MIYA / 第69話

第51話 二度目の舟

 黒瀬は倉庫の入口に立ったまま、しばらく港を見ていた。  透は椅子から動かなかった。  父と母は一度、舟で三人を救い、岸へ戻ってきた。その三人の中には黒瀬もいた。  それでも二人は、もう一度舟を出した。  「二十七番に、人が残ってるかもしれなかったんですよね」  透が訊くと、黒瀬は頷いた。  「向かい側の高い場所から、灯りらしいものを見たという話が入りました」  「灯り?」  「懐中電灯かもしれない、と。ただ、あの天候でしたから、確かな話ではありません」  雨や水面の反射を見間違えた可能性もあった。  そのころには、港東側にいた人間の所在確認も進み始めていた。避難所に着いた人、親戚の家へ移った人、別の場所で保護された人が少しずつわかってきたという。  それでも二十七番の家だけは、確認が取れなかった。  「宮下トヨさん?」  「今から振り返れば、そうだった可能性が高いです」  「そのときはわからなかった?」  「世帯の名前まではわかっていました。ですが、誰が家に残っているのかまでは」  黒瀬はそこで言葉を切った。  透は二十七番の空き地を思い浮かべた。  家はもうない。  柿の木だけが残っている。            ※  「二度目は、誰か止めなかったんですか」  「止めました」  黒瀬はすぐに答えた。  「私もです」  透は顔を上げた。  「黒瀬さんも?」  「一度目で戻ってきた舟には、かなり水が入っていました。風も強くなっていた。もう出すべきではない、と」  ほかにも同じことを言った人間がいたという。  朝を待つべきだ。  消防や別の応援を待ったほうがいい。  話はまとまらなかった。  「父さんたちは?」  黒瀬は港へ目を戻した。  「もう一度行くと言いました」  「なんで」  「私にはわかりません」  黒瀬の返事はそれだけだった。  透は続けて訊こうとして、やめた。  父と母が何を考えて舟へ乗ったのかを、黒瀬が代わりに説明できるはずもない。  「二人だけで?」  「はい」  舟には父と母だけが乗った。  さっきまで三人を運んでいた舟が、もう一度港を離れていった。  黒瀬は岸から見ていたという。            ※  「二十七番までは着いたんですか」  「わかりません」  「誰も見てない?」  「少なくとも、私が知る限りは」  連絡する手段もなかった。  岸では舟が戻るのを待った。  雨が弱くなる時間もあったが、風は止まなかった。  黒瀬が細かな時刻を口にすることはなかった。  透も訊かなかった。  「戻ってこなかったんですね」  「はい」  黒瀬の声は変わらなかった。  翌朝になって、舟は港から離れた場所で見つかった。  父と母も、そのあと見つかった。  透は場所も状態も訊かなかった。  今、必要なのはそこではなかった。  「トヨさんは?」  「見つかりませんでした」  「家にも?」  「ええ」  「亡くなったって確認は」  「されていません」  前にも聞いた答えだった。  透は膝の上で手を組み直した。  死亡が確認されていない。  避難した記録も確かではない。  十五年前から、宮下トヨがどこへ行ったのか誰にもわからない。            ※  「捜したんですよね」  「当時は」  黒瀬は頷いた。  「避難所、病院、親戚。それぞれ確認しました」  「町の外は?」  「私がすべてを把握しているわけではありません」  黒瀬はそこを曖昧にしなかった。  「その後も、ご親族へ尋ねたことはあります。ただ、私は役所でも警察でもありません」  透は頷いた。  黒瀬が十五年間一人で調べ続けていれば、何でも知っているという話にはならない。  「ハルさんは?」  黒瀬が透を見る。  「トヨさんが見つかってないこと、知ってたんですよね」  「知っていたと思います」  「思います?」  「事故のあと、何度か二十七番へ来ているのを見ました」  透は少し身を起こした。  「ハルさんが?」  「ええ」  黒瀬が土地を取得するより前のことだった。  空き家になっていたころ、ハルが一人で家の前に立っているところを何度か見たという。  「話しました?」  「一度だけ」  「何て?」  黒瀬は記憶を確かめるように間を置いた。  「トヨさんが戻ったら教えてほしい、と」  それ以上、ハルは話さなかったという。            ※  透の中には、ハルの声が残っている。  トヨちゃん。あれは、うちが持っていったんよ。  黒瀬には中身を話さなかった。  「ハルさんとトヨさん、仲良かったんですよね」  「よく一緒にいました」  「家族ではない?」  「私が知る限りは」  そこも決めつけなかった。  透は立ち上がった。  「宮下家の親戚について、もう一度当たります」  「今からですか」  「期限があります」  黒瀬が何日目かを訊くことはなかった。  透も言わなかった。  倉庫の外へ出る。  港の日差しは強かった。  十五年前の夜と同じ場所だと言われても、透の目にあるのは夏の昼の港だけだった。            ※  便利堂へ戻ると、梶が冷蔵庫の前に立っていた。  大きな瓶を中へ押し込んでいる。  「何してるんですか」  「麦茶入れとる」  「見ればわかります」  「ほな訊くな」  透は上着を脱いだ。  千鶴は配達へ出ているらしく、店にはいない。  梶が冷蔵庫を閉めた。  「黒瀬んとこ行っとったんか」  「なんでわかるんです」  「港のほうから歩いてきたやろ」  それだけだった。  透は机へ座った。  「梶さん。宮下トヨさんって知ってます?」  梶は椅子を引きかけて止まった。  「昔の宮下さんとこの?」  「知ってる?」  「顔はな」  透は椅子から身体を起こした。  「どんな人でした?」  「どんな言われてもな」  梶は座り、空の湯呑みを机へ置いた。  「ハルさんとよう一緒におった人や」  黒瀬と同じ話だった。  「十五年前のあと、見てません?」  「ああ」  「どこかに親戚は?」  梶が少し考える。  「町の外に妹がおったいう話は聞いたことある」  透はすぐには手を動かさなかった。  「どこです?」  「そこまで知らん」  「名前は?」  「知らん」  梶は面倒そうに眉を寄せた。  「昔の話やぞ。わしを電話帳みたいに使うな」  透は机から紙を取った。  「妹がいた、までは覚えてるんですね」  「たぶんな」  「たぶん?」  「確かめてから動け」  梶は自分で麦茶を注いだ。  透は紙へ何も書かなかった。  確かめてからでいい。            ※  千鶴が戻ってきたところで、透は宮下家へ電話をかけた。  出たのはハルの娘だった。  透は葬儀の前に何度も連絡することを詫びたかったが、最初の言葉が出なかった。  少し間を置いて、本題から話した。  「お母さんの昔の友人について、もう一つ聞きたいことがあります」  『トヨさんですか』  透は受話器を持ち直した。  「知ってるんですか」  『名前は。母から何度か聞きました』  「トヨさんに、妹がいたって聞いたことありませんか」  電話の向こうで、娘はすぐには答えなかった。  『妹かどうかはわかりません。でも』  紙をめくる音がした。  『昔、母が年賀状を出していた人の中に、トヨさんと同じ名字の人がいたと思います』  透は机の紙へ手を伸ばした。  「残ってますか」  『母の住所録なら』  「見せてもらえますか」  『はい。家にあります』  透は時計を見た。  「これから伺っても?」  娘は少し考えてから了承した。  受話器を置く。  千鶴が向かいから訊いた。  「何かありました?」  「ハルさんの住所録が残ってる」  透は机の上の工具を端へ寄せた。  梶が麦茶を飲みながら言う。  「ほな早よ行け」  「言われなくても行きます」  「麦茶飲んでから行け」  透は冷蔵庫を開けた。

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