志乃創 / 第25話

第24話 乾かぬ絵の具

 黒い花の奥で、輪が閉じた。  ぼた。  油彩絵の具が、頁の端から落ちる。  床へ触れても潰れない。  濡れた黒が、磨かれた光の上へ盛り上がる。  ぼた。  今度は、天井からだった。  柏城が顔を上げる。  照明が遠い。  空調の吹出口も、その周囲の天井板も、見えているのに距離が掴めない。    淡い緑の壁を、黒い影が走った。  縦に二本。  横に二本。  朝倉ごと相談室を切り取るように、額縁が描かれる。 「やっぱり、私じゃ駄目なんだ」  影が濃くなった。  一枚ではない。  黒の奥に、同じ黒。  さらに、その奥にも。  わずかにずれた額縁が、何重にも重なっていく。 「もう、戻れない」  朝倉の声が遅れて返った。 『戻れない』 「朝倉さん!」  柏城は椅子を蹴った。  一歩。  近づかない。  もう一歩。  床だけが後ろへ滑った。  朝倉も、黒い花も、同じ大きさのまま動かない。  忘れられたくない。  消えたくない。  ここにいたことを残したい。  重なる声のどれもが、柏城の胸には引っかからなかった。  残響は、柏城を見てもいない。 「柏城さん、そこ、動かないでください」  田中が軽く肩に触れた。 「目印にするので」  柏城が足を止める。  田中が前へと踏み出した。  いつも通りの歩幅だった。  黒い額縁の内側へ入ると、朝倉との距離が一息で消えた。  瞬間、田中の膝が落ちる。 「う、わ」  田中が何もない空間を見上げる。  その視線を追った途端、柏城の目にも、奥行きが開いた。  壁の向こうの廊下。  歩いていく看護師。  窓の外の昼。  そのさらに奥で、黒い額縁が開く。  近い。  遠い。  どちらも、同じ場所にあった。  すべてが一度に、眼球の裏へ押し込まれる。  田中の喉が鳴った。 「これ、近い」  ぐん、と腕を引かれた。  田中の頭上で唐傘が開く。  大きな蛇の目が、崩れた遠近へと割り込んだ。 『下がれ、猛虎』 「やだ」 『馬鹿。お前はすぐ突っ込む』 「だって、目の前だよ」 『目の前だから傘を差すんだろうが』  細い糸が落ちる。  一本。  二本。  幾筋も。  |枲《むし》の|垂衣《たれぎぬ》のようにほつれた繊維が、傘の縁から垂れ下がった。  糸は絵の具を絡め取る。  流す。  雨粒のような細い筋となり、床へ滑り落ちる。  色が薄れた。  だが、その下から濃い油彩が押し返す。  濃い油彩が、垂れた繊維を逆向きに辿る。  張り詰める。  一本、切れた。 『強すぎる』 「何が?」 『こいつは契約痕だぞ』  裂けた糸の切り口から、濡れた色が滲み出す。 『残り滓が、人間を喰い切ろうとするかよ』  朝倉の肩が薄くなる。  病衣の白と皮膚の境目が失われ、背後の油彩へ馴染んでいく。 「や、やだっ……」  朝倉が肩を押さえた。  掌に、濡れた色が移っている。  額縁が一段、狭まった。 『本体だって、人間そのものは消せなかった』  繊維に絡んだ雫が膨らむ。  濡れた色が、糸の芯へ染み込んだ。 『っ、痛えな。くそ』  朝倉が息を呑んだ。  病衣の胸元へ落ちた絵の具は、布へ染み込まずに這っていく。  襟を越え、鎖骨の窪みへ溜まった。 「いや……」  朝倉が指で拭おうとする。  触れた指先から、丸みが消えた。  そこだけ奥行きを失い、塗り潰された絵の一部になっている。  朝倉が手を引く。指の輪郭は戻らない。 『おい、新人!美術館で誰といた!?』  唐傘の鋭い声が額縁の外へ飛ぶ。 「え?」  柏城が顔を上げた。 『喰画を止めた時だ! 誰といた!』 「紫谷先輩と課長です」 『最後に処理したのは!』 「紫谷先輩です」  そこで唐傘が黙った。  切れ残った糸へ、濡れた色が食いつく。  今度は流れない。  一息に傘を伝って駆け上がった。    骨が鳴り、繊維の束がまとめて裂ける。 『……っ、やってくれたな、ひま坊』 「紫谷さん?」 『あの刃は誰がどっち側かなんて、綺麗に見分けねえ』  油彩が朝倉の頬へ届く。  皮膚の上に、濡れた艶が浮かんだ。 『消えた方がいい』 『消えた方がいい』 『消えた方がいい』  朝倉の声が幾重にも重なる。  頬の輪郭が沈んでいく。 『片足突っ込んだだけの奴も、まとめて持って行きやがる』 「朝倉さんはまだ人間でしょ?」 『だから厄介なんだろうが』  傘の内側に、湿った染みが浮いた。  蛇の目が大きく蠢く。 『……俺まで同じに数えやがって』  薄めても、流しても。  朝倉を消そうとする声だけが、何度でも戻ってくる。 「これ、止められる?」 『馬鹿言え。俺は傘で、怪異を殺す刀じゃない』 「……殺せないなら、どうしようか」 『決まってる』  唐傘が絵の具を受け止めながら、低く答えた。 『殺される側から、引き剥がす』  柄が田中の手の中で鳴った。    唐傘が深く傾く。    垂れた繊維が、朝倉の肩へ伸びた。  油彩の表面へ触れ、輪郭に沿って滑っていく。  田中も手を伸ばした。 「朝倉さん。手、出せますか」  朝倉の指だけが動いた。  平らになった指先から、絵の具が滴る。 「無理……」  声が遅れて重なる。 『無理』 『もう遅い』 『戻れない』  額縁が狭まる。  唐傘の繊維が朝倉の肩へ巻きついた。  引いても、身体は動かない。  朝倉の輪郭だけが薄く伸びていく。  濡れた絵の具を指で引いたように、頬から耳までが歪んだ。 『駄目だ、猛虎。このまま引いたらこいつが裂ける』  田中は手を止めた。  朝倉の顔が、幾重もの枠の向こうで揺れている。  消えかけた目だけが、こちらを見ていた。 「朝倉さん」  返事はない。 「俺の声、聞こえますか」 『聞こえない』 『もう誰にも』 『忘れられる』  田中は振り返った。  遠くに、柏城が見えた。  さっきと同じ場所だった。  それで、充分だった。    朝倉の唇が薄く開く。 「……これも、全部、私のせい」  絵の具が脈を打つ。 『全部、私のせい』 『私が弱かったから』 『描けないから』 『残らないから』  同じ声が増えていく。  田中は朝倉の前へ膝をついた。  降り続ける油彩が、田中の肩先で流れていく。 「朝倉さん」  田中の呼吸は、もう乱れていなかった。 「今のは、怪異の残りです」  朝倉の目が揺れる。 「あなたの願いじゃない」 「でも……」 「怖いなら、怖いって言ってください」  返事はない。  油彩が朝倉の喉元まで這い上がる。  声を塞ぐように、皮膚の上へ油の膜を張った。  田中は答えを待たずに続ける。 「助けてほしいなら、助けてって言ってください」 『言わない』 『誰も覚えていない』 『今更戻っても』 「朝倉さん」  初めてこの部屋へ入ってきた日と変わらない、明るい声だった。   「そっちは、朝倉さんの代わりに喋ってくれません」  黒い花が床で揺れる。 「消える方を選ばせるだけです」  朝倉の喉が震えた。  田中は振り返らず、片手を後ろへ伸ばす。 「柏城さん。こっちへ来られますか」  柏城が一歩を踏み出す。  床が後ろへ滑った。  距離は縮まらない。 「駄目です」 「じゃあ、そこからお願いします」 「何を」 「朝倉さんが戻ってきてもいい場所にいてください」  柏城の表情が止まった。  田中はもう朝倉を見ている。  当たり前のことを言った顔だった。  朝倉はまだ、何も選んでいないのに。 「朝倉さん」  繊維が一本、田中の頬を撫でた。  朝倉の目が動く。  田中は唐傘の結界の中で、少しだけ笑う。 「今、味方はここにいます」  田中は自分の胸元を指した。 「俺と」  そのまま、背後を示す。 「柏城さんと」  頭上の柄を二度、軽く叩いた。 「唐傘が」 『……悪い癖だな』  唐傘が低く唸る。  傘は閉じなかった。  裂けた繊維を垂らしたまま、朝倉の上から降る油彩を受け止めている。 『お嬢ちゃんは友達だ。力になるぜ?』  朝倉の唇が震えた。 『言わなくていい』 『戻れないんだ』 『そいつもいずれ忘れる』  声が重なる。  その奥から、別の音が漏れた。 「こわい」  小さかった。  額縁が軋む。  田中は触れも引っ張りもしなかった。  ただ、朝倉の前へ手を差し出す。 「はい」  まっすぐな声だった。 「次を言ってください」  朝倉の喉が何度も動く。 「たすけて」  最後の一音が、油の膜に擦れた。    声は遅れて返らなかった。  額縁の奥に、朝倉詩織の声が残った。

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