志乃創 / 第31話

第30話 おかえり

 香月が席を立った時、紫谷は事象報告書の同じ一文を直していた。  さっき消した語を入れ直し、少し考えて、また消す。  香月はその隣へ、薄いファイルを置いた。 「紫谷くん」 「謹んで遠慮申し上げまーす」 「うん、今日も話が早くて助かります」  紫谷は香月を睨んだあと、ファイルを開いた。  数枚めくったところで、その手が止まる。 「久留須美術館の三か月後、今夜見ろってこと?」 「はい」 「経過観察を俺で済ませようとすんなよ」 「君ならすぐに済むでしょう」 「簡単に言うよね、すぐじゃないから」  香月は最後のページをとん、と指で示した。  紫谷は勤務変更通知を摘まみ、ファイルから持ち上げる。 「明日、空けたの?」 「はい」 「んー、まあ。いいよ」 「お願いしますね」  紫谷が勤務変更通知をファイルへ戻し、表紙を閉じかける。 「三か月後って、見れるんですか」  柏城の声に、表紙が一度止まった。 「まあ、俺は見れるときもあるね」 「どうやってですか」 「色々あんの」  紫谷は今度こそファイルを閉じた。 「じゃあ、課長に聞きます」 「俺が話してもいいですか?」 「嫌がんないよ、別に」 「では」 「やっぱやだ」 「……だそうです」  紫谷はファイルを机の端へ押しやり、キーボードへ手を戻した。 「柏城、仕事しなくていいの」 「してますよ。先輩が同じところを三回直してるのが見えるくらいには」 「見るなよ、えっち」 「どの口が……」  紫谷は、消したばかりの語をまた入れ直した。  それきり会話は途切れ、課内にキーボードの音が戻った。  窓の外が暗くなった頃、柏城は端末の電源を落とした。 「お先に失礼します」 「お疲れ様です」  香月が答える。  紫谷は画面を見たまま、片手だけを上げた。 「おつかれ、柏城」  廊下へ出ると、扉が背後で閉じた。 『まあ、俺は見れるときもあるね』  エレベーターの階数表示が、一つずつ減っていく。  署の駐車場から車を出し、帰りにスーパーへ寄った。  買い物袋を助手席へ置き、自宅まで車を走らせる。  玄関を開け、買い物袋を床へ置く。  棚に鍵を載せた拍子に、写真立てが一つ傾いた。  棚には、二人が並んでいた。  傾いた方には、柏城と制服姿の男が写っていた。  セルフタイマーに遅れた男は、柏城の肩へ腕を回しかけたまま笑っている。  上げた片脚が、画面の端で切れていた。  隣の一枚は、車内で撮ったものだった。  助手席の彼女が、カメラを塞ごうと手を伸ばしている。  掌だけが大きくぶれ、その向こうで顔を背けながら笑っていた。  柏城は傾いた写真立ての下辺を、棚の縁と平行に戻した。 「ただいま」  靴を脱ぎ、買い物袋を持ち上げる。  冷凍庫には、同じ形に包んだ米が四つ残っていた。  一番古いものを電子レンジへ入れ、買ってきた鯖の塩焼きを皿へ移す。  即席の味噌汁に湯を注ぎ、テレビをつけた。  温めた米を箸で割る。  端に冷たい部分が残っていた。  食べられない温度ではない。  食べられることと、そのまま食べることは別だった。  柏城は米を電子レンジへ戻す。  テレビでは、出演者がクイズに答えている。  あまりにも自信のある声で間違えたので、箸を持ったまま少し笑った。  電子レンジが止まる。  今度は、きちんと温かかった。  柏城は鯖を一口食べ、味噌汁を飲んだ。  食べ終えると、鯖の骨をまとめて捨て、食器を洗う。  水切り籠へ伏せた茶碗が傾き、柏城は落ちない位置まで押し込んだ。  濡れた手を拭き、テレビを消す。  着替えを持って、浴室へ向かった。  濡れた髪を拭きながら、洗面台の前に立つ。  タオルを離すたび、黒の間から橙色が見えた。  前髪をかき上げる。  玄関の二枚にいる自分は、根元まで黒髪のままだった。  髪を上げたまま、空いた手で洗面台の下を開ける。  前に使った染め剤の箱を取り出した。  軽かった。  商品名のある面を手前にして、元の場所へ戻す。  髪を下ろすと、境目はほとんど隠れた。  柏城は歯ブラシをくわえた。  口を濯ぎ、洗面台の明かりを消す。  寝室へ向かう前に、玄関の鍵を一度引いた。  施錠されている。  寝室へ戻り、携帯電話を充電器へ繋いでからベッドへ入った。  ファイルを閉じかけた紫谷の手が浮かぶ。  問いが終わるまで、表紙は閉じなかった。 『色々あんの』  明日の仕事には関係がない。  知らなくても、何ひとつ困らない。  目を閉じる。  紫谷の「やだ」が、昼間より近くなった。  柏城は寝返りを打つ。 「……色々って何だよ」  暗い部屋で呟く。  返事があった。 お手伝い、ほしい?  女の声だった。  柏城は目を開けなかった。  眠った覚えはなかったが、その声から先を夢にした。

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