MIYA / 第11話

第11話 頼まれていない

 カーブを抜けた先で、赤い光が横を向いていた。  前を走る車のテールランプかと思ったが、近づくにつれて位置がおかしいことに気づいた。透はアクセルから足を離し、路肩へ軽トラを寄せた。  軽のワゴン車がガードレールへ突っ込んでいる。  車体の前半分が潰れ、持ち上がったボンネットの隙間から白い蒸気が出ていた。割れたガラスが道路に散り、軽トラのヘッドライトを細かく返している。  透はハザードを点け、スマートフォンを持って車を降りた。  田んぼから来る湿った風に、焦げたような臭いが混じっていた。  運転席には男がいた。  五十代くらいに見える。シートベルトをしたまま、潰れた車体に身体を押さえ込まれていた。  「聞こえますか」  声をかけると、男の目が透へ動いた。  透はすぐに一一九番へ通報し、町の名前と県道、近くにある臥雲神社へ下りるカーブだと伝えた。電話を切ってから運転席側へ戻る。  「救急、呼びました。無理に動かないでください」  男は返事をしようとしたが、最初は息だけが漏れた。  透は開かないドアへ手をかけるのをやめ、窓越しに男を見る。  「ほかに誰か乗ってました?」  「……ひとりや」  掠れた声だった。  「わかりました」  男の視線が透の胸元へ落ちる。  作業着には、色の褪せた糸で榊便利堂と刺繍されていた。  「便利屋か」  「はい」  「そうか」  それきり、男は目を閉じた。  透は名前を訊かなかった。今必要なのは救急隊へ引き継ぐことで、身元を調べることではない。  遠くからサイレンが聞こえるまで、男のそばを離れなかった。            ※  呼吸の様子が変わった。  それまで短い間隔で上下していた胸が、途中で止まり、今度は肩まで使って大きく息を吸った。少し間が空いて、また同じ動きが続く。  透は男へ呼びかけた。  「聞こえますか」  目は開いたが、もう透を追わなかった。  そのとき、男の唇が動いた。  声になったとは思えないほど小さな息だった。  それでも、その言葉だけは聞き落とさなかった。  「早瀬さんに」  透は動けなかった。  事故車の中から聞こえていた掠れ声とは違い、その言葉だけが妙にはっきりしている。  「早瀬さんに、鍵は戻したと言うといてくれ」  喉の奥に何かが触れた。  次の瞬間には、もう身体の中へ入っていた。  透は車体へついていた手を離した。  頼まれていない。  男は榊便利堂の看板を見て来たわけでも、預かり屋のことを知っていたわけでもない。ただ事故現場に居合わせただけだ。  それでも言葉は入った。  透が何かを訊く前に、男の呼吸が止まった。  今度は呼びかけても目が動かなかった。  サイレンが近づいていた。            ※  救急隊が到着すると、透は事故車から離された。  消防と警察も続けて到着し、現場には作業灯が並んだ。透は邪魔にならない場所へ移り、救助作業が終わるまで何度か事情を聞かれた。  最初に事故車を見つけた時刻、車の様子、運転手が一人だったこと。男と会話をしたかと訊かれ、透は「一人で乗っていると言っていました」と答えた。  「ほかには何か?」  警察官が手帳を見ながら訊く。  透は返事をするまで少し間が空いた。  「……それだけです」  警察官は頷き、時刻を書き込んだ。  透の身体には、男の言葉が残っている。  早瀬さんに、鍵は戻したと言うといてくれ。  それをここで話しても、届けたことにはならない。  救助された男は救急車へ運ばれた。現場で透に身元が伝えられることはなく、事故車だけがガードレールの脇に残った。  警察から帰っていいと言われたころには、日付が変わっていた。            ※  便利堂へ戻った透は、台所で水を一杯飲んだ。  事務所の電気を点け、机へ座る。  いつもの依頼なら、最初に預けた人の名前がある。そこから家族や知人を辿り、宛先を探す。  今回は逆だった。  早瀬という名前だけは聞いている。  ところが、その言葉を預けた男の名前を知らない。  透は控え用の紙を一枚出し、事故に遭った時刻と場所、それから聞いた言葉を書き留めた。警察から何か連絡が来る可能性もあるため、事故車の特徴も覚えている範囲で添える。  そこまで書いたところでペンが止まった。  頼まれずに預かったのは、初めてだ。  そう書こうとして、やめた。  なぜか、その一文だけは書き切る気になれなかった。  透は紙を控え帳へ挟み、机の上の時計を見た。期限を数える代わりに、事故の時刻だけをもう一度確認してから電気を消した。            ※  朝、枕元の電話が鳴った。  何度目かで目を覚まし、透は手探りで受話器を取る。  「はい」  『透、寝てたやろ』  |戸倉航《とくらわたる》だった。  「起きてた」  『その声でよう言うわ』  県道沿いで整備工場をやっている。小学校から高校まで同じで、透の軽トラも車検から修理まで全部任せていた。  「何?」  『昨日の事故、最初に見つけたんお前やってな』  透は布団の上で身体を起こした。  「なんで知ってる」  『車がこっちに来とる。警察から置いといてくれって』  事故車が戸倉の工場へ運ばれたらしい。  透は時計を見る。  「車、見てもいいか」  電話の向こうが少し黙った。  『なんで?』  「確認したいことがある」  『警察の車やぞ。勝手に触るんは無理やからな』  「見るだけでいい」  『何を探しとるん』  透は答えなかった。  航も追及せず、工具を置く音だけが聞こえた。  『昼過ぎならおる。来るならそんくらいにせえ』  「わかった」  『あと飯食ってから来いよ』  「食ってる」  『いま起きた声でそれも無理あるわ』  電話が切れた。  透は受話器を戻し、昨夜の服を見た。作業着の袖には、事故車へ触れたときについた黒い汚れが残っている。  洗濯籠には入れず、そのまま椅子の背へ掛けた。

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