MIYA / 第63話

第45話 四つの名前

 三日目の夕方、透は楓と一緒に氷見家へ向かった。  朝、楓は便利堂へ来て、十五年前に父が祭りの日の名簿をまとめる担当だったと話した。  詳しいことは父から聞いてほしい、とも言った。  商店街を抜けるころには、家々から夕飯の匂いが流れていた。  「父が自分から話すって言うの、珍しいです」  楓が前を向いたまま言う。  「昔から?」  「都合悪いことほど黙ります」  透は何も返さなかった。  楓が横を見る。  「今、誰かに似てると思いました?」  「言ってない」  「顔に出てました」  氷見家へ着くと、義信は居間で待っていた。  座卓には古い紙の束が置かれている。  「座ってくれ」  昨日まで、久保田の言葉を聞くことすら拒んでいた男だった。  今日は自分から紙を出した。            ※  義信が一枚目を広げた。  十五年前、祭りの日に役場で使っていた世帯一覧の作業用の写しだという。  住所と世帯主の名前、その横に短い備考が並んでいる。  「当時、こういう一覧をまとめる担当をしとった」  義信は紙の端を押さえた。  「天気が崩れたとき、確認が要る家を拾っとったんや」  透は紙に目を落とした。  足の悪い住人がいる家や、道の条件について簡単な書き込みがある。  義信が別の紙を横へ置いた。  「祭りのあと、役場に残した名簿からは消した」  「何を?」  義信は作業用の紙の途中を指した。  透は上から追った。  そこには四つの世帯が続けて載っていた。  「この四軒ですか」  「ああ」  楓が身を寄せる。  「なんで消したの」  義信はすぐには答えなかった。  「避難済みとして処理したからや」  透は顔を上げた。  「避難してたんですか」  「確認できてへんかった」  楓の手が止まった。            ※  義信はもう一枚、小さな紙を出した。  鉛筆書きの古い作業メモだった。  四つの住所が並び、その下に短い指示が残っている。  避難済として整理する。  「久保田さんの字や」  義信が言った。  透の胸の内側で、預かっている言葉がわずかに動いた。  義信も気づいたらしい。  「まだ言わんでくれ」  透は口を閉じた。  「あれを決めたんは久保田さんや。それはほんまや」  楓が父を見る。  「じゃあ、お父さんは言われたとおりに?」  義信は首を横へ振った。  「名簿を直したんは俺や」  声は静かだった。  「元の名簿から四軒を外して、新しい頁を作った。綴じ直したんも俺や」  楓は何も言わなかった。  「久保田さんが決めたからいうて、俺の手が勝手に動いたわけやない」  義信は作業用の紙を見る。  「確認できてません、って言えた。残しといてください、でもよかった」  「言わなかった?」  透が訊く。  「ああ」  義信は四つの行を指で押さえた。  「消した」            ※  透は紙に残る四世帯を見た。  「この人たちは、そのあとどうなったんです?」  「わからん」  「避難してたかも?」  「わからん」  同じ返事だった。  記録から消したあと、義信自身も確認できていないという。  「どうして元の紙が残ってるんですか」  「処分せんかったからや」  義信は答えた。  「作業用の写しは捨てることになっとった。これだけ家へ持って帰った」  楓が父を見る。  「ずっと持ってたの?」  「ああ」  「お母さんは?」  「知らん」  義信は紙を畳まなかった。  十五年前からついた折り目が、そのまま座卓の上に伸びている。            ※  「父さん」  楓が四つの名前を見たまま呼んだ。  「これ、戻せないの?」  「何をや」  「名前」  義信が娘を見る。  「簡単にはいかん」  「簡単かどうかは聞いてない」  楓の声は役場にいるときと同じだった。  「記録をどう直せるか調べることはできるでしょ」  義信はしばらく黙っていた。  「そうやな」  返事はそれだけだった。  楓もそこで止めた。  透は二人の話に口を挟まなかった。            ※  義信が古い紙を揃えたところで、透は訊いた。  「まだ、久保田さんの言葉は聞きませんか」  義信の手が止まった。  昨日までなら、返事はすぐに来た。  今日は座卓の紙を見ている。  「俺は、久保田さんが何を言うのか知りません」  透は続けた。  「途中までしか出てないから」  義信が頷く。  「わかっとる」  「でも、久保田さんが決めたことと、義信さんがやったことは別だっていうのは、もう自分で言いましたよね」  義信は透を見た。  「せやな」  「それでも聞いたら、楽になると思います?」  義信はすぐには答えなかった。  楓も黙っている。  やがて義信は、作業用の名簿を自分のほうへ引き寄せた。  「昨日まではな」  四世帯が載った頁を見ながら言う。  「久保田さんに全部持っていってもらうことになると思っとった」  透は待った。  「けど、俺がやったことは先に言うた」  義信は顔を上げた。  「聞く」            ※  その言葉を待っていたように、胸の奥の重みが上がった。  今度は義信も遮らなかった。  透の口から、久保田の声が出る。  「あれは俺が決めた」  短い一言だった。  義信は目を閉じた。  透の中に残っていた重みがなくなる。  それだけで、届いたことがわかった。  しばらくして義信が目を開く。  「知っとる」  声は低かった。  楓は父を見ていた。  義信はもう一度、古い名簿へ視線を落とした。  「知っとるよ、久保田さん」  その先は続かなかった。            ※  透が立ち上がると、義信も玄関まで来た。  「榊さん」  「はい」  「この紙は、もう隠さん」  透は振り返った。  義信の手には、四世帯が残った古い一覧がある。  「どうするかは、役場と話してからや」  楓が後ろから言った。  「私もいますから」  義信は娘を見た。  返事はしなかった。  透は靴を履き、家を出た。            ※  便利堂へ戻ると、千鶴が張り替え途中の網戸を壁へ立てかけていた。  「終わりました?」  「うん」  「届いた?」  透は頷いた。  千鶴はそれ以上訊かず、網戸を作業台へ戻した。  「これ、あと一本です」  「俺やるよ」  透は上着を脱ぎ、ローラーを取った。  押さえゴムを溝へ入れていく。  途中まで進めたところで、千鶴が横から網を引いた。  「引っ張りすぎ」  「まだ大丈夫」  「前もそう言って歪ませましたよね」  透は少し緩めた。  外は暗くなっていたが、店の裏にはまだ昼間の暖かさが残っていた。

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