MIYA / 第8話

第8話 ごめんね

 六〇一号室の前に、男が立っていた。  六十歳前後だろう。背広の上着を腕に掛け、白いシャツの袖を肘までまくっている。目元にトキと似たところがあり、透は次男の康夫だろうと思った。前に川辺から、息子二人が交代で泊まりながら見舞いに来ていると聞いている。  「どちらさんですか」  「便利堂の榊です。立花さんに呼ばれて来ました」  康夫は作業着姿の透を見たが、問い返すより先に病室から声が届いた。  「康夫。榊さん入れてあげて」  昨日までより細い声だった。それでも廊下までは通っている。  康夫は戸を少し開けてから、透へ道を譲った。  「母が呼んだなら、どうぞ。僕は下にいます」  「すみません」  「いえ。何かあったら呼んでください」  会釈をして歩いていく背中を見送り、透は病室へ入った。  トキは枕を高くして横になっていた。昨日まで自分で読んでいた新聞は、今日は床頭台の上で畳まれている。  「来ましたね」  「はい」  「康夫、素直でしょう」  「そうですね」  「昔から、言うたことはよう聞く子でした」  トキはそこで息を整えた。昨日より声が続かず、長く話すたびに休みが入る。  透は丸椅子をベッドの脇へ寄せた。  「今夜は、ここにいます」  「好きにしなさい」  トキは目を閉じてから、口元を少し緩めた。  「言うときが来たら、ちゃんと言います。名前は最後まで言わんかもしれませんけど」  「わかりました」  透はそれ以上踏み込まなかった。  やがてトキが、目を閉じたまま話し始めた。  「うちの人のときも、お爺さんがそばにおりました」  「爺ちゃんが?」  「三日くらいやったかな。うちの人がもう長くない言われてから、毎日来てくれました。三日目の晩に言葉を預かって、そのあと私のところへ来たんです」  「それで、届いた」  「ええ。玄関で顔を合わせたら、挨拶より先に出ました」  トキは息を一つ吐いた。  「何を言われたかは、あんたには教えませんよ」  「訊きません」  「そこも似てきましたね」  透は丸椅子に座ったまま、病室の時計を見なかった。            ※  夜十時を過ぎたころ、透は千鶴を帰した。  「あたし、残れますよ」  「明日、乾物屋の配達あるだろ」  「ありますけど、朝からじゃないです」  千鶴は待合の椅子から立ったものの、その場ですぐには鞄を持たなかった。  「透さんは、こういうの平気なんですか」  「こういうのって?」  「人が亡くなるところにいるの」  透は病室の閉じた戸を見た。  「平気ではないよ」  千鶴は黙った。  「でも、帰るわけにもいかない」  「仕事だから?」  「それもある」  透はそれ以上うまく言えなかった。千鶴も答えを待ち続けず、鞄を肩へ掛けた。  「じゃあ帰ります。朝、また来ますから」  「寝てろ」  「それはそのとき考えます」  半年前のトキと似たことを言って、千鶴は廊下の向こうへ歩いていった。  深夜になると、康夫は診療所の仮眠室へ入った。夜勤の看護師に断りを入れ、透は病室の丸椅子へ戻った。  空調の低い音に、ときどき廊下を通るワゴンの車輪が重なる。別の部屋からナースコールが鳴るたび、看護師の足音が近づいては遠ざかった。  透は何度か姿勢を変えながら、トキが目を開けるのを待った。  祖父は、預かる仕事の大半は待つことだと言っていた。本人が何を残すかも、誰へ残すかも、こちらから決めるものではない。  夜が深くなってから、トキが目を開けた。  「榊さん」  「はい」  「うちの人ね、最後まで謝らん人でした」  声が小さくなっていたので、透は椅子を少し近づけた。  「一遍も謝らんかった。でも、それでよかったんです。あの人は、そういう人やったから」  トキは天井へ視線を向けたまま、浅く息をした。  「わたしは謝ります」  「立花さん」  「ずっと、そう決めてたんです」  そこで会話は途切れた。透は水差しの位置だけ確かめ、椅子へ座り直した。            ※  窓の外が白み始めるころには、トキの呼吸はかなり浅くなっていた。  掛け布団の上に出ていた手を戻そうとして触れると、指先は冷えていた。透が看護師を呼ぶべきか迷っているうちに、トキの唇がわずかに動いた。  声としては聞こえなかったが、透には届いた。  「ごめんね。あんたのこと、よう見てやれんかった」  診療所で話していたトキの声が、身体の内側から聞こえた。  透は何も言わずに待った。預かった言葉はゆっくり胸の奥へ沈み、やがて動かなくなった。  トキはもう一度息を吸ったあと、呼吸を止めた。  透はナースコールを押した。  看護師が入り、続いて医師と康夫が来る。透は邪魔にならないよう廊下へ出て、窓際の長椅子に座った。  ほどなく医師が死亡を確認した。  透は壁の時計を見て、言葉を預かった時刻だけを覚えた。期限はここから七日になる。            ※  康夫が病室から出てきたのは、空がすっかり明るくなってからだった。  目の周りは赤かったが、透を見つけると足を止めて頭を下げた。  「榊さん、でしたね。最後まで母のそばにいてくださって、ありがとうございました」  透も立って頭を下げた。  「いえ」  康夫は病室を振り返ってから、少し迷うように口を開いた。  「母は、最後に何か言いましたか」  トキから預かった言葉は、まだ透の胸の奥にある。康夫と向かい合っていても、喉には何の変化も起きなかった。  「最期は、静かでした」  康夫はうなずいた。  「そうですか」  少しして「あの人らしいです」と付け加え、病室へ戻っていった。  透は廊下を歩きながら、今のやり取りを考えた。  康夫の前で言葉は出なかった。喉が動くこともなかった以上、トキが託した「あの子」が康夫だとは考えにくい。  診療所の玄関を出ると、階段の端に千鶴が座っていた。膝の上には、乾物屋の名前が入った紙袋がある。  「寝てろって言っただろ」  「寝ましたよ。ちょっとだけ」  「配達は?」  「おじいちゃんが午前中だけ代わってくれました」  千鶴は立ち上がり、紙袋を差し出した。  「おにぎり。食べます?」  「あとで」  「立花さんは?」  透が首を横へ振ると、千鶴は紙袋を持ったまま黙った。  二人で軽トラまで歩いたところで、千鶴が訊いた。  「言葉、預かりました?」  「うん」  「宛先はわかったんですか」  「康夫さんじゃないと思う」  「じゃあ、園田さん?」  透は運転席の扉を開けた。  「今わかってる中では、あの人だけだ」  千鶴は助手席へ回った。  透はエンジンをかける前に、ダッシュボードの時計を確認した。美容室が開くまでには、まだ少し時間があった。

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