MIYA / 第37話

第37話 生きている依頼人

 浦上家への報告を終えてから、便利堂には普段の仕事が戻っていた。  朝は外の蛇口へ巻いた保温材を直し、昼には雨樋へ上る。庭木の霜よけも何軒か残っており、預かり屋より便利屋として外にいる時間のほうが長かった。  その朝、透は店先で脚立の泥を落としていた。  事務所では千鶴が郵便物を仕分けている。  「透さん、電気代来てますよ」  「机に置いといて」  「あと、資材屋さんからも」  「それは見せて」  「反応違いません?」  透は雑巾を置いて中へ入った。  千鶴が差し出した封筒には、先月使った木材と金具の代金がまとめてある。支払日を確かめていると、店の前で車が止まった。  千鶴が窓から覗く。  「お客さんですかね」  「たぶん」  ほどなく戸が開いた。  入ってきた男は、濃い色の上着を着ていた。白髪は短く整えられ、店内へ入ると古い看板を一度見てから透へ頭を下げた。  「榊さんでいらっしゃいますか」  「はい」  「|黒瀬巌《くろせいわお》と申します」  透には聞き覚えのない名前だった。  千鶴は顔を知っているらしく、郵便物を揃えていた手を止めた。  「今日は、便利堂のご依頼ですか」  透が訊くと、黒瀬は首を横へ振った。  「預かり屋のほうへ参りました」  透は持っていた封筒を机へ置いた。            ※  千鶴が茶を出し、店の奥へ下がった。  黒瀬は座布団へ正座したまま、湯呑みにはすぐ手をつけなかった。  「どなたかが亡くなりそうなんですか」  「いいえ」  「では?」  「予約をお願いしたいのです」  透は黒瀬を見る。  立花トキも、生前に便利堂へ来た。  自分が死ぬとき、呼びに来るよう家族へ頼んでおく。そうして半年後、実際に透は呼ばれた。  「ご病気ですか」  「いえ」  「余命を言われているわけでもない?」  「ありません」  黒瀬の声にも呼吸にも、弱っている様子はなかった。  「いつになるかわかりませんよ」  「承知しています」  「そのとき俺が町にいるとも限りません」  「それも承知しています」  黒瀬はそこで茶を一口飲んだ。  「来られる状況でしたら、お願いしたい。それだけです」  頼み方だけを見れば、珍しいものではない。  透が気になったのは、そのあとのことだった。  「預かった言葉には七日の期限があります」  「存じています」  透の目が黒瀬へ戻る。  黒瀬は続けた。  「一度に預かれるのは一つ。届け先本人の前へ行かなければ、最後までは出ない。それも聞いております」  説明する必要がなかった。  町には預かり屋のことを知る人間がいる。白木や梶のように祖父から直接聞いた者もいれば、家の中だけで伝えている者もいる。  ただ、黒瀬の知識は噂にしては細かかった。  「誰から聞いたんです?」  黒瀬は湯呑みを置いた。  「先代です」  透は返事を待った。  「以前、一度だけお世話になりました」  「爺さんに?」  「はい」  「預かり屋としてですか」  黒瀬は頷いた。  それ以上は話さない。  透が待っても、黒瀬は茶へ目を落としたままだった。  「いつの話です?」  「十六年前です」  透はそこで初めて机のメモへ手を伸ばした。  十六年前なら、祖父はまだ生きている。  「何を預かったんです?」  「それは、今はお話しできません」  「届けてもらった側ですか。それとも預けた側?」  黒瀬は少し考えてから、首を横へ振った。  「そこも含めて、今は」  透は鉛筆を置いた。  無理に聞き出す理由はない。  黒瀬は現在、何も預けていない。            ※  「今回の宛先についても、今は申し上げられません」  黒瀬のほうから言った。  透は頷いた。  「なら、今ここで俺ができるのは連絡先を預かるくらいです」  「それで結構です」  「呼ばれたときに受けられるかは、そのとき決めます」  黒瀬の目が透へ向いた。  「事情を聞いて、俺には無理だと思ったら断るかもしれません」  「承知しました」  返事は変わらなかった。  黒瀬は内ポケットから紙を一枚出した。住所と電話番号、それに家族へ連絡してある番号が書かれている。  透は紙を受け取った。  「十六年前の件と、今回の予約は関係あるんですね」  「あります」  「どういう関係です?」  「まだ、お話しできません」  同じ返事だった。  黒瀬は誤魔化すために別の話へ移ることもしなかった。  言わないところだけを決めている。  「先代にも、同じように話さなかったんですか」  透が訊くと、黒瀬は初めて少し考えた。  「いいえ」  「爺さんには話した?」  「当時は」  その先は続かなかった。  黒瀬は湯呑みの茶を飲み切り、座布団から立った。  「榊さん」  「はい」  「今、答えをいただく必要はありません。呼ぶことがあれば、そのとき改めて判断してください」  「わかりました」  黒瀬は頭を下げた。  透も立って見送った。            ※  車が見えなくなると、千鶴が奥から出てきた。  「黒瀬さんでしたね」  「知ってる?」  「顔は。町の集まりで前のほうにいる人です」  「それだけ?」  「それだけです。うちのおじいちゃんのほうが詳しいと思いますけど」  千鶴は空になった湯呑みを盆へ戻した。  「何の依頼だったんです?」  「予約」  「立花さんみたいな?」  「ああ」  「元気そうでしたけど」  「本人もそう言ってた」  透は受け取った紙を見た。  黒瀬巌。  住所と二つの電話番号だけが、整った字で並んでいる。  「十六年前に爺さんへ頼んだことがあるらしい」  千鶴が湯呑みを持ったまま止まった。  「何を?」  「言わなかった」  「訊かなかったんですか」  「訊いたよ」  「言わなかった?」  「ああ」  千鶴は盆を持ち直した。  「調べるんです?」  透は紙を折らずに机へ置いた。  少し前なら、祖父の控え帳を棚から出していたかもしれない。  けれど黒瀬は、生きて自分の足でここへ来た。  言わないと決めていることを、本人の後ろから探る理由はまだない。  「今はやらない」  「気にならない?」  「気にはなる」  「ですよね」  千鶴はそれだけ言って流しへ向かった。  透は黒瀬の紙を、控え帳ではなく机の引き出しへ入れた。  まだ預かったものはない。  午後には雨戸の戸車交換が一件入っていた。透は資材屋から届いた封筒を開き直し、請求額を伝票へ写した。

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