志乃創 / 第23話

第22話 お茶を淹れる前に

 一週間が経っても、朝倉詩織の名前は九十九課の机から消えなかった。  用途の異なる紙の上に、同じ四文字が繰り返されている。  その周りには、まだ処理を待つ書類が積み上がっていた。  柏城はマグカップを持ち直す。  中身はもうぬるい。  口に含めば、香りより苦味の方が残る温度だった。  コピー機が吐き出した熱。  古い書類棚の金属臭。  誰かが飲み残した缶コーヒーの、冷えた甘い匂い。  それらが薄く混ざり、朝から動き続けている部屋の底へ沈んでいる。 「朝倉さんとの面会が決まりました」  香月の声が、その空気を静かに切った。 「行きます」  田中が一番に顔を上げた。  明るく聞こえる位置へ、丁寧に置かれた声だった。  柏城はマグの縁に指を掛けたまま、口を開けなかった。  何を聞いても、田中は笑ってしまう気がした。 「無理はしなくてもいいですよ」  田中の表情が止まった。  息を吸う直前の喉のように、動きだけが途切れる。 「報告は聞きました。田中君は優秀ですし、前回の対応が悪かったとも思っていません」  褒めているのに、慰めには聞こえない。  かといって、突き放してもいない。 「手続きだけなら、俺が行っても大丈夫です」  近づかない。  追い込まない。  田中の脇へ、出口だけを残すような言い方だった。  香月が封筒の角を揃える。  紙の擦れる音が、机の上で小さく続いた。 「休学申請、補償区分、記録確認。その説明なら、誰でもできます」  誰でも。  田中がその言葉をどう受け取ったのかは分からない。  ただ、肩の線がわずかに固くなった。 「……俺が行ってもいいですか」  声は落ち着いていた。 「でも、朝倉さんが嫌がるなら。途中で代わってください」  行かないとは、言わなかった。  香月はしばらく田中を見ていたが、やがて頷く。 「分かりました」 「ありがとうございます」  田中は頭を下げた。  普段より、少しだけ深い。 「では、説得ではなく確認を」  低く落ちた声に、田中の喉が動く。  返事の前に、何かを飲み込んだように見えた。 「朝倉さんが選べるものを、ひとつずつ置いてきてください」  その言葉が、柏城の耳に残った。  選択肢を置く。  拾うかどうかは、朝倉に任せる。  田中は、橋の上で誰かが転びそうなら、迷わず腕を伸ばす人だった。 「……はい」  田中はゆっくり息を吐いた。  香月が書類を封筒へ収めていく。  厚みのある封筒だった。  中には、朝倉詩織が明日を選ぶための紙が入っている。  憂鬱だ。  柏城はマグの縁へ親指を押し当てる。  すでに熱はない。  温かかったはずの器だけが手の中に残り、妙に頼りなかった。 「それと」  封を閉じる前に、香月が田中を見る。 「つらくなったら、戻ってきなさい」  田中は目を伏せた。 「俺は大丈夫ですよ?」 「ええ」  香月はあっさり頷く。 「そういう返事をするから、戻ってきなさいと言っています」  田中の口元が動いた。  いつもの言葉を探したらしい。  けれど、何も出てこないまま唇が閉じる。  笑おうとしない分だけ、先ほどよりはましに見えた。  そう思いたいだけかもしれないけれど。 『若宮さまの言う通りだな』  香月の眉が、ほんのわずかに動く。 「唐傘さんまで」  田中が苦笑した。 『大丈夫な奴は、大丈夫と言う前に帰ってくるもんだ』 「それ、誰の理屈?」 『濡れた奴を何度も見てきた傘の理屈だ』 「傘としての説得力が強すぎるんだよなあ」 「いい相棒ですね」  香月が言った。 「俺より上手く刺します」 「刺す前提なんですか」 「必要なら刺しますよ。良い上司でしょう?」 『褒められたなあ』 「唐傘さん、ちょっと静かにしてて」  香月は涼しい顔のまま、妙に物騒なことを言う。  柏城はようやくマグカップを机へ置いた。  底が触れ、ことん、と小さな音が鳴る。 「柏城君」 「はい」  呼ばれて背筋を伸ばす。 「今回も、同行をお願いしてもいいですか?」 「分かりました」  返事はすぐに出た。  田中がこちらを見る。 「よろしくお願いします、柏城さん」 「こちらこそ」  封筒が鞄へ収められる。 「病院に着いたら、最初は俺が話します」 「はい」 「でも、俺が話しすぎてたら止めてください」  柏城は頷いた。 「そのつもりです。紫谷先輩にも、頼まれてますし」  田中の目が丸くなる。  すぐに、困ったような息が漏れた。 「それ、まだ有効なんですか」 「期限は聞いてないです」 「真面目だなあ」 「そうでもないですよ、意外と」 「えー、そうですかね?」 「俺の教育係、紫谷先輩ですからね」  田中が小さく笑った。  部屋に張っていたものが、わずかに緩む。 『ひま坊の教育受けてりゃ、多少はこうなるわな』 「紫谷さんに聞かれたら怒られるよ?」 『怒るか?ひま坊なら得意げにするだろ』 「それは、そうですね」  柏城が横から口を挟んだ。 「柏城さんも分かってきましたねえ」 「……不本意ですけど」 「以前より、反応が早くなりました」  香月も会話に加わる。 「そこ、評価されるんですか」 「良いことです。柏城君は、遠慮が多かったので」  香月は万年筆を定位置へ戻した。 「紫谷くんを足して、ちょうどいいくらいです」 「あ、わかる」  田中が即答した。 「紫谷さんってたまに胃にきます」 「あー……本人に言ったら喜びそうです」 「彼は、自分がそういう人間だと分かった上でやっていますからね」  香月は困った様子もなく、むしろ少し楽しそうだった。 「最悪じゃないですか」 「可愛いでしょう」  田中と柏城が同時に黙る。  一拍遅れて、田中が問い返した。 「……可愛い、ですか?」 「ええ。可愛いですよ」  香月は平然としている。 「俺の机から堂々と車の鍵を持っていって、ばれないと思っているところも」 「あ、やっぱりばれてたんですね」 「ばれていないつもりで、報告がないところがまず可愛いですね」  柏城は返事に困った。  紫谷は確かに、持ち主のような顔で鍵を持っていった。 「……紫谷先輩、自然でしたね」 「自然に盗っていくから問題なんです」  香月は静かに言った。  多分、怒っている。 『若宮さまは甘いんだか厳しいんだか分からんな』 「その呼び方を続けるなら、俺も相応の扱いをしますよ」 『おお、こわいこわい』 「怖がっていないでしょう」  香月が短く息を吐く。  呆れはあるが、声に棘はなかった。 「甘いか厳しいかで言えば、どちらもですよ」 「どっちもかあ」 「可愛い部下と面倒な部下は両立します」 「甘いじゃないですか」 「なので本人には言ってません」 「意地悪だなあ」 「上司なので」 「さっきから上司の範囲、広くないですか?」 「便利ですよ。田中君も使っていいです」 「あー、遠慮しておきます」  田中の肩が揺れた。  今度は、表面だけではない笑いだった。  それにつられ、柏城の口元も緩む。 「さて。紫谷くんと、どうお話ししましょうかね」  空気の端に、別の気配が混じった。  田中も感じ取ったらしい。  立ち上がりかけた動きが、ぴたりと止まる。 「……課長」 「はい」 「今からですか」 「戻ってきたらですよ」  香月はにこりと笑う。 「丁度外から戻る時間ですし」 「ちょうど」  田中が小さく繰り返した。  先ほどまでとは違う種類の緊張が、声に滲んでいる。  唐傘の和紙が、かさりと鳴る。 『猛虎、逃げ時だぞ』  田中は封筒の入った鞄を肩へ掛けた。  動きは速い。  書類を受け取った時の慎重さが、嘘のようだった。 「柏城さん」 「はい」 「行きましょう」 「え、もうですか」 「面会時間が迫ってますから」  顔は真面目なのに、視線だけが落ち着かない。  病院へ急いでいるというより、紫谷が戻る前に部屋を出たいのだろう。 「田中君」  香月に呼び止められ、背中がわずかに強張った。 「はい」 「まだ車の鍵を渡していません」 「あ、」  田中の足が止まる。  香月は机の引き出しから別の鍵を取り出し、音もなく差し出した。 「こちらを使ってください。いつもの鍵は紫谷くんが持っていってるので」 「……ありがとうございます」  田中は両手で受け取った。  書類の封筒よりも、扱いが慎重に見える。 「なくさないでくださいね」 「なくしません」 「勝手に持っていかれないでくださいね」 「それは俺の管理外では」 「田中君」 「はい。気をつけます」  素直に頷いた田中の隣で、唐傘が笑うように鳴った。 『ひま坊相手に鍵を守れる奴がいるなら見てみたいもんだ』 「唐傘さん、今そういうこと言わないで」  声の端が、少しだけ丸くなっている。  柏城はそれを聞いてから、鞄を持ち直した。 「柏城さん、今度こそ行きますよ」 「分かりました」 「紫谷さんが帰ってくる前に」 「そこは言うんですね」 「はい。巻き込まれたくないので」  田中が小さく笑う。  香月は何も言わず、その様子を見ていた。 「では、行ってらっしゃい」 「行ってきます」 「つらくなったら?」 「戻ってきます」  今度は間を置かなかった。  香月が満足そうに頷く。 「良いでしょう」  田中は逃げるような足取りで扉へ向かう。  扉へ手を伸ばしたところで、廊下の向こうから軽い足音が近づいた。  聞き覚えのある、やけに気楽な歩調だった。  田中の肩が跳ねる。 『来たな』 「柏城さん、早く」 「あ、はい」 「あれ、田中君。もう行くの?」  扉を開けると同時に、紫谷の声が飛んできた。  田中は眉を上げる。 「面会時間があるので」 「ふーん、柏城も?」  反射的に、柏城の背筋が伸びた。 「同行です」 「ん、がんばれ~。でさ、さっき誰か俺のこと褒めてなかった?」 「言ってませんよ」  田中が即答する。 「え、褒めてもないんだ」  柏城は一瞬迷った。  背後で、香月が静かに笑った気がした。 「……悪い話では、なかったと思います」  そう答えると、紫谷が目を細める。 「やっぱなんか言ってたじゃん」 「柏城さん、行きましょう」  田中が柏城の腕を軽く引いた。  強い力ではない。  ただ、立ち止まらせる気がないことだけは伝わった。 「田中君、あとで聞くからねー」 「病院から戻ったらでお願いします」 「俺その頃には香月さんと楽しいお茶会だよ」 「頑張ってください」 「他人事すぎない?ねえ」  田中はそのまま廊下を歩き出した。  背後で紫谷が何か言っていたが、聞こえないふりをする。  柏城も、それに倣った。  九十九課の扉が閉まる。  すぐに、香月の穏やかな声が扉越しに届いた。 「紫谷くん」 「はい?」 「ちょうどお茶を淹れようと思っていたところです」 「えー、やだあ」 「いいから座りなさい」  紫谷の声が、一段高くなる。  田中が肩を震わせた。  柏城も、つられて笑う。  廊下の空気は、部屋よりも冷たかった。  笑ったばかりの喉へ、乾いた冷気が薄く触れる。  田中は急ぎもせず、歩みを緩めもしなかった。  いつもと同じ歩幅で、廊下を進んでいく。  鞄の中では、朝倉詩織の名前が重なっている。  封筒の重さだけは、変わらなかった。

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