MIYA / 第62話

第44話 楽になる

 二日目の夕方、透はもう一度氷見家へ行った。  門の前には楓が立っていた。  「来ると思ってました」  「昨日言っただろ」  「父もわかってます」  楓は玄関を振り返った。  「朝から機嫌悪いです」  「俺のせい?」  「半分くらいは」  「残りは?」  楓は少し考えた。  「父自身じゃないですかね」  透は返事をしなかった。  久保田重一から預かった言葉は、まだ胸の内側にある。  あれは俺が決めた。  昨日、義信を前にした瞬間に言葉は出かけた。しかし「あれは」までで遮られ、残りは消えずに戻った。  楓が玄関を開けた。            ※  居間では、義信が座卓の前に座っていた。  テレビはついているが、音は消してある。  透が部屋へ入ると、久保田の言葉がすぐに持ち上がった。  「あれは――」  「聞かん」  昨日と同じところで止められた。  透はそのまま口を閉じた。  義信がこちらを見る。  「帰ってくれ」  「まだ残ってます」  「知るか」  「久保田さんは、自分で俺を呼びました」  義信の眉がわずかに動いた。  「病院へ運ばれてから、奥さんに榊便利堂へ電話するよう頼んでます。偶然預かったわけじゃない」  しばらくして義信が言った。  「……そうか」  昨日はなかった返事だった。  透は立ったまま続ける。  「それでも聞きませんか」  「ああ」  「何を言うか知ってるんですか」  義信は座卓へ視線を落とした。  「知らん」  「なら、どうして」  「知らんからや」  楓が父を見る。  「父さん、それで聞かないって決めるの?」  「楓は黙っとれ」  「昨日からそればっかり」  義信がようやく娘へ顔を向けた。  「久保田さんは、お父さんに言いたいことがあったんでしょ」  そのあと、義信はしばらく何も言わなかった。  やがて透へ向き直る。  「あんた、その中身は知らんのやな」  「知りません」  「何のことかも?」  「考えないようにしてます」  義信が小さく頷いた。  「先代もそうやった」  透は義信を見る。  「爺さんを知ってるんですか」  「町におったら、顔くらい知っとる」  そこから先は話さなかった。            ※  義信は膝へ手を置いた。  「久保田さんは昔から、最後に自分で背負おうとする人やった」  「どういう意味です?」  「そのままや」  義信はテレビの黒い画面を見る。  「何を言うかまでは知らん。でも、今になってわしに残す言葉なら、だいたい嫌なもんしか思いつかん」  「嫌だから聞かない?」  「違う」  返事は早かった。  義信は少し間を置いた。  「聞いたら、わしが楽になるかもしれん」  楓は何も言わなかった。  透もすぐには訊き返さなかった。  「楽になったら駄目なんですか」  「今はな」  「どうして」  義信が透を見る。  「死ぬ間際の人間に一言もろて、それで昔のことが終わったみたいになるのは嫌なんや」  声は大きくなかった。  「久保田さんが何を言うかも知らないのに?」  「せやから聞かん」  義信はそこで話を切った。  透には久保田と義信の間で何があったのか、まだわからない。  ただ、聞きたくないのではなく、聞いたあとを避けていることだけは昨日よりはっきりした。            ※  「今日は帰ります」  透が言うと、義信は少しだけ眉を上げた。  「明日も来るんか」  「たぶん」  「来んでええ」  「預かってるので」  義信は息を吐いた。  「先代よりしつこいな」  「爺さんはもっとしつこかったと思います」  義信の口元がほんの少し動いた。  楓が横から言う。  「そこ張り合うところですか」  透は玄関へ向かった。            ※  外へ出ると、楓も門までついてきた。  春になって日が伸びたが、商店街には灯りがつき始めている。  「父、久保田さんを知ってましたね」  「ああ」  「名前、前に聞いた気がするんです」  「どこで?」  「子どものころ。父の仕事の話だったと思います」  楓はそこで足を止めた。  「昔の人事異動なら、町の広報に載ってます。公開されているものなので確認できますよ」  「役場に残ってる?」  「図書館にもあります」  透は頷いた。  楓が続ける。  「ただ、職員だったかどうかを見るところまでですからね」  「わかってるよ」  「最近は本当にわかってきましたね」  「前からわかってる」  「そこはまだ怪しいです」  楓とは商店街の途中で別れた。  透はそのまま図書館へ向かった。            ※  古い町広報は年度ごとに綴じられていた。  職員異動の記事を探す。  久保田の名はすぐに見つかった。  当時は役場に勤めていた。  同じ欄に、氷見義信の名もある。  二人は同じ課にいた。  翌年分も同じだった。  透はそれ以上の資料には手を伸ばさなかった。  久保田と義信が役場で一緒に働いていた。  今わかったのは、それだけだった。  図書館を出ると、外はもう暗かった。            ※  翌朝、便利堂へ来たのは千鶴より先に楓だった。  役場へ向かう途中らしく、鞄を肩に掛けている。  透は店先へ出していた網戸を壁へ立てかけた。  「朝からどうした?」  「父と話しました」  楓はそう言ってから、便利堂の中へ入った。  机の前まで来ても、すぐには座らない。  「昨日、透さんが帰ったあとで久保田さんのことを訊きました」  「話した?」  「少しだけ」  楓は鞄の持ち手を握り直した。  「久保田さんは父の上司だったそうです」  透が昨夜確認した広報とも合う。  「それと、十五年前のことを一つ」  透は続きを待った。  「父、あの年の名簿を担当してたって言いました」  「名簿?」  「祭りの日に、何かあったとき確認するための世帯一覧があったそうです」  楓はそこで一度言葉を切った。  「父が作ったんですか」  「作ったというより、まとめる担当だったって」  透は黙った。  十五年前。  楓は以前、父に訊けないことが一つあると言っていた。  「その名簿、まだある?」  「父に訊きました」  「何て?」  楓が透を見る。  「今日、帰ったら来てほしいそうです」  「俺に?」  「はい」  昨日まで言葉を聞くことすら拒んでいた義信のほうからだった。  楓は時計を見て、役場へ行かなければならない時刻なのに気づいたらしい。  「詳しいことは父から聞いてください。わたしが途中まで聞いて、それを透さんに言い直すより、そのほうがいいと思うので」  「わかった」  楓は鞄を肩へ掛け直した。  戸を開ける前に振り返る。  「透さん」  「何?」  「昨日よりは、喋る気になってます」  そう言って出ていった。  透は机へ戻り、昨日張り終えた網戸の伝票を取り出した。

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