MIYA / 第29話

第29話 届かなかった言葉

 十二月に入ると、便利堂の仕事は外回りが増えた。  雨樋に詰まった落ち葉をさらい、外の蛇口へ保温材を巻く。庭木の霜よけも何軒か続き、夕方に戻るころには指先が白く乾いていた。  その日も事務所で伝票を書いていると、千鶴が小さなチューブを机へ置いた。  「これ使ってください」  「何?」  「ハンドクリームです」  透は自分の手を見る。親指の関節が割れ、薄く血がにじんでいた。  「毎年こうなる」  「毎年なるなら、毎年塗ってください」  「真弓に何か言われた?」  「言われました」  最近、この二人は便利堂を通さずに話がつながっている。  透が蓋を開けると、千鶴は満足したらしく流しの掃除へ戻った。            ※  桑島の件が終わってから、千鶴はときどき透の代わりに「ごめん」と言うようになった。  道具を勝手に動かしたときや、電話のメモを一枚なくしたとき。透が言おうとして口を止めると、横から先に言う。  最初はそのたびに顔を上げていたが、十日もすると、それも減った。  言えないこと自体は変わっていない。  桑島の言葉も、深いところに残ったままだった。            ※  白木から電話が来たのは、十二月の半ばだった。  『榊さん、会ってほしいいう人がおるんです』  「便利堂の依頼ですか」  『いや。仕事を頼みたいわけやないみたいです』  白木にしては歯切れが悪かった。  『浦上ノブさん。九十三です』  透は机の端にあったメモを引き寄せた。  「何の話です?」  『先代のことです』  鉛筆が止まった。  『三十二年前の話を、あんたに訊きたいそうです』            ※  浦上家を訪ねると、家族に奥の座敷へ案内された。  ノブは布団の上へ座っていた。背中は丸くなっていたが、透が名乗るとすぐに顔を上げた。  「榊さんとこの人やね」  「榊透です」  ノブは透の顔を見た。  「似とるねえ」  誰に、とは言わなかった。  茶を運んできた家族が部屋を出ると、ノブは湯呑みへ手を添えた。  「あんたのお爺さんに、来てもろたことがあります」  「三十二年前ですか」  「そうです」  ノブはそこで少し間を置いた。  「うちの人が死んだときです」  透は名前を確認した。  「浦上|音吉《おときち》さん」  ノブの手が止まった。  「知っとるんですか」  「祖父の控え帳にあります」  「まだ残っとる?」  「はい」  ノブは湯呑みを持ち上げ、一口だけ飲んだ。            ※  祖父の控え帳は、届けた仕事を細かく書くものではない。  日付と、預かった人の名前。そのあとに届け先が記されている。事情や感想を書き足すことは、ほとんどなかった。  浦上音吉の記録だけは違った。  届け先の欄に人の名前がない。  そこには「持越」と書かれていた。  ノブは帳面の内容を知らなかった。  「あの人の言葉、届いたんですか」  透はすぐには答えられなかった。  持越という記録がある。それだけで、音吉の言葉が誰にも届かなかったと断定していいのかはわからない。  「正確には、わかりません」  ノブが透を見る。  「届いたとも、届いてないとも?」  「はい」  「そうですか」  ノブは膝の上へ手を戻した。  「それを三十二年、訊けんかったんです」            ※  祖父が生きていたころ、ノブは一度も確かめなかったという。  「訊いたらええだけやったんですけどね」  「どうして訊かなかったんです?」  「届いとらんかったら、榊さんが困ると思って」  ノブは窓のほうを見た。  「そのうちに訊こう、そのうちに訊こう思うとったら、お爺さんが先に亡くなられて」  祖父が死んだのは、透が十四歳のときだ。  ノブにとっては、その時点でもすでに長く抱えていた問いだったことになる。  「それで今、俺に?」  「桑島さんのことを聞きましてね」  透は顔を上げた。  「町は狭いから」  ノブはそれ以上、桑島の話をしなかった。            ※  透は一つだけ訊いた。  「音吉さんが誰に言葉を残したのか、知っていますか」  ノブは首を横へ振った。  「知りません」  「その場には?」  「おりましたよ。わたしと、あんたのお爺さんと、うちの人」  ノブは三十二年前の夜を思い出すように、畳へ目を落とした。  「うちの人、最後に何か喋ったんです。声は出とった。でも、わたしには何言うとるかわからんかった」  「祖父には?」  「聞こえたんでしょうね」  そのあと祖父は、預かった言葉を届けるとだけ説明した。  ノブが宛先を訊いても、名前は教えなかったという。  「それから七日くらいして、もう一回だけ榊さんが来ました」  透は顔を上げた。  「祖父が?」  「はい。でも、何も話してくれんかった」  「届いたかどうかも?」  「訊けませんでした」  ノブは湯呑みに手を伸ばした。  「顔見たら、訊けんようになってしもて」            ※  帰り際、ノブが透を呼び止めた。  「そうや。一つだけ覚えとる」  透は玄関で靴を履きかけていた。  「三十二年前、最初に来てもろた日のことです」  「はい」  「あんたのお爺さん、帰りにそこで靴履きながら、何か言うたんです」  ノブは透が立っているあたりを指した。  「あの人には言えんな、って」  透は靴を履いたまま動かなかった。  「それだけですか」  「それだけ」  「誰のことかは?」  「わかりません」  ノブは廊下の奥から透を見ていた。  「三十二年経っても、そこだけ覚えとるんです」            ※  便利堂へ戻ると、千鶴は帰るところだった。  「遅かったですね」  「浦上さんとこ行ってた」  透は上着を脱ぎ、棚から古い控え帳を出した。  三十二年前の頁を開く。  浦上音吉の名前を探すのに時間はかからなかった。  その横にある二文字も変わらない。  持越。  祖父が何を意味してそう書いたのかは、まだわからない。  少し離れたところで、千鶴が鞄を肩へ掛けた。  「透さん」  「うん」  「その件、調べるんですか」  透は帳面から目を上げた。  「調べる」  「浦上さんに頼まれたから?」  透は少し考えた。  「それもある」  千鶴は続きを待ったが、透は言わなかった。  帳面を閉じる前に、もう一度だけ「持越」の字を見た。

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