はその横へ控え帳を置いたが、開かなかった。

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