志乃創 / 第24話

第23話 何度でも

 庁舎裏の駐車場を出て、車は昼の街へ混じった。  歩道を走る自転車。  開いた店先から漏れるラジオ。  横断歩道では、鳥の声を模した電子音が鳴っている。  田中がウインカーを出した。  かち。  かち。  乾いた音が、明るい車内へ一定に落ちる。 「直樹さんには連絡しないんですか?」 「はい」  田中は前を向いたまま答えた。 「先に来てもらうと、断りにくくなるでしょう」  柏城は後部座席へ目を向けた。  分厚い封筒が、閉じた唐傘へ寄りかかっている。 「必要になってからで充分です」  かち。  最後の一音が鳴り、ウインカーが止まる。  街路樹の影がフロントガラスを横切る。  途切れるたび、その向こうに並んだ病院の窓が少しずつ増えていった。  正面玄関の前では、車椅子を押す男が何かを話している。  座っている老女が顔を上げ、声を立てて笑った。  送迎車の扉が閉まる。  どれも、ありふれた昼の一部だった。  自動扉を抜けると、街が背後で閉じた。  受付前を、車椅子がゆっくり横切っていく。  細い車輪が、磨かれた床の光を二つに割った。  どこかでナースコールが鳴った。  少し遅れて、空調が長く息を吐く。  人の声と機械音が、広い廊下の中で柔らかく混ざっていた。  田中は受付で警察手帳を示した。 「第九十九課の田中です。朝倉詩織さんとの面談で来ました」  受付の女性が端末へ目を落とす。 「朝倉……」  検索結果を確認していた手が止まった。 「すみません。もう一度、お名前をお願いできますか」 「朝倉詩織さんです」  田中は同じ調子で繰り返した。  受付の女性は検索欄を打ち直した。  同じ画面が出たらしく、今度は田中の警察手帳へ視線を落とす。 「申し訳ありません。こちらでは確認できなくて」 「四〇六号室の方です」  受付の女性は別の画面を開いた。 「ああ、こちらですね。第二相談室でお待ちです」 「ありがとうございます」  田中は何も聞き返さなかった。  警察手帳を閉じ、廊下へ向かう。  名前では届かなかった。  部屋の番号なら届いた。  柏城は受付を振り返る。  女性はすでに次の面会者へ笑顔を向けている。  先ほどのやり取りは、何も残っていないように見えた。  配膳用のワゴンが廊下を横切っていく。  からから。  銀色の蓋が天井灯を弾き、白い反射が床を揺らした。  少し先で、エレベーターが開く。  短い電子音と一緒に、小さな花束を抱えた女が降りる。  田中の歩幅は変わらない。  急ぎもせず、緩めもせず。  唐傘を抱えたまま、廊下の奥へ進んでいく。  第二相談室の前には、若い看護師が立っていた。 「第九十九課の方ですね」 「はい。田中です」 「先に中へ入ってもらっています」  看護師は声を少し落とす。 「返事が少し遅れますが、朝から絵を眺めながら落ち着いて過ごされています」 「分かりました。ありがとうございます」  看護師の白い靴音が遠ざかる。  田中は扉の前で鞄を開き、封筒の口を確かめた。  紙同士が擦れ、乾いた音がする。  かさり。  一度だけ息を吐き、口元をわずかに持ち上げる。  扉を二度叩いた。 「朝倉さん。第九十九課の田中です」  閉じた扉に当たった声が、わずかに弾んで柏城の耳へ返った。  しばらくして、室内から声が聞こえた。 「……どうぞ」  薄いカーテン越しの光が、床へ四角く落ちていた。  布は空調の風を含んでわずかに膨らみ、その影が微かに揺れている。  低いテーブルの向こうに、朝倉が座っていた。  頬には幾分か色が戻っていた。  スケッチブックを両手で支えたまま顔は上げない。  開いた紙の中央には、黒い花が描かれていた。  幾重にも重なった花弁は外側から中心へ深く沈み、濃い黒を抱えている。 「失礼します」  田中は朝倉の正面へ座ると唐傘を椅子の脇へ立てかけた。  柏城も隣へ腰を下ろす。 「……来ないでって言ったはずです」 「はい」  田中は鞄をテーブルの脇へ置いた。 「今日は、前にお渡しした書類の説明に来ました」 「また書類ですか」 「少し、分け直しました」  田中は封を開き、付箋を目印に紙を数組へ分けた。  いくつかの束が、少しずつ間を空けてテーブルに並ぶ。  最後の一組だけ、朝倉から遠い位置へ置いた。 「これは、何も選ばない場合のものです」  田中の手が離れる。  どの束も、朝倉の前までは押し出されなかった。 「全部、今日決める必要はありません」  朝倉の目が、並んだ紙の上を動いた。 「何も選ばなくても?」 「はい」 「そのまま帰るんですか」 「今日は、それでも大丈夫です」  田中の声は、相談室へ入った時と変わらなかった。  朝倉は膝の上のスケッチブックへ視線を戻す。 「どれを選んでほしいんですか」 「僕が選ぶことではありません」 「でも、持ってきたのは田中さんですよね」 「それが仕事ですから」 「そういう意味じゃなくて」  朝倉の指が、頁の端を掴んだ。  廊下をワゴンが通り過ぎる。  からから。  車輪が扉の前へ近づき、そのまま遠ざかっていく。  静かになったあと、相談室の隅で、もう一度だけ小さく鳴った。  から。  柏城は扉へ目を向けた。  音は、それきりだった。 「休学しても、辞めても。絵は残せるんですよね」 「はい」 「私が描いたことも?」 「残せます」 「契約をすれば、忘れられなくなるんですか」 「少なくとも、勝手に薄れていくのは止められると思います」  田中は少し間を置いた。 「ただ、記録に残ることと、誰かに認めてもらうことは別です」 「……分かってます」  朝倉の指が、黒い絵の縁をなぞった。 「それでも、作者は私のままですよね」 「はい」  花の中心で、濡れたような光が揺れた。  風が頬に触れ、柏城は窓を見る。  窓は閉じていた。  天井の吹出口から流れる涼しさが、身体へ落ちた。  入ってきたときの布の膨らみも、これだったのだろうか。 「戻った先で、誰も私を覚えてなかったら?」  田中はすぐには答えなかった。  テーブルの下で、唐傘の傘先が床へ触れる。  こつ。  黒い花の奥は、光を通さない。  数秒前に何が光ったのかは、もう分からなかった。 「覚えてもらうことまでは、約束できません」  田中は朝倉を見た。 「人が何を覚えて、何を忘れるかは、その人のものですから」  朝倉の睫毛が伏せられる。 「じゃあ、何のために戻るんですか」 「それも、朝倉さんが決めることです」 「また、それ」  頁を押さえる指に力が入り、紙が小さく鳴った。 「私が決める。私が選ぶ。私の人生だから。そう言っておけば、正しいんですか」 「正しいとは思っていません」  田中は目を逸らさなかった。 「僕たちが決めるより、間違いが少ないとは思っています」 「それで、私が間違えたら?」 「選び直せるようにします」 「何度でも?」 「何度でも」  その先に、条件は足さなかった。  朝倉が顔を上げた。  指の下では、黒い花が濡れたように艶めいている。 『猛虎』 「分かってる」 「……何がですか」 「いえ。こちらの話です」  田中はスケッチブックに目を向けた。 「この絵は、いつ描きましたか」 「昨日です、多分……」 「最初からこの大きさでしたか?」 「はい。ずっと見ていたので」  柏城も絵を見る。  黒い花の外側から、細い線が一本、白い余白へ伸びている。  先ほどからあっただろうか。  反対側にも、髪の毛ほどの線があった。  見続けていれば、わずかな変化ほど前の形に紛れてしまう。  どちらも、筆先を払った跡と言われればそれまでだった。  余白の先へ視線を動かすと、テーブルに置かれた田中の手が見えた。  指一本動かさないまま、先ほどと変わらない声で問いかける。 「朝倉さん。今、絵を残したいと思っていますか」 「思ってます」 「朝倉さん自身は、どうですか」  柏城の視界の端で、淡い緑の壁が油膜のように鈍く曇る。  目を向けると、色は元に戻っていた。 「分かりません」  壁までの距離は、こんなに遠かったか。 「私が残っても、また、忘れられるかもしれない」 「今、そう思わせているのは契約痕です」 「その痕が残ったのは、私が、欲しがったから」 「それでも僕は、今の言葉を朝倉さんだけのものだとは受け取りません」 「同じなんですよ」  朝倉の視線は、頁の上から動かなかった。 「最初に欲しがったのは私でした。みんなに認められて、嬉しかったから」  言葉の終わりが、かすかに掠れた。  花弁の奥で、先ほどまではなかった黒い輪が閉じていた。 「忘れられるって、こういうことだなんて思ってなかったんです」  田中の手が、ゆっくりと傘の柄へ近づく。 「朝倉さん、絵から手を離してください」  朝倉の手は動かなかった。  指の下で、紙がかさりと音を立てる。 「聞いていた話とは、全然違う」  花弁の奥を見つめたまま、朝倉は細く首を振った。 「……結局全部、私のせいですよね?」

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