志乃創 / 第43話

第36話 再入室

 使用済みの舌圧子が、廃棄袋の内側を、ぬる、と滑った。  底までは落ちなかった。  田中が、紫谷の退出時刻を記録へ加えた。 「柏城さん、床をお願いします」 「はい」  柏城は小型ライトを床へ寝かせた。  横からの光に、金網の角を中心とした弧が浮いた。  水場側の一部だけ、床の艶が深く削れている。 「これ、……」  柏城は空いた隣へ視線だけを流した。  小型ライトを持ち替える。  田中が端末から目を上げた。 「水場側だけ、痕が深くなってます」  柏城はライトを持ち上げ、床に近い金網から順に照らした。  猫屋敷が床へレンズを向ける。 「接地面、どうします?」 「今は動かさず、位置だけお願いします」 「分かりました。それで進めます」  室内に溜まっていた熱が服の内側へ残り、外気は袖口から入ってくる。  道路脇の草には、夜露が残っていた。  葉先から落ちた水が、土をぽつりと濃くする。  朝から何も入れていない腹が、遅れて縮んだ。  田中には、香月を呼んでくれと頼んだばかりだった。  紫谷は業務用携帯を取り出し、香月の名前を押す。  呼び出し音が二度鳴る間に、土の濃い点から輪郭が消えた。 『はい』 「香月さん、交代して」 『理由は?』  画面の通話時間だけが、進んだ。 『紫谷くん』 「呪い関連だと思っただけ。まだ何も分かってない」 『俺は思うこともできませんよ』 「役に立たなくていいから、代わって」 『では、|結《・》|果《・》が出るまで俺が現場を預かりましょう』 「……香月さん」 『役に立たなくていいんでしょう?』  携帯が耳元で短く震えた。 「あ、そ」  紫谷は電話を切った。  画面の上端に、田中からの共有記録が届いている。  横から照らされた弧の先に、スケールが置かれていた。  ケージの外側は、画面の端で切れている。  紫谷は画面を閉じた。  新しい手袋の口は、ぺたりと閉じていた。  冷えた指ではうまく分けられず、息を吹き込んで開いた。  玄関扉を引く。  内側に溜まっていた空気が、む、と顔へまとわりついた。  外で冷えたマスクへ水がつく。  服の内側に残っていた熱と混じり、どちらの温度か分からなくなる。 「内側にも新しい傷はありません。床の痕とは別だと思います」  柏城が、田中へ報告していた。 「分かりました」  田中は再入室時刻を記録へ加える。  接地面未確認。  再入室。  猫屋敷がカメラを下ろした。 「交代は?」 「してくんないって」 「なら、早めに終わらせましょう」  柏城のライトは、まだ床を照らしている。  その先で擦過痕が途切れ、給水管の真下だけが結露に濡れていた。  間にある床は乾いている。 「ハル君、さっきの写真もう一枚。シンクまで入れて」  猫屋敷が二歩下がる。  柏城は乾いた幅へスケールを移した。 「縄の支点は」 「金網には確認できません。接地面は未確認です」 「写真だけ先に香月さんへ。配置は照会中」 「縄は保留?」 「うん」  柏城がライトの角度を変えかける。 「そこ、動かさないで」 「はい」  光が止まった。  シャッターが切れる。  田中は「接地面未確認」を残したまま、次の行を始めた。  現場を出た頃には、地面から先に夜が一段薄くなっていた。  公用車へ向かいかけたところで、田中がコンビニの看板を指す。 「おなか減りません?」 「減った。賛成」  猫屋敷が先に進路を変えた。  自動扉が開けば、暖気は顔の高さから落ちてきた。  靴の中には持ち出した冷えが残っている。  紫谷は弁当の棚を通り過ぎた。  一食分が、透明な蓋の下へきちんと収まっている。  どれも、終わりまでが遠かった。  クリームパンを一つ取り、紙パックのカフェオレまでが片手に収まった。  猫屋敷のカゴには、弁当とおにぎりとパンが重なっていた。 「それ全部朝食ですか?」 「え、はい。腹減ってたら動けないんで」  猫屋敷はもう一つ、おにぎりを足した。  田中が即席の汁物が並ぶ棚の前で立ち止まった。 「……あったかい味噌汁飲みたいなあ」 「そこにあるじゃん」 「実家の朝ごはんの話ですよ」 「あーね?」  柏城は鮭とツナマヨのおにぎりを一つずつカゴへ入れ、最後に水を取った。  公用車へ戻る。  柏城がエンジンをかけると、送風口から冷たい風が出た。  助手席で猫屋敷がホットスナックの袋を開ける。  後部座席では、田中が味噌汁をカップホルダーへ置き、塩むすびの包装を剥がしていた。  田中の膝で、業務用端末が震えた。  画面へ伸びた手より先に、紫谷は掌を端末ヘ置く。 「食ってからね」 「見ながらでも良くないですか」 「米、落とすよ?」 「落としませんって」  紫谷は手を退けなかった。  猫屋敷はおにぎりを食べ終え、一つ目の弁当を開けていた。  紫谷もクリームパンの袋を破った。  パンの中心だけ、クリームがまだ冷たい。  一口目を飲み込むと、腹の内側がその分だけ狭くなった。  カフェオレへストローを刺す。  窓が下から曇り始めた頃には、膝に空の袋が残っていた。  紫谷は端末から手を退ける。 「ん、いいよ」 「まだ半分ありますけど……」 「俺は食い終わったもん」  田中は味噌汁を一口飲み、端末を開いた。 「被害者の端末、暫定結果が来てますね」  柏城が運転席から振り返る。  その視線は紫谷の膝を越え、田中の持つ端末で止まった。 「最終操作は?」 「生配信の視聴です。開始から終了まで開いたまま」 「……あ。昨日テレビ出てた人じゃん」 「尾峰真子、だそうです」  猫屋敷も画面を覗く。  定食屋のテレビに映っていた女の顔が、端末の中で縦長に切り取られていた。 「異音が始まったのは」 「配信中です。終了後、端末には触れられていません」 「見てたの、その人だけ?」  田中の指が画面を下へ送る。 「いえ、同時に見ていた人は他にも」  送風口から温風が出続けていた。  窓の曇りは、紫谷の横に残っている。 「じゃ、何でこの人だけ死んでんの」

運営おすすめ

週間ランキング

全ランキング

反応スコアランキング

もっと見る

PV・ブックマークランキング

もっと見る

更新された連載作品

すべて見る
読み込み中…

新着短編

すべて見る
読み込み中…

作品一覧

読み込み中…

作品ダッシュボード

作品全体の公開状況と、読者からの反応をひと目で確認できます。

作品パフォーマンス

選択期間のPVが多い順

上位5作品
ライブラリ

作品の公開状況と構成

最近の更新

最後に編集した作品

要チェック

公開前に確認したい項目

プレビュー
読者に表示される見た目

表示設定

文字サイズ
100%
背景色
縦書き表示
リッチモード
目次
読み込み中…

キーワードを入力して作品を探しましょう

アクセス解析
アクセス解析データは 5分おき に自動更新されます
読み込み中…
ランクイン記録
通知
通知はありません
地形ブラシ
25
スタンプ
ツール
装飾
表示
100%

世界地図

100%

REACTION SCORE

反応スコアの内訳