志乃創 / 第9話

第9話 最後の自画像

 久留須に称賛を送ったその無数の腕が。  紫谷には別のものに見える。  夢の中で何度も見た、鏡の向こうから伸びる手。  恨まれる理由は知っている。  助けを求めていたのも。  救われなかったのも。  知っている。 「――っ、」  頭が痛む。  じんじんと耳鳴りが響いて。  くひゅ、と喉から不自然に呼吸が漏れた。  世界が滲む。 『ほう……なるほど!お前も同じか』  紫谷の瞳が怒気を含む。それ以上言わせないように。  だが久留須は止まらない。 『同類の匂いがする。呪いの匂いがする。お前の中にも大勢いる。なあ?』  急に何の話を。意味が分からない。  紫谷の顔色が明らかに悪い。 『同じだ』  久留須は笑った。 『私と同じだよ。お前も忘れられない、だから抱えている。  ずっと  ずっと  ずっと』   「久留須」  声が出た。自分でも驚くほど自然に。  久留須の視線が向く。 『何だ』  柏城は一歩分、紫谷の前へ出る。 「……失踪した人たちはどこですか」 『私の作品だ』 「生きていますか」 『どうでもいいことだ。作品になれば誰も忘れはしない』 「いいえ」  即答だった。  久留須は呆れたように笑う。 『頭が足りん奴だ』  柏城は視線を逸らさない。  苦しんでいる人間がいる。  被害者も帰ってきていない。  ならば聞くべきだった。 『答えを聞いてどうする』  その問いは、胸の奥を引っ掻いた。  暗闇。  雨がばたばたと屋根を叩きつける音。  誰かの声。愛しい、誰かの。  何かが浮かびそうになって、また消える。 「確認、したいんです」 『何故だ』 「待ってる人がいるかもしれないので」  久留須は首を傾げる。  柏城自身も上手く説明できなかった。  そうしなければならない気がしただけだ。  強く。どうしても。 『待つ?』 「家族とか。……友人、とか」  つきつきと胸が痛む。 「恋人とか、」  言葉が妙に引っ掛かった。  思い出せるものはない。  久留須は笑う。 『死んだと伝えて何の役に立つ?』  その言葉に胃の奥がぐるりと混ざる。  理由は分からない。  ただ、無性に腹が立った。 「だから、何ですか」  久留須が目を細める。 「役に立たなくても」  声は震えていた。  恐怖でなく、苛立ちで。 「警察官が、仕事を投げ出す理由にはならないんですよ」  柏城は絵の中の人々を見る。  助けを求めるような顔。泣いている顔。諦めた顔。  どれも、作品なんかじゃない。 「そんな方法じゃ」  思わず口から零れた。 「……何も、残らないでしょ」  愚痴みたいな声だった。  その隣で紫谷はゆっくりと呼吸を整えた。  耳鳴りは遠ざかってゆく。  久留須の意識は完全に柏城へ向いている。 『教えてやろうか』  久留須は笑う。 『消えた人間たちが今どこにいるのか』 「はーあ、だから駄目なんだよ」  久留須が視線を動かす。紫谷を見た。 「そういうとこ」  一歩前へ出る。 「新人君に言われちゃったねえ」 『何が分かる』  紫谷は答えない。 「さんきゅ、柏城。交代ね」 「っ、は?」 「後ろで覚えて。俺らの仕事」  紫谷はそう言うとただ真っ直ぐ、伸びてきた一本の腕を見た。  震えている。助けを求めている。生きている。  だから切れない。  そのはずだった。  紫谷の視線が示す先は腕ではない。  もっと奥、腕が伸びてくる先。 「こいつもやっぱり、自分が大好きで仕方ないみたい」  紫谷は久留須を見上げた。 「ただ、俺の予想は半分外れ。残したいものが別にある」  巨大な自画像へ、ゆっくりと距離を詰めていく。  久留須の笑みが薄れた。  初めて、その奥に焦りが覗く。  紫谷は笑っていた。  気怠く、どこか愛嬌のある、いつもの顔で。  それが今は、ひどく楽しそうに見えた。 「お前さ」  肉切り包丁の刃先が、久留須へ向く。 「何を忘れられるのが、そんなに怖いの?」  展示室から音が引いた。  雨音すら遠い。  空中を埋めていた腕が、ぴたりと止まる。  久留須は答えない。  紫谷は口元に指先を当てる。  分かりやすい、考えるふりだった。 「あ。そっか」  くす、と悪戯っぽく笑う。 「じゃ、聞き方変えよ」  紫谷は自画像を見上げた。 「久留須玄一って、有名だったんだろ」 『……当然だ』 「絵も評価されて、今も残ってる」 『そうだ』 「名前も消えてない」 『そうだ』 「じゃあ、忘れられる心配なんてないじゃん」  久留須の顔が、僅かに歪んだ。 「それなのに、まだ足りない?」 『喧しい』  柏城には、その顔の下に別のものが見えていた。  威厳ある画家。  その奥に、頬の痩せた老人。  さらに奥に、黒い油彩で塗り潰された何か。  一枚の絵ではない。  幾つもの顔が、同じ場所へ無理に重ねられている。 「紫谷さん」  柏城は目を逸らさなかった。 「その下、なにか別の絵があります」 『喋るな』 「いえ。絵というより――」  黒い油彩の隙間で、何かが蠢いた。 「隠して、いるような」 『見るな!』  久留須の声が、展示室を震わせた。  紫谷が笑う。 「見るな?」 『……』 「忘れるなでも、覚えていろでもなく?」  久留須は答えない。  紫谷は肉切り包丁をゆっくりと持ち上げた。  磨かれた鏡面に、自画像が映る。  威厳ある画家の顔が揺れ、その下から濡れた別の輪郭が滲んだ。 「それ、残したかった作品じゃないよね」  紫谷は刃に映る久留須を覗き込む。 「見られたくなくて、上から塗り潰したの?」  一歩近づく。 『やめろ』 「お前が残したかったのってさ」  久留須が叫ぶ。 『やめろ!』  紫谷は鏡面の中の久留須を見た。 「偉大だった頃の自分だけだろ」  久留須の瞳が揺れた。  それが答えだった。 「違うかな?」 『黙れ』 「んは、図星でしょ」  久留須の頬が崩れた。  絵の具が一筋。  涙のように垂れる。 『見るな、みるな、み、みい、る、な、』  久留須は自分の顔へ指を立てた。  爪が油彩へ食い込む。  ずるり。  皮膚のような一枚が剥がれた。  画家の顔。  窪んだ目。  整えられた口元。  それを両手で掴み。投げた。  べしゃり。  黒い油彩が床へ落ちる。  展示室へ生乾きの臭気が溢れた。  油が喉の内側へ膜を張る。  息を吸うほど、舌の付け根が苦くなる。  上塗りの下から、老人の顔が現れた。  痩せた頬。  震える指。  濁った目。 『間違っている』  老人が叫ぶ。 『これも、私ではない!』  黒い油彩が動く。  床の溝へ入り。  額縁を伝い。  壁を上る。  下へ落ちたものが、上へ。  ゆっくりと久留須へ帰っていく。 『来るな』  油彩は止まらない。  足へ。  腹へ。  胸へ。  顔へ。  戻った黒が、老人を覆う。  今度は、別の顔を描いた。  口が横へ裂ける。  目が頬へ落ちる。  骨のような木枠が皮膚を突き破る。  怪物。  久留須はそれを見る。  再び爪を立てる。  剥がす。  投げる。  戻る。 「……窓」  柏城は呟いた。  久留須の腕が大きく振られる。  あの影と同じだった。  胸元を掻きむしり。  自分から剥がしたものを、必死に遠くへ捨てる。 「あの人影……こっちを見ていたんじゃなくて、」  黒が床へ叩きつけられる。  塞がれた空間。  存在しない部屋。  最後の日だけが、何度も繰り返される窓。 「これを捨ててたわけね」  紫谷が肉切り包丁を構える。 「捨てたくせに、離せないんだ」  投げ捨てられた油彩が、床を黒く満たす。  その端は柏城たちへ迫りながら、同時に久留須へ引かれていた。  黒い油彩は、どちらにも行けないまま展示室をのたうつ。 『違う、違う、違う、』  掠れた声。 「当たってるくせに」 『違う!!』  久留須が吠えた。  天井の照明が砕ける。  黒い絵の具がごぷりと溢れ出す。  身構えた時、明るい声が飛んだ。 「柏城」 「はい」 「報告書、よろしくね」 「はい?」  この状況で、何を。  紫谷は久留須から目を離さない。  そのまま固く肉切り包丁を握りしめる。 「今日は早上がりしたいなぁ」  鏡面には、醜く歪んだ久留須玄一の顔が映っている。 「悪い奴を、やっつけたらね」 『やめろ』  久留須が叫ぶ。  今までの余裕は消えていた。  巨匠の顔も、怪異の威厳もない。  そこにいたのは、恐怖に支配された老人だった。 『来るな!!』  黒い波が展示室を埋める。  柏城が咄嗟に飛び退く。  壁が溶ける。床が軋む。  絵の具ではない。  境界というもの。久留須の世界。  絵画の中の空間が現実へ溢れ出す。  展示室の壁が消えた。  代わりに広がる巨大な画廊。  終わりのない廊下。無数の肖像画。  数え切れない人間が描かれている。  その中では、全てが、生きていた。  目が動く。  呼吸をしている。  その度、絵の具が滴り落ちる。  助けを求めるように。  こちらを見ている。  柏城の背筋が凍った。 「これ全部……」 「失踪者」  紫谷が答える。 「たぶん、何十年分」 『そうだ』  久留須の声が響く。  今度は画廊全体から。 『私は保存してやった』 『誰も失わせなかった』 『誰も忘れなかった』 『私は救った』  柏城は即座に否定する。 「違う」 『何が違う』  「全部、違うに決まってる」  額縁。額縁。……額縁。  そこにいる人々。  老いた者。  若い者。  子供も、皆。生きている。だからこそ。  おかしい。 「ふは、そうだね。これは保存なんて上等なもんじゃない」  柏城の喉がひくりと鳴った。 「生きたまま。全部丸ごと、止めてるだけでしょ?」 『……』 「それってさ、救いにはならないの」  そう。ただ生かされているだけだ。  進まない。  死ねない。  老いない。  変われない額縁の中で存在し続ける。永遠に。 「最初は、一枚だったんだろ」  久留須の動きが止まる。 「一枚、描けなかった」 『黙れ』 「筆が思った通りに動かなかった」 『煩い』 「明日も描けないかもしれない。それが怖かった」 『黙れと言っているんだ!』  黒い油彩が跳ねる。  紫谷の頬を掠め、壁へぶつかる。  そこからまた、久留須へ向かって這い始めた。 「大した恐怖じゃないよね」  紫谷は笑う。  意地の悪い笑みだった。  けれど、声だけは妙に静かだ。 「誰にでもあるじゃん。昨日できたことが、今日できなくなるの」 『私を誰と同じだと思っている!』 「そう。それが言えなかった」  一歩近づく。 「怖いって言ったら、普通の人間になっちゃうもんね」  久留須の顔が崩れる。 「だから化け物になった」 『私は、永遠を選んだ』 「なった後で、自分を見た」 『あれは私ではない』 「怖くなって、剥がして、捨てた」 『描き損じを捨てて、何が悪い!』 「でも、無くなるのも嫌だった」  窓を上る油彩。  何度捨てても帰ってくる色。  今も、目の前で繰り返される黒。 「お前が呼んでるんだよ、それ」 『私は呼んでいない!』 「じゃ、なんで戻ってくんの」  久留須は答えない。 「見たくない。でも失くしたくない」  巨匠。  老人。  怪物。  どれにもなれず、どれも捨てられないもの。 「自分だけが化け物になったことに、耐えられなかった」 『違う』 「だから、他人にも同じ選択をさせた」 『彼らは望んだ!』 「外を忘れさせてからね」  紫谷が笑う。 「それ、選んだって言わないよ」 『違う』 「みんなも永遠を選んだことにすれば」  刃先を久留須へ向ける。 「お前だけが、怖くなって人間を捨てたことにならないもんね」  絶叫が響く。 『 俺は化け物なんかじゃない!! 』  それを聞いた紫谷の表情が変わる。寂しそうに。 「……知ってる」  鏡面の刃が久留須を映す。  その姿を。  最後に誰よりも正しく描き出すように。 「人を作品にした時点で、お前は画家を辞めてんの」  呆れた声。 「分かんないかなあ」  鏡面が光を返す。  そこにいた。  怪物として歪んだ、今の自分が。  久留須の動きが止まる。 『やめろ』  懇願だった。 『見るな』  画廊の天井が砕け、額縁が落下しても。  紫谷だけは視線を逸らさなかった。 「なあ、本当は分かってたでしょ。ずっと前から」  崩壊する画廊。  悲鳴を上げる失踪者たち。 「だから、自分だけは描けなかった。逃げたんだろ?」  久留須に呼応するように、絵の具が溶け出す。 「でもさぁ」  紫谷は眉を下げた。 「それって、終わってるじゃん」 『違う』 「違わないんだってば」 『違う!!』  久留須が吠える。   巨大な腕が迫る。  紫谷へ向かって、一直線に。  柏城の目には避けられないように見えた。  紫谷は躊躇なく踏み込む。  振り下ろされる腕の内側へ。怪物の懐へ。最短距離で。 「柏城、ちゃんと見といてな」  その声は、いつもの気楽なものだった。 「怪異の、殺し方」

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