志乃創 / 第36話

第35話 過程のない死

 マスクの内側へ、吐いた息が返ってくる。  頬へ触れた熱が薄れ、吸い込んだ朝の冷気が不織布を抜けた。  暖房の止まった部屋で、紫谷の指先が顔を覆う白布をずらしている。  柏城は鼻から息を吸った。  冷蔵庫の脇には、潰れた袋と埃。  どれも、鼻の奥に引っ掛かったものとは違った。  シンクには食器が重なり、排水口には飯粒と野菜屑が張りついている。  もう一度だけ、深く吸う。  古くなった脂が、舌の付け根へ薄く広がった。  水気を吸った餌が皿の底で崩れ、舐め残しがこびりついているような。  シンクに残った食器や、排水口へ張りついた飯粒や野菜屑とも違う。  柏城は遺体へ視線を戻した。  居間と台所の境目で、紫谷の指先が白布の端を押さえている。  ほかに動くものはなかった。  唾を飲み込む。  傷みかけた餌の味が、舌の奥へ残った。  閉じたカーテンの合わせ目は細く青白んでいる。  暖房の止まった部屋で、紫谷が遺体の袖口を避けた。  手首には暗い帯が残っていた。  フラッシュライトの光が、その端から肘側へ移っていく。  柏城は胸ポケットからメモ帳を抜いた。  紙を開いた時には、紫谷はもう反対の腕を見ていた。 「……両方かあ」  短く欠けた爪の縁へ、黒いものが入り込んでいる。  人差し指と中指は特に深く、指腹にも細い裂けが幾つも走っていた。 「田中君、爪の採取って何出てる?」 「はい」  台所にいた田中が、クリップ留めの記録を開いた。  クリアポケットが擦れる。 「右手一から三指、左手一、二指。褐色付着物」  指先が次の欄へ移った。 「簡易確認は土壌ですね」  紫谷が顔を上げる。 「庭は?」 「掘り返した跡はありません。敷地内は確認済みです」 「植木鉢」 「室内外ともに無し」  爪の内側だけに、乾いた土が残っている。  靴底はきれいだった。  ズボンの裾にもついていない。 「ハル君よろしく」  猫屋敷は既にカメラを構えていた。  紫谷がライトを外側へずらす。  床へ触れず、足を開いて上体を落とす。  両手を収めたあと、スケールを添えた爪先へレンズを寄せた。  シャッターが二度鳴る。 「次。左ね」 「ライト、もう少し上で」  紫谷が角度を変えた。  爪の縁から反射が消えたところで、シャッターが鳴った。  ストラップが猫屋敷の上着を擦る。  田中は記録を閉じて台所へ戻り、冷蔵庫の扉を開いた。 「水はありますね。開いてます」  田中は扉を押さえたまま、記録をめくる。 「惣菜の購入は昨夜の十九時四十八分」  声の向こうで、シャッターが鳴った。  流しには茶碗と箸が一組伏せている。  ゴミ袋から覗く惣菜の容器の脇には、鑑識の番号札が置かれていた。  開封された水は冷蔵庫に残り、その向こうで、遺体の腹部だけが衣服の下へ深く落ち込んでいる。 「田中さん、来客は?」 「なさそうです。ゴミも一人分ですね」  田中が冷蔵庫を閉める。  パッキンが吸いつき、低い駆動音が戻った。  柏城は時刻の横へ短く書き足す。  顔を上げれば壁際に金属製のケージがあった。  底の受け皿には白い紙が敷かれ、中央へ小さな器が一つ置かれていた。  ケージの横には、未開封の吸水シートが立て掛けられている。  床へ視線を滑らせる。  爪を立てた傷も、散った砂もない。  毛は一本も落ちていなかった。  柏城は手元の資料を開いた。  資料の飼育欄には、斜線が引かれていた。  余白には、ペット飼育準備中と推定。  青いペンで書き足されていた。  文字の上へ親指を置く。  喉の奥には、まだ傷んだ餌の油が残っていた。 「田中さん」 「はい」 「これ、いつ買ったか出てます?」  田中がケージの前へ来る。  金網には触れず、資料を確かめた。 「購入履歴はまだですね」  柏城はケージの底を見る。  敷かれた紙には、折れも皺もない。 「猫屋敷さん、こっちもお願いします」 「はい」  猫屋敷が遺体から離れ、ケージの正面へ回った。  シャッターが一度鳴り、次は器の内側へレンズが寄る。  猫屋敷が戻ると、紫谷のフラッシュライトは白布の端で止まっていた。 「口腔いこっか、準備して」 「分かりました」  猫屋敷の手元で、小さな解除音が鳴った。  柏城は資機材ケースを開き、舌圧子の包装を破る。  柄を差し出すと紫谷が受け取り、白布の端を頬へ沿わせてずらした。  小型ライトを点け、乾いた唇へ照準を合わせる。  口角に、黒い糸のようなものがこびりついていた。  紫谷が顎を支える。  歯列がゆっくり開き、舌圧子が濡れた舌の上へ入った。  乾いた唇の内側だけが濡れている。  前歯の隙間で、黒いものが鈍く照り返した。  ……糸ではない。  数本の髪が歯に挟まり、奥でひとつの束になっていた。  唾液を含んだまま、舌の上へ重なっている。 「そのまま」  シャッターが鳴った。  角度を変えると、奥歯の裏にも細い毛先が貼りついていた。  そのうちの一本は歯茎に沿い、口の奥へ消えている。 「撮れてる?」 「はい」  田中が新しいピンセットを差し出す。  舌の脇に固まった束を、先端で少しだけ避けた。  その下にも、髪が詰まっていた。  ライトを下げる。  濡れた毛先が幾重にも重なり、喉の入口を塞いでいる。  もう一度、シャッターが切られた。  紫谷はピンセットをトレーへ戻し、舌圧子を抜いた。  顎を元の位置へ下ろすと、歯に残った一本が唇を引き、そのまま口内へ沈んだ。  ずらしていた白布が、鼻と口を覆う。  器具の触れ合う音の向こうで、田中が時刻を書き入れた。  カーテンの隙間から滲んだ光が、先ほどより長く床へとほどけていた。 「最後に本人見たの、何時?」 「昨夜の二十二時過ぎです。隣人とすれ違ってます」 「普通に?」 「挨拶もしています。変わった様子はなかったそうです」  紫谷は白布の掛かった顔から、腹部へ目を落とした。 「縛ったのは」 「まだ出てません」 「土もか」 「該当場所はありませんね」  紫谷は返事をせず、立ち上がった。  床の札を避け、壁際まで歩く。  紫谷は金網へ触れない距離でケージ前に腰を落とした。 「この家、神棚ないよね?」 「ありません。仏壇もです」 「境界院は」 「照会中です」  器の内側には、薄い染みが残っていた。  紫谷の指が、その手前で止まる。 「あー……ペット用じゃ、ないかも」 「何に使うものですか」 「まだ分かんない」  紫谷は立ち上がらない。  猫屋敷がケージの横へ回り、金網越しに一枚撮った。  続けて位置を変えたところで、レンズの先が止まる。 「縄、下まで続いてます」  葉の陰から伸びた縄の先が、その上で小さな輪を作っていた。 「採ります?」 「触んな」  声が飛んだ。  猫屋敷の手が止まる。  紫谷は金網の前から動かなかった。  伸ばしかけていた指を握り込み、手袋の表面を爪で押している。 「紫谷さん?」 「ごめ、待って。触んないで、」 「この置き方、知ってるんですか」 「知らない」  被せるような返事だった。  田中が記録から目を上げる。 「現場写真だけ先に送りますか」 「やめて」  紫谷が振り返った。  目が合ったのは一瞬だった。  視線はすぐ、田中の手元へ落ちた。 「まだ送らないで」 「照合だけでも」 「しなくていいから」  紫谷は立ち上がろうとして、片手を床へ伸ばしかけた。  途中で止め、膝へ戻す。  息がマスクを浅く動かしていた。 「紫谷さん」 「違う」  柏城の次の言葉は、まだ喉の手前にあった。 「これじゃない」  紫谷はケージを見たまま繰り返した。  息を吸うと、マスクの奥へ古い脂が戻った。  柏城は遺体へ目を戻す。  暗い帯の残る手の先で、土の詰まった爪が半ば曲がっている。  白布で隠れても、歯の奥へ沈んだ黒い束が目に残っていた。 「聞かないで」  呼んだだけで、何も聞いてはいなかった。 「聞くなって、」  紫谷が口元を押さえた。  喉がひくりと持ち上がり、飲み下すたび、顎の下の筋が硬く浮く。 「確認させないで」  田中が記録を閉じる。 「何を止めます?」  紫谷は答えなかった。 「紫谷さん」 「やだ」  紫谷は手袋の縁へ指を掛けた。  うまく掴めず、一度滑る。 「香月さん呼んで」 「分かりました」  もう一度引くと、青いゴムが途中まで裏返った。  反対の手で外し、廃棄袋へ落とす。  新しい手袋には触れなかった。 「俺が見たことにしないで」  田中の手が止まる。 「それはできません」 「じゃあ、今すぐ外して」 「緋毬さん」  猫屋敷がカメラを下ろす。 「……無理」  紫谷は通行帯に沿って玄関へ向かった。  最初の一歩で、靴底が短く擦れた。

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