志乃創 / 第27話

第26話 楽しい時間

 田中は唐傘を光へ透かした。  和紙には黒い染みが残り、縁も少し毛羽立っている。  帰ったら、染み抜きをしないといけない。 『ひま坊から補修代取ろうぜ』 「紫谷さんから?」 『あいつの置き土産だろ』  唐傘が和紙を小さく鳴らした。 『染み抜きと毒抜きじゃ、高くつくぞ』  田中は傘を透かしたまま、少しだけ目を細めた。 「……うーん。母さんに見てもらおっか」 『そうしろ。お前が触るなよ』 「信用ないなあ」 『あるわけねえだろ』  田中は唐傘を閉じ、椅子の脇へ立て掛けた。  それからスマートフォンを取り出し、病院名と病室番号、契約痕が再び動いたことを短く打ち込む。  宛先は、伊藤直樹。  送信して、画面を伏せた。 「今日中に来てくれますかね……」 「来ないことあるんですか?」 「直樹さんだからなあ」  仕事を放り出す人ではない。  ただ、返事をするまでの時間も、歩く速さも、本人の中ではいつも同じように流れている。  急いでいるところを、田中はほとんど見たことがなかった。 「あ!既読ついた!」  柏城が画面を覗く。 「返信は?」 「ないです」 「来るんですかね」 「まあ、既読がついたので……?」 『期待値低すぎるだろ』  廊下から車輪の音が近づいてくる。  看護師に押され、朝倉が病室へ戻ってきた。  相談室を出た時より顔色は落ち着いていたが、病衣の肩にはまだ力が入っていない。 「お待たせしました」  看護助手が車椅子をベッドの横へ寄せ、ブレーキを掛ける。 「まだ吐き気と脱力があるので、起き上がる時は必ず呼んでください」 「分かりました」  朝倉が答える。  柏城は邪魔にならない位置へ下がり、看護助手が朝倉をベッドへ移すのを見守った。  毛布が掛け直され、ナースコールが枕元へ置かれる。 「何か変わったら、すぐ押してくださいね」 「はい」  看護助手が病室を出た。  扉が閉じてから、柏城が朝倉へ目を向ける。 「体調は大丈夫ですか」 「まだ少し、気持ち悪いです」 「……そうですよね」  それ以上は聞かなかった。  田中も顔色と呼吸を一度確かめ、スマートフォンへ目を落とす。  既読のまま、返信はない。 「契約担当者には今連絡しました」 「今日、来て決めるんですか」 「ええと、恐らく……今日中には」  田中が答えた、その時だった。  病室の扉が二度、控えめにノックされる。 「失礼します」  甘ったるい声に、田中が勢いよく顔を上げた。  扉が開く。  カラ。  少し遅れて、コロン。  直樹が病室へと足を入れた。  田中はメールの送信時間と時計を見比べる。 「……え、早くないですか?」 「うん。遅いより良いよね」  息を切らしてはいない。  急いできたとも言わない。 「仕事だから、ね」  甘い声も、ゆっくりした動作も普段と変わらなかった。  直樹は朝倉の顔色を確かめ、枕元のナースコール、測定器を外した跡の順に辿る。 「こんにちは。自己紹介は初めてだね、境界院契約担当の伊藤です」  朝倉の指が、毛布の上でわずかに動く。  直樹は急かさず、その返事を待った。 「……朝倉、詩織です」 「うん。よろしくね、詩織さん」  直樹はベッドから一歩離れた場所で止まる。  頬の色から胸元の上下へ、最後に毛布から出た手へと注意が移る。 「まだ気持ち悪いの?」 「少し、だけ」 「痛むところはあるかな」 「手と、肩が……でも、さっきよりは」 「無理に起きなくていいよ。そのままで聞かせて」  声だけが近かった。 「今日の朝、何を考えていたか教えて欲しいな」  朝倉はすぐには答えなかった。  毛布の端を摘まんだ指が、わずかに縮こまる。 「……私じゃ、駄目なんだって」  直樹は口を挟まない。 「戻れないし、消えた方がいいんだって、そう思って」  一度、言葉が途切れる。 「でも、あれが全部、私の気持ちだったのかは……分からなくて」 「それで、今はどう?」 「……あの、分かりません」  直樹は何も言わなかった。 「もう、選びたくない、です。怖いのは、嫌……」  急かさず、途中で口を挟まず、最後の音が消えてから小さく頷く。 「うん、いいよ」  直樹は膝の上で資料を揃え、そのまま表紙を閉じる。   白く長い指が、紙の縁を静かになぞった。  詩織はその動きを追ってから、遅れて顔を上げた。 「では、事前に伝えた条件で。契約へ進もうか」  詩織の肩が小さく揺れる。  直樹は首を傾けた。  口元より先に、瞼がわずかに緩む。 「そんなに、焦らないで」  ベッドの前まで近づいた。 「分からないことや、嫌なことがあれば、その場で言って良い」  詩織が腕を伸ばしても、袖口に触れるかどうかの間が残っている。 「はい」 「ふふ、良い子だね」  資料を開く指先に迷いはない。  それから、田中と柏城へ視線を移した。 「猛虎君と柏城君は、直帰でいいって聞いてるよ」  言いながら資料を軽く持ち替える。 「え、」  柏城が声を漏らした。  直樹はにこりと笑う。 「この後は、俺がやるからね」 「待ってください」  柏城は思わず口を挟んだ。 「契約ですよね。不正防止とか、見届けなくていいんですか」  詩織も田中を見る。  田中は「あー、」とだけ漏らして、困ったように視線を逸らした。  一度は詩織を見たものの、目が合う前にまた壁の方へ逃げていく。 「田中さん?」  柏城が呼ぶ。  田中の耳が赤かった。 「……んー、えっとぉ……」  唐傘は田中の手元で黙っている。  さっきまであれだけ口を挟んでいたのに、今だけは和紙を鳴らしもしなかった。  田中は咳払いを一つする。 「直樹さんの契約は、その、」  声が尻すぼみに小さくなった。 「性行為、で、するから……」  誰も喋らなかった。  天井で蛍光灯が低く鳴っている。  柏城は固まり、 詩織は膝の上で、片方の手をもう一方の手で包んだ。 「形式の話だよ」  直樹はさらりと言う。 「もちろん嫌なら、審査会へ戻して別の手続きを選べるよ」  声は柔らかい。  逃げ道を塞ぐ圧はなかった。 「強制は違法だからね」 「……」  柏城が言葉を探すあいだ、直樹は返事を待つように口元を緩めていた。 「俺、リリンだから」  柏城は聞き返そうとした。  けれど、直樹が口にした音を自分の舌へ移せない。  喉までは出かかったはずなのに、名前だけが形を結ばずに消える。  それでも田中の赤くなった耳を見れば、おおよその方向は察せられた。 「……あー、悪魔って、そういう感じの」 「そういう悪魔もいる、ってことです」  田中が小さく補足する。 「詩織さんの魂はきちんと元の輪廻へ戻す。俺が勝手に使ったりはできないよ」  詩織の肩がこわばり、内側へ入る。 「……学校では、悪魔とは何があっても契約するなって習ったんですけど、」 「そうだね。何も間違ってない」  直樹はあっさり頷いた。  否定されると思っていたのか、詩織がわずかに目を上げる。 「人を騙し、契約の穴を探す。俺達はそう繁栄してきた欲の本能があるからね」  詩織は黙って続きを待った。 「だから、境界院も俺を信用しているわけじゃない」  直樹は紙の端を爪で押さえる。  浮いていた白の角が、下へと戻った。 「ただ、他が出来ないから仕事が来るだけ」  毛布の中央に、新しい皺が寄った。 「俺は君の人生を、君のものとして扱うよ」 「じゃあ……」  詩織は乾いた唇を湿らせた。 「伊藤さんは、何のためにそこまでするんですか」  直樹の表情が、嬉しそうに明るさを持つ。 「いい質問だねえ」  顔を上げた詩織は、そのまま瞼を閉じるきっかけを失う。  直樹は動いていない。  それでも詩織は、襟元を指で押さえた。 「魂は返す。契約も俺のものにはしない」  ゆっくりと、言葉を置く。 「でも、その途中で生まれるものは別かな」 「途中で……?」 「羞恥とか、ときめきとか。……ああ、勿論、気持ちいいのも」  最後の声だけ、小さく落ちた。 「そういうものは、俺にとっての食事だから」  詩織の息が、喉の奥で一度止まる。  田中は窓の外へ顔を逃がし、柏城は口を半ば開いたまま、言葉を出せずにいた。 「つ、つまみ食いするんですか、仕事なのに」 「悪魔は欲深くなくてはね」  直樹は悪びれない。 「境界院の役付きとして働いてるんじゃ……」 「仕事の《《ご褒美》》は必要だよ」  一言だけ、舌の上で転がすような言い方だった。 「言い方……」  柏城の声が低く沈む。  直樹の身体は柏城へ向かない。  会話の中心には、詩織だけが残されていた。 「怖がらなくても、大丈夫」  カラン、と尾が揺れ音を立てた。 「契約だから仕方なく、なんてつまらないことは言わないさ」  直樹の指先が、下唇の端へ一度触れる。  詩織は息を止めたまま、直樹の次の言葉を待っていた。 「説明をした後で、改めて同意を取る。ここで断ってもいい」  直樹は資料を持ったまま、上体を傾けた。 「ただ、ひとつだけ約束出来ることもある」  瞼がゆるゆると細められる。 「俺を選ぶなら、楽しい時間にしてあげよう」  病室の輪郭が、わずかにほどけた。  蛍光灯の明るさだけが遠のき、直樹の手元と、言葉を置く口元だけが輪郭を増す。  横から見ていただけの柏城も、次の言葉を待っていた。  綺麗だと思った。  それを、受け入れかけたことが恐ろしかった。  目を逸らそうとして、逸らす理由を忘れる。  田中も横を向ききれずにいる。まばたきが、普段よりわずかに遅い。 「……直樹さん、あの、俺たちもあてられてます」 「ああ、ごめんね」  直樹は悪びれずに笑った。 「美味しそうだから、少し。悪いことをしたね」 「少しでこれですか」 「リリンだからね」  冗談と同じ調子だった。  誰も笑えなかった。  直樹は詩織へ視線を戻す。 「詩織さん」  呼ばれただけで、膝の上の毛布が細く引き攣れた。  その小さな変化を拾い、直樹は声を一段落とす。 「怖いままで終わらせないことを誓うよ」  毛布の皺は、これ以上深く増せなかった。  柏城が何か言いかける。  その肩を、田中が掴んだ。 「行きましょう」 「置いていっていいんですか?」 「ここから先は、俺たちが隣にいる場面じゃないです」  田中の声は小さい。  けれど、迷いはなかった。 「選ぶのも、説明を聞くのも、契約するのも、朝倉さん本人です」 「でも、悪魔ですよね?」 「直樹さんは、約束や契約を破りません」  田中の顔が、一度だけ直樹へ戻る。  直樹は変わらず穏やかだった。  それでも、病室の中で彼だけが過剰に目を引いた。  田中は気まずそうに眉を下げる。 「……それに、ここにいると色々と邪魔になります」 「邪魔」 「主に、俺たちが」  柏城は返事に困った。  唐傘が、ぱた、と小さく揺れる。 『大人の契約だなあ』 「黙ってて」  田中は耳まで赤くしたまま言った。  詩織は顔を伏せない。  怖い。  恥ずかしい。  逃げたい。  それでも、直樹の前から退こうとは思わなかった。  こんな時に。  こんな契約を前にして。  この人と、そういうことをするのなら。  契約を、選んでもいいのかもしれない。  喉が渇く。  背中の病衣が、肌へ薄く貼りついている。  喰画の中で凍りついたままだと思っていたものが、みっともなく動いていた。  自分で自分に呆れるくらい、馬鹿みたいな感情だった。  誰かを羨ましいと思い、誰かに触れたいと思う。  そんなくだらない欲を抱えたまま、生きていたい。  そのくだらなさを、手放したくはなかった。 「……説明を、聞きます」  声は震えたが、言葉は途中で掠れなかった。 「もちろん」  直樹が資料へ目を落とす。  壁の時計の秒針が、再び耳に届いた。  蛍光灯も、ただ明るいだけのものへ戻る。  柏城はそこでようやく、自分の呼吸が浅くなっていたことに気がついた。 「最終同意は、もう少し経ってから取るよ」  直樹は資料を開く。  指先が頁を送り、署名欄の手前で止まる。 「それも、仕事だからね」  その声は、どこか淡々としていた。  田中は柏城の肩から手を離さない。 「ほら、もう行きますよ」  扉を開ける。  廊下へ出た途端、空気が急に冷たく感じられた。  田中が深く息を吐く。 「……毎回、慣れないんですよね」 「毎回あるんですか、あれ」 「や。たまに、ですね」  唐傘が、田中の手元で大きく笑った。 『猛虎、顔真っ赤だぞ』 「うるさいよ、備品のくせに」 『あ・い・ぼ・う』 扉を閉める前に、柏城は一度だけ詩織を眺める。 詩織はまだ迷っている。 それでも、自分の指で資料を開いていた。

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