MIYA / 第28話

第28話 腐る

 六日目の朝、透はもう一度、慰霊会の世話人へ電話をかけた。  マリアの墓がどこにあるのか、何か聞いていないかと尋ねたが、返事はなかった。桑島が探していた女性だということしか、世話人も知らない。  寺村にも電話した。  手紙を読んだとき、桑島から住所や墓の場所を聞かなかったか。  『聞いてないです』  寺村は申し訳なさそうに答えた。  『僕はあの手紙を読んだだけなんです。桑島さんも、それ以上は何も頼まれませんでした』  「わかりました」  電話を切る。  机には、ここ数日で書いた紙が何枚も広がっていた。  ブラジルにいたこと。毎年八月に慰霊会へ通っていたこと。マルリから届いた手紙を寺村に読んでもらったこと。マリアが八、九年前には亡くなっていたこと。  増えたのは、もう届かないとわかる材料ばかりだった。  桑島が指定した相手はマリアだ。  娘のマルリではない。  慰霊会にある碑でもない。  死んだ犬のマルへ届いたときのことを考えたが、あの一件はいまも理由がわからない。墓へ行けば死者にも届くなどと、誰からも教わってはいなかった。  そもそもマリアの墓がどこにあるのかも知らない。  透は電話帳を閉じた。            ※  夕方、常光寺へ行った。  白木は庫裏で茶を淹れていた。透を見ると、湯呑みをもう一つ出した。  「今日は何も持ってきてませんよ」  「俺も何も頼みに来てません」  「ほな、ちょうどええですね」  透は縁側へ座った。  桑島のことは、白木にも途中まで話してある。マリアがすでに亡くなっていたことまで伝えると、白木は急須を置いた。  「明日で七日です」  「そうですか」  「もう、間に合わないと思います」  白木は茶を飲んだ。  「和尚さんなら、どうします?」  「どうもせんです」  透は白木を見る。  「冷たいですね」  「できんことを、できる言うほうが冷たいでしょう」  白木は空になった湯呑みに茶を足した。  「榊さんは、もう探したんですよね」  「はい」  「ほな今日は飯食べて寝たらええです」  「それで明日になったら?」  「明日のことは明日です」  透は茶を一口飲んだ。  ぬるかった。            ※  七日目は朝から雨だった。  千鶴には今日は来なくていいと伝えてある。  理由を訊かれたが、「一人でいる」とだけ答えた。千鶴は電話の向こうで少し黙り、「わかりました」と言った。  透は事務所で普段の仕事をした。  先月分の伝票を束ね、雨樋掃除に使った道具を拭いた。昼前には湯を沸かし、棚に残っていた茶漬けで飯を済ませた。  何かしているあいだも、桑島の言葉は胸のあたりにあった。  「マリアに、うちは怒っとらんと言うといてくれ」  声として聞こえているわけではない。  それでも、預かっているあいだはそこにあるとわかる。  昼を過ぎても変わらなかった。  透は時計を見るのをやめた。            ※  午後になって、道具箱の蝶番へ油を差していたときだった。  手が止まった。  胸の内側にあった熱が消えている。  冷めたというより、場所が変わっていた。  桑島の言葉があったところには何もない。その代わり、もっと下の、自分では触れられない場所に重さが残っていた。  透は油差しを床へ置いた。  喉へ手を当てても、何も動かない。  桑島の言葉を思い浮かべることはできる。  マリアという名前も覚えている。  それでも、もう誰かの前であの声が出ることはないのだとわかった。  透は畳へ座った。  雨が窓を叩いていた。  しばらくして立ち上がり、油差しの蓋を閉めた。            ※  翌朝、千鶴は九時より少し前に来た。  傘を畳んで三和土へ置き、事務所にいる透を見た。  「終わりました?」  「ああ」  千鶴は靴を脱いだ。  「届かなかったんですね」  「うん」  それ以上は訊かず、窓を少し開けて空気を入れ替えた。雨上がりの冷たい風が入ってくる。  千鶴は流しへ行き、洗いかごに残っていた湯呑みを片づけ始めた。  透はその背中を見た。  昨日、来るなと言ったことを謝っておきたかった。  「千鶴」  「はい?」  「昨日は」  振り返った千鶴と目が合う。  その先の言葉が出なかった。  透は一度口を閉じた。  もう一度やってみる。  何を言いたいのかはわかっている。音も知っている。何度も使ったことのある、ごく普通の言葉だった。  それなのに声にならない。  「透さん?」  千鶴が流しから離れた。  透は口元へ手を当てた。  もう一度言おうとしたが、同じところで止まった。  千鶴はしばらく透を見ていた。  「なくなったんですか」  透は頷いた。  「いま言おうとした言葉?」  もう一度頷く。  千鶴が透の前まで来た。  「昨日、来るなって言ったこと?」  「ああ」  そこで千鶴はわかったらしく、小さく息を吐いた。  「じゃあ、今の分はあたしが言っときます」  透は顔を上げた。  千鶴はいつもの声で言った。  「ごめん」  透の口は動かなかった。  千鶴がもう一度、流しへ戻る。  「ほら、終わりです」  「終わりなのか」  「昨日の分は」  蛇口から水が出た。  透は椅子へ座ったまま、その音を聞いていた。            ※  昼前に宇野から電話があった。  桑島の親族と連絡がついたという。  『姪御さんがおられました。家のことも、これからそちらと話します』  「そうですか」  『例の手紙も、ご遺品として渡すことになると思います』  「わかりました」  宇野はそこで話を終えかけたが、少ししてから訊いた。  『榊さんが探しとった人は、見つかったんですか』  透は受話器を持ち直した。  「見つかりました」  『会えました?』  「いいえ」  それ以上、宇野は尋ねなかった。            ※  電話を置いたあと、透は控え帳を開いた。  桑島与一の名前を書き、預かった日を記す。  届け先を書く欄で手が止まった。  少し前の頁には、祖父が一度だけ残した「持越」の二文字がある。  透はそこを見たあと、桑島の頁へ戻った。  鉛筆を置く。  届け先の欄は空けたまま、帳面を閉じた。  「透さん、午後の霜よけ、二時からですよ」  千鶴が壁の予定表を見ながら言った。  「わかった」  透は立ち上がり、物置から麻布と紐を出した。

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