志乃創 / 第22話

第21.5話 21話後小話【本編よりちょっぴり甘め】

※第21話「その顔、恥でもないけどね」後の小話です。 ※本編より甘めの紫谷と猫屋敷です。 病院を出たところで、猫屋敷は深いため息を吐いた。 自動ドアが背後で閉まる。 消毒液の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。 白い廊下の冷たさも。 握られていた退学届の薄さも。 全部、服の袖に染み込んでいるみたいだった。 紫谷は駐車場へ向かいながら、盗ってきた車の鍵を指先で回している。 金属がかすかに鳴る。 かちゃ、と軽い音が、夕方の空気に浮いた。 「あーあ、絶対ばれたら香月さんに怒られるよ」 「ばれますよ」 「即答じゃん」 「ばれないと思ってるなら、頭いかれてます」 猫屋敷はポケットに手を突っ込んだまま、少し後ろを歩く。 病院の外気はぬるかった。 建物の中にいた時よりは幾分か呼吸がしやすい。 「まあ、ああなっちゃうんで」 「何が?」 「俺たち、外回りより現場なんでしょうね」 猫屋敷が言うと、紫谷は鍵を回す手を止めた。 「そんなひどかった?」 「ひどかったです」 「えー、俺けっこう親切だったでしょ。書類読んでねって言ったし」 「そういうとこです」 「どこ?」 「なんであんたって、いつも喧嘩売っちゃうんですか」 「え?売ってないよう」 「自覚ナシなら最悪ですね」 猫屋敷の声は平坦だった。 紫谷はむしろ面白そうに目を細める。 夕方の光が、茶色い髪の端に引っかかっていた。 前髪をまとめるピンが少しだけずれている。 直したくなって、やめた。 ここは病院の駐車場だった。 「大体、なんでハルくんがそれ気にするのさ」 「そりゃ、嫌じゃないですか」 「なにが?」 「横で聞くの。しんどいですよ」 紫谷が瞬きをする。 一拍遅れて、口元がゆるんだ。 「え、しんどいの?」 「わざわざ食いつかないでください」 「だってハルくんがしんどいって、珍しいじゃん」 「嫌われるの怖い癖に、わざわざ突っ込むからです」 猫屋敷は少しだけ視線を逸らした。 「見てるこっちが、嫌になります」 紫谷は黙った。 風が一度、二人の間を抜ける。 すぐに、いつもの調子へ戻る。 「なにそれ。優し~」 「……はあ」 猫屋敷は露骨にため息を吐いた。 そうやって茶化すところまで、予想できていた。 予想できていたのに、少しだけ胸の奥がむず痒い。 「まあ、嫌いじゃないですよ。そういうとこ」 紫谷の足が止まる。 猫屋敷も仕方なく止まった。 駐車場の白線の上で、二人分の影が並ぶ。 この人も、案外単純だ。 「好きって言えばいいのに」 「言いません」 「どーして」 「俺のオフを邪魔した罪は重いんで駄目です」 「けちぃ」 「けちで結構」 紫谷は不満そうに唇を尖らせる。 その顔が本気で拗ねているわけではないことくらい、猫屋敷にはもう分かる。 分かる程度には、近くにいる。 それから、紫谷は病院の建物を振り返った。 白い外壁が、夕方の光を鈍く反射している。 「あれ、病院デートってことでよかった?」 「やっぱ頭いかれてんじゃないすか」 猫屋敷は車の助手席側へ回りながら言った。 「今のがそのデートって認識なら、今度ちゃんと連れて行ってあげますよ」 「え、また呼んでいいってこと?」 「違います」 「違うの?」 「あんたの頭の病院の付き添いの話です。分かってるでしょうに」 「えーっ、ひど」 紫谷は笑いながら運転席に乗り込んだ。 いつも通りの顔だった。 軽口も、声音も、何も変わらない。 ただ、シートベルトを引く指先だけが少し遅い。 猫屋敷はそれを見ないふりをして、助手席のドアを閉めた。 車内には、昼の熱がこもっていた。 シートに沈むと、背中にじわりと温度が移る。 近い。 外よりもずっと。 隣の気配が、嫌でも肌に触れる距離だった。 「緋毬さん」 「ん?」 紫谷がこちらを見る。 何でもない顔をしている。 そういう顔を作るのが上手い人だった。 「次から、俺のオフに勝手に予定入れる時は、先に連絡ください」 「連絡したら来てくれるの?」 「内容によります」 「病院デートは?」 「却下です」 「じゃあ、ご飯」 猫屋敷は前を向いたまま、少しだけ黙った。 フロントガラスの向こうで、人影がひとつ病院へ入っていく。 「……それなら、まあ」 紫谷が嬉しそうに鍵を挿す。 金属の先が鍵穴に触れる音が、妙にはっきり聞こえた。 「ハルくん、ちょろいねえ」 「今ので行く気なくしました」 「え、待って。ごめん。今のなし」 「知りません」 「ハルくんってば」 「さっさと運転してください」 「んん、はあい」 エンジンがかかる。 低い振動が足元から上がってくる。 病院の白さが、窓の外でゆっくり後ろへ流れていく。 紫谷はまだ何か言いたそうにしていたが、猫屋敷は前だけを見ていた。 横で聞くのはしんどい。 それは、本当だった。 嫌われるのを怖がるくせに、嫌われる場所へ自分から踏み込んでいく。 見ていると、喉の奥が少し詰まる。 時々苛立つ。 面倒くさい。 勝手にしてほしいとも思う。 けれど、隣に居ない方がましだとは言えなかった。 窓ガラスに、紫谷の横顔が薄く映っている。 猫屋敷はそれに見ないふりをした。 見ないふりをしたまま、ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。

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