MIYA / 第77話

第59話 ごめん

 午後、透は作業台で古いラジオを開けていた。  背面のねじを外し、中へ溜まった埃を刷毛で払う。電源は入るが、音量を上げると雑音が混じるという依頼だった。  向かいの机では千鶴が伝票を書いている。  桑島の控え帳は、もう棚へ戻してあった。  「千鶴」  「はい」  返事だけして、ペンは止まらない。  「前にさ」  「はい」  「俺の代わりに謝ってもらったこと、あっただろ」  そこでペンが止まった。  千鶴が顔を上げる。  「前っていうか、ありますけど」  「やっぱり何回かある?」  「必要なときだけですよ」  「面倒じゃなかった?」  千鶴は少し眉を寄せた。  「なんで今さら気にしてるんですか」  「昨日ちょっと考えて」  「桑島さん?」  透はラジオへ目を戻した。  「まあ、それもある」  千鶴はしばらく待っていたが、透が続きを話さないのでペンを動かし始めた。  「面倒なときはありましたよ」  「あるんだ」  「そりゃあります」  さらりと言われ、透は顔を上げた。  「でも透さんが言えないの知ってますから。必要なら言うだけです」  「そういうもん?」  「そういうもんです」  千鶴は伝票の端を揃えた。  「それに『すみません』は言えるじゃないですか」  「同じじゃないだろ」  「知ってますよ」  即答だった。  透は何も言わなかった。            ※  ラジオの雑音は、接点を掃除すると少し減った。  透は裏蓋を開けたまま電源を入れ、つまみをゆっくり回す。  音楽が流れたあと、少し遅れて男の声に変わった。  祭り当日の交通規制を知らせている。  千鶴が机から顔を上げた。  「明日ですね」  「何が」  「祭り」  「知ってるよ」  「忘れてそうだったから」  「そこまでじゃない」  「去年、提灯の電球取り替えてる途中で昼ごはん忘れたじゃないですか」  透はラジオのつまみを回した。  「覚えてない」  「便利な記憶ですね」  雑音はほとんど消えていた。  透は一度電源を切った。  「これでいけそう」  「じゃあ伝票書きます」  千鶴が新しい用紙を一枚取った。            ※  夕方までに、小さな仕事が二件続いた。  玄関灯の交換と、店先の看板を留めている金具の締め直し。  どちらも近所だったので、透が歩いて済ませて戻ってきた。  店へ入ると、千鶴がラジオの伝票へ金額を書き込んでいる。  「終わった?」  「こっちは」  「明日の午前中に取りに来るって」  「わかった」  透は工具袋を作業台へ置いた。  中身を戻そうとして、棚の上にある小さな缶へ手を伸ばす。  その肘が、机の端に置かれていた千鶴のコップへ当たった。  「あ」  コップが倒れた。  残っていた麦茶が伝票の上へ広がる。  千鶴が椅子から立った。  「ちょっと!」  透は反射的に布巾へ手を伸ばした。  「ごめん」  二人の手が止まった。            ※  麦茶が紙の端から床へ落ちた。  透は布巾を持ったまま、千鶴を見る。  千鶴も透を見ていた。  「……今」  「うん」  「言いました?」  透はすぐに答えられなかった。  喉へ手をやろうとして、やめる。  そんなことをしている場合ではない。  「伝票」  「びしょびしょです」  「書き直し?」  「見ればわかるでしょ」  透は机の麦茶を拭いた。  千鶴は濡れた伝票の端を摘まみ、持ち上げる。  インクが少し滲んでいた。  「これ、もう一回書きます」  「悪い」  「そこは普通なんですね」  「普通って何」  「いえ」  千鶴は新しい用紙を出した。  透は床まで拭き、倒れたコップを流しへ持っていった。            ※  戻ると、千鶴はもう新しい伝票を書き始めていた。  透は作業台の前へ座る。  ラジオの裏蓋を閉じ、ねじを一本ずつ戻した。  さっきの音を、もう一度試してみる気にはならなかった。  出た。  それだけで十分だった。  桑島から預かった言葉がどうなったのかも、わからない。  胸の深いところへ意識を向ければ、沈んだものはまだ残っているように感じる。  マリアへ届いたわけではない。  七日を越えた事実も変わらない。  それでも、透の口から「ごめん」は出た。  理由はわからなかった。  透は最後のねじを締めた。            ※  「透さん」  「何」  「こっち、終わりました」  千鶴が書き直した伝票を持ち上げる。  「今度こそ濡らさないでくださいね」  「机の端に置かなきゃいいだろ」  「倒した人が言います?」  「それはそう」  千鶴は伝票を所定の箱へ入れた。  それから少しだけ透を見る。  「さっきの、よかったですね」  透はラジオの電源を入れた。  雑音のない声が流れる。  「うん」  千鶴もそれ以上は言わなかった。            ※  閉店前、透は工具を棚へ戻した。  桑島の控え帳が入っている棚も、そのままだった。  開けなかった。  店の外では、明日の祭りに使う提灯が並び始めている。  千鶴が入口の戸を半分閉めた。  「透さん、そっちお願いします」  「ああ」  透は反対側の戸へ手を掛けた。  二人で引くと、戸が中央で合わさった。  透は鍵を掛けた。

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