志乃創 / 第10話

第10話 額縁の外へ

 肉切り包丁が振り抜かれる。  銀色の軌跡は一直線に久留須の胸元へ。  聞こえてきたのは、肉を切り落とす音ではなかった。  絵の具が裂ける音でもない。  もっと硬くて。  もっと乾いていて。  今までに聞いたことのない音。 『――――』  久留須の口が動く。悲鳴は声にならない。  肖像に一本、亀裂が走る。 『や めろ』  ぱきり。  細い音が広がった。 『私は』  亀裂は顔を横切り、蜘蛛の巣のように全身へ伸びていく。 『忘れら れた く』  ぱきん。  小さな音が響いた。  そこから覗いたのは第三展示室だった。  額縁の中に閉じ込められていた人々。  先程見た大学生も。  あの日見た担架が脳裏をよぎる。  白い布。  雨に濡れたアスファルト。  柏城はそれを振り払った。  全員の額縁が消えていく。  久留須の顔が崩れる。  老人。  画家。  怪物。  次々と入れ替わる。  最後に、一人の男の顔になった。  才能を失った、ただの人間だった。 『  俺 は  』  言葉は続かなかった。  その身体が砕けた。  硝子細工のように、粉々に。  油絵が裂ける。空間が軋む。  閉じ込められていた人々は次々と床へ倒れ込んだ。  柏城は思わず息を吐く。  そしてすぐに顔を上げた。周囲へ視線を巡らせる。  一人、二人、三人、四人。  資料にあった失踪者たち。  全員いる。  そのことに安堵しかけて、足が止まった。  五人目。  知らない顔だった。  六。七。八。九。  聞いていない。  学生。会社員。年配の男女。  展示室の隅にも、まだ人がいる。 「……ぁ、」  声が漏れた。  警察が把握していた人数より、明らかに多い。  何十年分。  紫谷の言葉の重さが急に現実になる。  失踪者リストの誰も欠けていない。  この場の誰も死んでいない。  柏城は無意識にもう一度数えた。  間違いはなかった。  胸の奥が、ゆっくりとほどけていく。  安堵の奥から、別の熱が込み上げた。  それが、たまらなく嬉しい。  隣で小さく笑い声がした。  振り向けば、紫谷だった。  怪異が消えていく。  その様子を見上げながら、嬉しそうに笑っている。  救助された人々を見ているわけではない。  境界が閉じるのを見ているわけでもない。  消えていく怪異だけを見ていた。  なぜ。  そう思って、柏城は口を噤んだ。  今、聞くことではない気がした。 「……終わり、ですか?」  紫谷を見る。  握っていたはずの包丁はいつの間にか消えていた。  いつも通りのにへらとした笑い顔。 「終わった終わった。救急呼んで、帰ろっか」  まるで万引き犯でも捕まえた後のような口調だった。  軽い様子に柏城は思わず目元を緩める。  展示室の中央には、久留須玄一の巨大な自画像だけが残っていた。  誰が描かれていたのかは、もう絵を見ても分からない。  名前だけが飾られている。  顔はなかった。まるで最初から存在しなかったみたいに。  柏城はその絵を見つめる。  それから、隣の紫谷を見た。  欠伸をしていた。  また同じように。  気楽そうに。  けれど。  その横顔はほんの少しだけ、疲れて見えた。  喰画事件から二日。  青い空に、鈍色の雲が流れていく。  署の奥。  廊下の突き当たり。  九十九課は相変わらず静かだった。 「失踪者二十三名。全員保護」  柏城が資料を読む。 「健康状態良好、失踪期間中の記憶なし」  香月が微笑む。 「理想的な結果ですね。お二人ともありがとうございます」 「いえ、俺は何も。……記憶、ないんですか。被害者の方々」 「境界にいた人は大体そうです」  香月は書類を閉じた。 「本人にとっては一瞬だったり、数日だったりします」  複雑な気分になった。  あの画廊。  あの額縁。  何十年も閉じ込められていた人もいた。  それなのに。  本人たちは覚えていない。  ならば、あそこから助けたことは救いになるのか。  よく分からなかった。  ふと視線を向ける。  窓際の机で、紫谷はまた寝ていた。  本当に寝ている。  勤務中だというのに、堂々と。 「起こさなくていいんですか?」  柏城が聞く。  香月は紅茶を飲んだ。 「起きていますよ」 「いや、寝てるでしょう」  意味が分からない。 「……あの、紫谷さんってどんな人なんですか」  香月が少し黙る。 「ふむ。……優秀ですよ」 「それだけですか」 「それだけです」  その時。  紫谷が顔も上げずに言った。 「聞こえてるからねー?」  起きていた。  柏城は呆れた声を出す。 「寝てたじゃないですか」 「寝てた」 「……ほら」 「でも起きてもいたんだって」 「どういう理屈です」 「半妖理論?」 「便利ですね」 「便利便利」  全然説明になっていなかった。  香月が笑う。  平和だった。  こうして誰かと雑談するのは、久しぶりな気がした。  静かな午後。  窓の外では変わらず雲が流れている。  柏城は資料を整理しながら呟いた。 「そういえば」 「んー?」  のんきな返事だった。 「この間の包丁ですけど」  紫谷の視線だけが動く。 「消えてましたよね。どこ行ったんですか」 「あー」  気の抜けた声。 「知らない」  柏城は頭を抱える。 「知らないで済ませないでください」 「気付いたら出来た的な」 「余計駄目じゃないですか」  後ろから小さな笑い声が聞こえた。  香月だった。 「まあ、その辺は深く考えなくていいと思いますよ」 「そんな無茶な」 「考えても答えは出ないので」  香月は紅茶を一口飲む。 「ただ、あの包丁にはあまり近づかない方がいいですね」  柏城は眉をひそめた。 「怪異だから危ないとかですか?」 「それもありますが」  香月は少し考えた。 「どちらかと言えば、紫谷くんのものでもないから、かな」 「勝手なこと言って。ちゃんと俺のだよ」  紫谷が言った瞬間。  机の上の書類が、ぱらりと一枚めくれた。  窓は閉まっている。  風など吹いていない。  香月は紅茶に視線を落とした。 「はいはい。そうでしたね」  柏城はしばらく紫谷を見つめた後、そっと追及を諦めた。 「……失踪期間、最長で十年以上ですか」  香月が資料を眺めて言った。 「復学とか大変そうですね」 「就活やらも、苦戦するでしょうね」 「人生めちゃくちゃじゃん」  紫谷が言う。  柏城は資料を見る。 「まあ」 「ん?」  少し考える。 「また、やり直せばいいんじゃないですか」  香月が視線を向ける。  柏城は書類にペンを滑らせている。 「え、」  紫谷が瞬く。 「失った時間は返ってこないですけど」  当たり前のことを言う。誰も何も言わない。  柏城は続ける。 「だからまあ」  コーヒーを一口飲む。 「どうせ落ち込んでても腹は減るし」  香月が固まる。 「朝になるし」 「柏城君」 「出勤もしなきゃいけないんで」  真顔だった。 「いや、言いたいことは分かるんですが、」  香月が困ったように笑う。 「もう少し言い方が」 「変でした?」 「だいぶ」  香月はしばらく柏城を見た。  それから小さく息を吐く。 「君、意外と強いね」 「そうですか?」  柏城は首を傾げた。  本気で分かっていない顔だった。  香月は答えない。  機動隊壊滅事件。  二十三人死亡。  生存者一名。  その報告書が脳裏を過る。  普通なら立ち止まる。  それでもこの青年は前を向いて歩いている。  歩くしか、ないのかもしれないけれど。 「ん、強いと思うよ」  代わりに紫谷が言った。  缶コーヒーを揺らしながら。 「結構」 「そうですかね」 「うん」  柏城は少し考えて、資料を机に置いた。 「でも、みんなそんなもんじゃないですか」  香月は思わず目を細めた。  そう言える人間ばかりなら。  きっと世界はもう少し生きやすい。  電話も鳴らない。相談も来ない。  九十九課らしい静かな午後。  やがて時計の針が定時を指す。  柏城は伸びをした。 「じゃあ、お先です」 「お疲れさまです」  香月が微笑む。  紫谷は机に突っ伏したまま片手だけ上げた。 「おつかれー」  やる気の欠片もない。  柏城は苦笑しながら課を出て行く。  からからと音を立てて扉が閉まった。  柏城を見送った後、紫谷はいつの間にか机に突っ伏したまま眠っていた。  眠りは浅かった。  夢だと分かっていた。目を開かずとも。  足元の感触で。  空気の重さで。  静けさで。  紫谷は、ゆっくりと顔を上げた。

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