志乃創 / 第8話

第8話 乾かぬ絵の具

「柏城、この仕事初日なんだっけね」 「……はい、」  声を絞り出す。  紫谷は真っ直ぐ絵へ近付いて行く。 「下がってていいよ。後ろで見ててね」 「は、?」  くるりと振り返り、笑う。 「危ないからさ。一応ね」  警戒しているようには見えない。  散歩でもするような歩き方。  それとは反対に、手には例の、肉切り包丁を握っていた。 「ねえ」  紫谷が絵へ話しかけた。  柏城は思わず振り返る。  前後に人はいない。絵に話しかけている。  完全に変人だった。 「聞こえてんでしょ」  返事はない。当然だ。絵なのだから。  紫谷は続ける。 「返してくれない?」  展示室の奥で。  かたり。  何かが鳴った。誰もいない。  だが。  壁に掛かった別の肖像画。少女の絵。  その目が、確かにこちらを向いている。 「……紫谷さん」 「今度は見えた?」 「はい」  紫谷は振り返らない。 「だから言ったじゃん」  そして。  ゆっくり笑った。 「縄張りだと調子乗るんだよ」  ばんっ、と耳が痛くなるほどの音を立てて展示室の扉が閉まる。  柏城は反射的に振り返る。  誰も触っていない。  鍵まで掛かる音がする。  がちゃん。と。展示室は密室となった。  空気がさらに重くなる。  息苦しい。  目が回る。  前を向けば、壁中の肖像画がこちらを見ていた。  さっきまでと確実に違う。  顔がこちらを向いている。  柏城の喉が鳴った。  視界を埋める中央の巨大な自画像はゆっくりと動きだす。  絵の具で描かれたはずの唇が。  人間のように。 『やっと』  嗄れた声が、古びた油絵の中から響いた。 『話せる人間が来た』  足元が冷たい。じんじんと痺れる様だった。  紫谷はまるで待っていたかのように笑う。 「どうも」  そして。  体格にはやや大振りな肉切り包丁を、僅かに体の前方へ出した。  銀色の刃が展示室の照明を映す。 「じゃあ、事情聴取しよっか」  鏡面が辺りの光を拾って反射する。  久留須玄一は絵の中からそれを見た。  窪んだ眼窩。  だがその奥に浮かぶ感情は明らかだった。  興味。そして嘲笑。 『面白い』  絵の具で描かれた口が歪む。 『警察か。今はそういうものまで来るのか』 「仕事なんで」  紫谷は肩を竦めた。 「失踪者返してくれる?」 『返すものなど無い』  即答だった。 「理由を聞こっか。なんで?」 『私の作品だからだ』  壁中の肖像画。その目が一斉に瞬いた。  展示室の空気が震える。  柏城は無意識に拳を固く握った。 『人は忘れる』  久留須が言う。 『忘れられた者は二度死ぬ。私は彼らを永遠に残した』  紫谷は自画像を見上げる。 「じゃ、なんで家族からも忘れさせたの?」 『……』 「残したいならさ。覚えてる人間、多い方がいいじゃん」 『人の記憶など不確かなものだ』 「だからって全部消す?」  紫谷は肩を竦める。 「それ、保存じゃないよね」  油彩の世界で、ゆっくりと両手を広げる。 『私は人助けをしているのに。返せとは随分な物言いじゃないかね』 「人助け、ね。誘拐犯って大体そう言うの、知らない?」  久留須の口元が歪む。 『私の中ならば永遠だ、何がいけない』  壁中の絵画から、無数の手が動き始める。  老若男女何十本もの腕が、額縁の外へ這い寄ってくる。  その腕の一本を見て、柏城は動きを止めた。  手首に腕時計。  監視映像で見た。  失踪した二人目と、同じだった。  呼吸が止まる。  震える指先が空を掴もうとしている。  生きている。  それが、こんなにもおぞましい。  柏城は拳銃を抜いた。  銃口を向ける。  撃て。  撃てば終わる。  そう思った。  額縁から伸びた腕。  助けを求めるように開いた掌。  手は間違いなく、人間のものだった。  セーフティを、外すべきなんだろうか。  目の前にいるのは、被害者なのに? 「あ、やべ」  紫谷は焦った様子で柏城の腕をつかみ、肖像画と距離を取る。  今までの笑みが消える。 「柏城、それ下げて。……後悔したくなきゃ、絶対使うなよ」  久留須は笑った。  愉快さに歪んだ顔。 「くそったれ」  紫谷が小さく吐き捨てる。 「説明しとけよ、あほ課長……」  久留須の瞳が波を打つ。  絵の具のような黒い染みが額縁から滲み始めた。  あれは、なんだ。そう、足が後ずさる。 『頭は使ってこそ価値がある』  額縁が鳴る。 『助けられるのだろう?ならば切れ』 『私ではなく、彼らを』 『どうだね。私よりよっぽど、化け物らしいじゃないか?』  展示室の空気が冷えていく。手の中に汗が滑る。 『どうした』  久留須が笑う。 『切れ。そのために来たんだろう』  無数の腕がさらに伸びる。  もがき壁に爪を立てる生々しい音で満たされる。  何も、出来なかった。  相手に銃弾が効く保証はない。  何より、撃てば自分が殺害犯になる。 「指示をください、紫谷さん」  返事がない。 『怖いか?』  久留須が嗤う。 『切れば死ぬからなあ』  紫谷の包丁の切っ先が、僅かに下がった。  柏城は息を呑む。  紫谷の額にじっとりと汗が増えてゆく。 「……紫谷さん、?」  声を掛ける。返事はない。  久留須だけが喋り続ける。 『傑作の裏には山ほどの失敗作がある。お前達は、それを踏み越えて完成を称賛する』  もがく指が。  助けてくれと、声にならない声を上げる。 『お前もそうやって、誰かを踏んでここに立つ。違うか?』  紫谷は黙ったままだった。  それが、一番おかしかった。  この人はいつだって。  場違いなくらい喋るのに。

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