志乃創 / 第32話

第31話 明晰夢

 柏城は、姿鏡の並ぶ細い通路に立っている。  眠る前に着ていたTシャツと、ゆるいズボン。  裸足の下には、継ぎ目のない明るい床が続いていた。  左右の壁には、縁のない姿鏡が一定の間隔で並んでいる。  数歩先で道は折れ、その向こうで二つに分かれていた。  片方を覗けば、またすぐ別の角がある。  もう片方はまっすぐ伸びているように見えて、途中から鏡の中へ紛れていた。  路地に似ている。  ただ、空も屋根もない。  向かい合う鏡は、通路と柏城の姿を何重にも奥へ送り込んでいた。  一番手前の像ははっきりしている。  その背後にも、そのまた背後にも同じ像が立ち、遠くなるにつれて白い光の中へ薄まっていく。  怖い場所ではなかった。  鏡は、洗面台や店先にあるものと同じように光を返している。  磨かれた表面には曇り一つなく、柏城が顔を動かせば、どの像も同じように動いた。  そのうち、一番近くの自分だけが妙に見えた。  髪の間から、二つの尖りが覗いている。  柏城は鏡へ近づいた。  黒い髪を押し分けるように、毛の生えた耳が立っていた。  右を向く。  片方が、周囲の音を拾うように傾く。  左を向けば、もう片方も遅れて動いた。 「……これ、俺か」  指を伸ばす。  毛は思ったより柔らかかった。  耳の付け根へ触れた瞬間、触れた箇所とは少しずれたところが細かくざわついた。  こめかみの奥から首筋へ、薄い痺れが広がっていく。  柏城は手を止めた。  耳だけが、指を避けるように後ろへ伏せる。  痛くはない。  ただ、触れている指先と、返ってくる感覚の場所が合わない。  もう一度、今度は耳の先へ触れた。  頭皮の内側を、細い糸で緩く引かれたようなむず痒さが残る。  自分で触れているから、まだ次に何が来るか分かる。  それでも、身体の一部としては馴染みが悪かった。  手を離す。  耳はしばらく伏せたまま、やがて周囲を探るように立ち上がった。  背後で、何かが揺れた。  鏡の中に、尾が映っている。  腰の後ろから伸び、膝裏の辺りまで垂れていた。  赤みを含んだ淡い毛並みが、床へ触れない高さでゆっくりと揺れている。  腰の奥へ力を入れる。  尾は、それに引かれるようにゆっくり持ち上がった。  もう一度力を込めると、先端だけが遅れて横へ振れる。  手足とは違う。  意識したことが一度、身体のどこか深いところへ沈み、それから別の場所へ届く。  柏城は背後へ手を回した。  中ほどへ触れる。  毛が指の間を抜けた途端、尾てい骨から背中へ、薄い震えが駆け上がった。  擽ったいというには深い。  痺れというには柔らかい。  見えない場所へ、別の神経だけが増えていた。  反射的に尾を掴む。  今度は、握った強さが腰へそのまま返ってきた。 「……扱いづらいな」  手を離す。  尾は一度だけ大きく揺れ、それから膝裏へ沿うように収まった。  明晰夢というものは初めてだった。  いつもの夢では、夢だと気づけない。  崩れた壁も、焦げた装備も、返事をしない人間も、その最中にはまだ現実の続きで。  目を覚まし、汗で張りついた服を剥がしてから、ようやく夢だったと知る。  ここでは違う。  耳も尾も現実にはない。  だから、歩いていればそのうち目が覚めるだろうと思った。  柏城は通路を進んだ。  最初の角を右へ曲がる。  姿鏡が並んでいる。  次を左へ。  三本に分かれた道のすべてに、同じ鏡が続いていた。  一つを選ぶ。  数歩進むと行き止まりになる。  引き返した時には、さっきまであった分かれ道が二本に減っていた。  鏡も、少しずつ様子を変えている。  白い天井だけを映すもの。  花瓶の置かれた玄関を映すもの。  陽の入る廊下が、鏡の奥へそのまま伸びているもの。  柏城の姿を返す鏡もあれば、何も映さない一枚もあった。  振り返るたび、配置が変わる。  空だった鏡へ人影が浮かび、さっきまで映っていた自分が、次に見た時にはいなくなっている。  それでも、鏡そのものは明るかった。  光は柔らかく、映る室内にはどれも生活の気配がある。  窓辺の植木。  食卓に残された湯呑み。  子供用の上着が掛かった玄関。  いくつか角を曲がった頃、柏城は足を止めた。  右手の鏡に、広い部屋が映っている。  床には淡い檸檬色の絨毯。  窓辺には低い本棚。  艶のある机の上へ、硯と細い筆が揃えて置かれていた。  机に向かっているのは、小さな子供だった。  椅子へ深く座ると、足先が床へ届いていない。  白いシャツの袖口はきちんと留められ、脇の椅子には紺色の上着が掛かっている。  髪は肩につく程度に長く、柔らかく頬へ落ちていた。  笑う前に目を細める癖だけは、見覚えがあった。  机の上には、学校の宿題らしいノートが閉じて置かれている。  その隣へ、細長い紙が何枚も重ねられていた。  半紙より厚く、幅が狭い。  朱と墨で、文字とも図形ともつかないものが書かれていた。  父親らしい男が、子供の手元を覗き込んでいる。 「筆、寝てるぞ」 「ねてない」 「寝てるよ」  男が後ろから小さな手を包み、筆を立てた。 「力を入れすぎると、指が痛くなるだろう」 「もう痛いもん」 「じゃあ今日は休む?」 「やるけどさあ」  子供は口を尖らせたまま、細長い紙へ筆を下ろす。  柏城には、何を書いているのか分からなかった。  文字に見える部分もある。  同じ線を何度も重ね、最後に四辺を閉じるような箇所もある。  絵でも、習字でもない。  完成した紙を、父親は窓の明かりへ透かした。 「ここ、開いてる」 「ちゃんと書いたよ」 「札は、閉じるところまでが一枚だよ」  子供は椅子へ座ったまま、男を見上げた。 「閉じなかったら?」 「向こうにあるものが、同じ道を帰ってくる」  叱る声ではなかった。  父親は小さな手を取り、最後に足りない一画を一緒に引いた。 「送ったら閉じる。繋いだら切る。必ず、そのままにしてはいけないからね」  子供は新しい紙を一枚取った。  今度は初めから書き直す。  途中で母親らしい女が菓子の皿を運んできた。 「宿題は終わったの?」 「終わったあ」 「じゃあ、それができたら食べようね」 「えー、いまがいい」 「手、真っ黒でしょう」 「ととさまも黒いじゃん」 「お父さんは大人だからいいんだよ」 「あなた、よくないでしょう」  母親が笑い、子供も笑う。  父親だけがしばらく真面目な顔を作ったあと、耐えきれずに遅れて笑った。  何でもない午後だった。  机の端に、小さな名札が置かれている。  学校で使うものらしい。  太い糸で縁取られ、中央には名前が書かれていた。  八月朔日 緋毬  最初は、日付かと思った。  八月の一日。  だが、窓の外では庭木の葉が茶色を帯びている。  母親の膝には薄手のひざ掛けがあり、父親も長袖を着ていた。  日付でないなら苗字だろう。  読み方は分からなかった。  隣の鏡が明るくなる。  同じくらいの年頃の緋毬が、赤いランドセルを背負って玄関に立っていた。  名札は胸へ安全ピンで留められている。  母親がしゃがみ込み、曲がった襟を直す。  父親は玄関の外から、急かすふりをして笑っていた。  次の鏡では、もっと小さな緋毬が食卓の椅子へ膝立ちになっている。  手の届かない皿へ身を乗り出し、父親に腰を掴まれていた。  向かいの鏡では、浴衣姿で庭の手持ち花火を見ている。  帯は子供用に高い位置で結ばれ、片手は母親に握られていた。  柏城が一歩進むたび、別の日が一枚ずつ開いた。  白い靴下のまま家の廊下を走り、母親に呼び止められる朝。  上等なコートを着せられ、父親と同じ色の手袋を嬉しそうに見せる日。  庭で転んで膝を擦りむき、泣かないと言い張りながら父親の背へ乗せられる午後。  眠る前、母親の膝へ頭を置き、伸びた髪を梳かれている夜。  机の上にはいつも、整えられた筆と細長い札がある。  ランドセルの横にも。  菓子の皿の隣にも。  学校の宿題を終えたあとにも。  筆と硯は鉛筆や教科書と同じように、緋毬の生活の中へ置かれている。  鏡を一枚ずつ追ううちに、いくつ角を曲がったのかは曖昧になっていた。  先ほど通ったはずの道は、鏡に塞がれている。  別の角へ進む。  そこにも、幼い緋毬がいた。  前にも後ろにも、笑っている。  合わせ鏡の奥で、いくつもの朝や午後が細く連なっている。  かつん、と足音がした。  どこか遠くで、靴底が床を踏んだ。  柏城は振り返る。  誰もいない。  鏡の中には、狐の耳と尾を生やした自分が重なっている。  その中で、一番奥の一人だけが、こちらを見ていなかった。  顔を横へ向け、鏡の外を覗き込んでいる。  柏城が目を凝らす。  姿が消えた。  次の足音は二つだった。  先程よりも近い。  右の鏡には自分が映っている。  左では、子供が母親の作った菓子を両手で持っている。  その間を、見えない何かだけが歩いている。  柏城は通路を進んだ。  角を曲がる。  足音も曲がった。  今度は、はっきりと近づいてくる。  一歩。  間を置いて、二歩。  止まったと思えば、急に数歩分が詰まる。  鏡の中の緋毬が、別の日へ切り替わっていく。  父親に肩車されている。  母親の袖を掴んでいる。  大きすぎる傘の下で、二人に挟まれて歩いている。  どの鏡にも人がいるのに、通路だけには誰もいない。  足音は、その誰もいない場所を正確に追ってきた。  柏城は歩調を速めた。  尾が膝裏を叩く。  耳が後ろへ向く。  姿は見えない。  それでも、曲がり角を一つ越えるたび、音の位置が近くなる。  前から響いたと思えば、次は背後で鳴る。  合わせ鏡の中では、無数の自分が走り出す直前の姿勢を取っていた。  その一人の背後に、何かが立った。  輪郭は見えない。  ただ、自分ではない影が鏡面を横切る。  柏城は走り出した。  角を曲がる。  尾が鏡へ当たり、乾いた音を立てた。  足音も速くなる。  もう歩いてはいない。  追ってきている。  鏡の中では、幼い緋毬が父親の背で笑っていた。  柏城は、その前を走り抜けた。

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