志乃創 / 第26話

第25話 橋を渡る者

 田中は差し出した手を下ろさない。 「はい。ちゃんと聞こえました」  平らになった指先が、油彩の中でわずかに持ち上がる。  田中の手を取ろうとしているのか、ただ縋るものを探しているのか。  その動きはひどく頼りなかった。  それでも、朝倉自身が動かした指だった。  田中が手を近づける。  触れる寸前、幾重にも重なっていた額縁が、一斉にずれた。  朝倉のいる奥と、田中の立つ手前。  その間へ、黒い縁が滑り込む。  一枚。  さらに一枚。  閉じかけた額縁が田中の腕を横切り、伸ばされた朝倉の指を再び絵の奥へ押し戻した。 『言うな』 『戻るな』 『お前はもう、こっちだ』  握っていた柄が、手の中で硬く鳴る。 「唐傘さん」 『分かってる』  田中の親指が、柄の留め具を押した。  乾いた音がする。 『抜け、猛虎』  鞘となっていた柄の内側から、細身の刀身が滑り出した。  油彩の線が朝倉の手首へ絡みつく。  田中は一歩踏み込み、朝倉の手首へ絡む線へ刃を走らせる。 『切るな、馬鹿!』  怒声が飛ぶ。  田中の手首が返った。  刀身は朝倉へ食いついた線を断つ寸前で軌道を変え、その手前の油彩だけを浅く撫でる。  一閃。  黒く濡れた床へ、細い銀色の筋が残った。  田中は足を入れ替え、そのまま朝倉の反対側へ刀を滑らせる。  二閃。  もう一本の銀線が、最初の筋と平行に走った。  二本は幾重もの額縁を越え、柏城の立つ側へ伸びていく。  切断されたものはない。  濡れた黒の中に、二本の線だけが残っている。  田中は刀身を見下ろした。 「切らないんだ」 『お前、今まで家で何聞いてたんだ』 「線を引けって」 『だったら引け。余計なもんまで斬るな』  額縁の奥から、声が重なった。 『線を引いただけ』 『道じゃない』 『渡れない』  田中は朝倉を見た。 「朝倉さん。橋は?」 「……渡るもの」 「今、どこに必要ですか」  朝倉の目が、足元の油彩と遠くに立つ柏城の間を彷徨う。 「……ここに」 「はい」  田中は朝倉の足元を指した。 「朝倉さんはこっち」  柏城へ目を向ける。 「岸はあっち」  二本の線の間へ、自分の足を置いた。 「ここは、橋」  油彩が左右へ退いていく。  一人分の道が、額縁の奥から柏城の足元まで通った。 『違う』 『橋ではない』 『そんなものはない』 「朝倉さんが渡ると言いました」  田中は柄を握り直す。 「俺が橋だと決めます」  白く浮かんだ道を見下ろした。 「二人分あれば充分です」  田中は重なる声へ顔を上げた。 「ここでの口喧嘩は、橋守の勝ちです」  額縁が大きく軋む。 「負けた方は、橋の外へどうぞ」 『煽るな、馬鹿!』  蛇の目が細く閉じ、柄の途中から引き金がせり出す。  田中は仕込み銃を持ち上げた。 「何発?」 『雨になるまで』 「傘なのに?」 『降らなきゃ傘の出番がねえだろ』  田中が笑う。 「なるほど」  引き金を引いた。  乾いた音が、相談室を割る。  弾丸は額縁へ届く前に弾け、小さな蛇の目を空中へ開いた。  二発目。  三発目。  銃声のたび、橋の上へ蛇の目が増えていく。  丸い結界が、雨粒のように降り始めた。  落ちる。  開く。  受け止める。  黒い雫は蛇の目を滑り、二本の銀線の外へ流れていった。  橋の上だけが濡れない。 「朝倉さん。傘は?」 「差すものです」 「橋は?」 「渡るもの、です」 「では、どうぞ」  田中が一歩下がる。  朝倉の腕が額縁から剥がれた。  湿った音が鳴る。  皮膚へ丸みが戻った。 「っ、痛い……」 「はい」 「怖いです」 「はい」  朝倉は足を動かそうとした。  けれど、病衣の裾から下が油彩に沈んだまま持ち上がらない。 「無理です。歩けない……」  田中は一度だけ足元を見た。 「柏城さん」  橋の向こうで、柏城が返事をする。 「機動隊でしたよね。抱えられますか?」  柏城の眉が寄った。 「九十九課の人って、偏見すごくないですか」  二本の銀線へ足を踏み入れる。 「抱えられますけど」  柏城は橋を駆けてきた。  遠近の崩れた空間でも、足運びは乱れない。  蛇の目が開く場所だけを踏み、軽々と朝倉の前へ滑り込んだ。  片膝をつく。 「朝倉さん。少し身体を動かします」  柏城は一呼吸待ち、片腕を膝裏へ、もう一方を背中へ差し入れた。  油彩が朝倉の腰へ食いつく。 『こいつはこっちだ』 『渡せない』  田中が銃口を向ける。 「もう決まりました」  銃声と同時に、蛇の目が朝倉の腰元で開いた。  まとわりついた油彩が弾かれる。 「朝倉さんは、もう橋の上です」  続けて足元へ撃つ。  足首を掴んでいた濡れた色が散った。 「数え直さないでください」 『違う』 『こいつはこっちだ』 『返せ』 『返せ』 『返せ』 「理屈は通ればいいんだよ」 『こら。開き直るな』  柏城が朝倉を持ち上げる。  腰を落とし、膝を使って重さを自分の中心へ移す。  そのまま身体を返し、朝倉を背中へ乗せた。 「腕、回せますか」  朝倉の指が、柏城の肩を掴む。 「落としません。苦しかったら言ってください」 「はい、」  柏城が立ち上がる。  朝倉の身体が、油彩から剥がれた。  濡れた布を壁から引き剥がすような音が響く。 「い、っ……」 「すみません」  柏城は謝ったが、止まらなかった。  止まれば、また貼りつく。 『お前ら、ひとつの傘で三人は無理だ!』  後ろで銀線が軋み、蛇の目の一つが割れた。  田中が柏城の隣へ並ぶ。 「走れます?」 「誰に聞いてます?」 「柏城さんです」 「ああ。この状態で、って話ですか」 「はい」 「走れます」  柏城は朝倉の位置を背中の中央へ直した。  膝裏を抱える腕を締め、重心を高く保つ。  田中は後方へ銃口を向けた。 「じゃあ、お願いします」  柏城が踏み出す。  足裏を橋へ叩きつけず、衝撃を逃がしながら加速していく。  田中も隣を走った。  銃声とともに蛇の目が開き、橋へ落ちようとした油彩を外へ弾く。 『もう少し急げないのか!?』 「柏城さん、もうちょっといけます?」 「いけますけど、朝倉さんが……」 「朝倉さん、もう少し揺れても大丈夫ですか?」  柏城の背中で、朝倉がかすかに首を振る。 「……今は、それどころじゃ」 「だそうです」 「救助が雑なんですよ」  銀線の後ろから、橋が崩れていく。  一歩遅れるたび、頭上の蛇の目が消え、油彩が靴底へ迫った。  田中は走りながら引き金を引く。 「朝倉さんは、こっち」  蛇の目が油彩を弾く。 「岸は、あっち」  次の結界が、閉じかけた額縁を押し返した。  柏城は前だけを見ていた。  相談室の磨かれた床。  淡い緑の壁。  そこだけは、歪んでいない。  田中が振り返る。  額縁が橋を噛み砕こうと迫っていた。 「橋の外へどうぞって、言いましたよね」  引き金を引いた。  最後の弾丸が空中で弾ける。  無数の蛇の目が一斉に開き、降り注いだ結界が額縁を外側へ押し広げた。 「聞き分け悪いなあ」 『お前が言うな……』  柏城が床を蹴る。    朝倉を背負ったまま、橋の終わりを飛び越えた。  靴底が相談室の床へ着く。    田中も銀線を越えた。  直後、二本の線が消える。  閉じた額縁が何もない空間を噛み、黒い飛沫となって崩れた。  蛇の目の雨が止む。  空調の音が戻った。  柏城は数歩で勢いを殺し、朝倉を背負ったまま片膝をついた。  背中から腕の中へ、ゆっくりと重さを移していく。 「朝倉さん。着きました」  朝倉は浅い呼吸を繰り返しながら、磨かれた床へ目を落とした。  田中が隣へしゃがむ。 「朝倉さんは、今、どこにいますか」  朝倉の目が動く。  淡い緑の壁。  柏城の腕。  田中の明るい声。 「……病院」 「はい」  唐傘が元の形へ開いた。  裂けた繊維を垂らした蛇の目が、三人の上へ傾く。 『二人分あれば充分とか、二度と言うなよ』 「通ったじゃん」 『通ることと、安全は別だ』  柏城が息を吐いた。 「……あの、九十九課の人って全員こうなんですか?」 「まだ全員とは働いてないじゃないですか」 「今のところは全員こうです」  田中は少し考えた。 「なら、合ってるかもしれませんね」  朝倉がどちら側にいるのか、もう確かめる必要はなかった。  田中はそれでも、朝倉の手が離れるまで、そこにいた。

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