志乃創 / 第12話

第12話  恩返しのフィナンシェ 前編

 昼休み明けの警察署は朝に比べて気が抜けていた。  煙草休憩に向かう人。  急ぎの書類を抱えて小走りに通り過ぎる人。  廊下の端まで、誰かの笑い声と電話の呼び出し音が混ざって届く。  相変わらず賑やかだった。  自販機の前には、空になった缶コーヒーが一本置き忘れられている。  柏城はコンビニ袋を片手に、署の端へ向かう。  袋の中で、昼食用に買ったおにぎりとペットボトルが小さく揺れた。  十二時半。  今日の柏城は研修扱いだった。  早番が一人。  遅番は紫谷を含めて二人。  香月課長は当直で、十八時からの出勤予定。  勤務表だけ見れば分かりやすい。  だが、自分がそこにどう混ざればいいのかは、まだ分からない。  特殊事象対策係第九十九課。  そう書かれた札の前で、柏城は一度足を止める。  扉の向こうから、誰かの声がした。  緊張感はない。  仕事の話でもなさそうだった。  柏城は短く息を吐いて、扉を開ける。  その一番奥。  窓際の隅の席に、柏城の机はあった。  数日前に用意された事務机。  天板には細かな傷があり、引き出しは固い。  上にはまだ何も置かれていない。  陽にあてられて、わずかに温かい。  顔を上げれば課内がよく見えた。  紫谷の席。  香月課長の机。  書類の積まれた机。  携帯ゲーム機を持った男がだらしなく座っている机。  それから、今は使われていない机が一つ。  全部が視界に入る。  輪の中心ではない。  だが、外でもない。  九十九課という場所を眺めるには、ちょうどいい席だった。  紫谷がこちらに気付いたのか、にこっと笑った。 「お、柏城だ」  缶コーヒーを片手に、紫谷がひらひらと手を振っている。  相変わらず気の抜けた顔だった。  美術館で肉切り包丁を振っていた人間と同一人物には見えない。 「こんにちは。お疲れ様です」 「元気?」 「普通です」 「つまんない返事。もっと仲良くしてよ~」  初対面ではない。  それでも距離感はおかしかった。  出会った最初から思っていたがやはり近い。  だが、ここで唯一知っている人間でもある。  知らない場所で知っている声がする。  それだけで、少し肩の力が抜けた。 「あ、お疲れ様です!」  別の机から声が飛んだ。  白いシャツに、濃い色のネクタイ。  きちんとしているが堅苦しくはない。  肩が広い。  首も太い。  書類をまとめる手も大きい。  紫谷が薄く小さかっただけに、余計に警察官らしく見えた。  黒い髪の下。  眼鏡の奥で、片方の目元だけ影が濃い。  落ち窪んでいるようにも見える。  だが、本人の笑顔が明るすぎるせいで、そこだけがかえって妙に目立っていた。 「柏城さんですよね」 「はい」 「田中|猛虎《たけとら》です。これからよろしくね」  声が明るい。  真っ直ぐだった。  香月課長のように、笑っているのに内側が読めない感じではない。  田中の笑顔は、部屋の照明を一つ増やすような笑顔だった。  その片目の影さえ、本人の明るさに押し切られている。  とてもまともそうだった。  良かった、と素直に思う。 「よろしくお願いします」 「助かるよ~ほんと!」  田中が言う。 「何がですか」 「人手が増えたから。すっごい真面目そうだし」  田中が紫谷を見る。  紫谷も田中を見た。 「……失礼じゃね?」 「何も言ってないじゃないですか、やだなあ」  言ってるのと変わらないけどな。  そうは思ったが、口には出さなかった。 「田中ー」  今度は部屋の隅から低い声がした。  携帯ゲーム機を持った男がいる。  鈍い紺色に染めた髪。  目元へ落ちる前髪。  こげ茶色の革手袋。  机に片肘をつき、画面へ視線を落としたまま動かない。  座っていても分かるほどに背が高い。  姿勢は悪い。  お手本のような猫背だった。 「ん? どしたの|猫屋敷《ねこやしき》」 「コーヒーくれ」 「自分で入れてよ」 「え、冷た……」 「いや、自分が飲むんでしょ」 「田中が入れた方がおいしいかも」 「同じだろって」  田中は笑いながら断った。  男はしばらく黙っていた。  カチカチとゲーム機のボタンを押す音だけがする。  それから、非常に面倒そうに立ち上がった。 「香月さんに怒られるからちゃんと洗えよー」  紫谷が言う。 「怒られるんじゃなくて正論で詰められるんですよ」  男は嫌そうな顔で、角に置かれたコーヒーマシンへ向かう。  その途中で、ようやく柏城を見た。 「あ」  目が合う。  数秒の沈黙。 「えと、新しく来た人?」 「柏城です」 「ども」  男はそのままコーヒーを入れ始めた。  柏城は瞬きをする。  終わりらしい。 「猫屋敷ハルくん」  紫谷が補足した。 「なんか変な子だけど、仲良くしてあげてね。友達募集中だよ」 「紫谷さんに言われたくないです」  猫屋敷は振り返りもせずに返した。 「あと、勝手に募集しないでください」  第一印象は、感じの悪い人だった。  数日前に初めて紫谷と会った時のことと、少しだけ重なる。  距離感の種類は違う。  だが、どちらも初手からよく分からない。  失礼な態度だけは同じだった。 「柏城、お昼買ってきたの?」  紫谷がコンビニ袋を見る。 「はい」 「えらい。ちゃんと食べる人だ」 「普通です」 「普通ってすごいんだよ」  紫谷は妙にしみじみと言った。  田中が笑う。 「紫谷さんは、まず朝食べてください」 「朝は眠いしめんどくさいよお」 「理由になってないですね」 「昼食べれば実質朝昼兼用じゃん?」 「夜も忘れる人が言うことじゃないですよ」 「言うねぇ」  紫谷は笑っている。  反省しているようには見えない。  柏城はコンビニ袋を自分の机に置いた。  何も置かれていなかった机に、おにぎりとペットボトルが入った袋だけが乗る。  少しは、机らしくなった気がする。 「田中さ」  猫屋敷がコーヒーマシンを弄りながら言う。 「うん?」 「七郎くん、試験どうだったの」  その瞬間だった。  田中の顔が変わった。  ぱっと明るくなる。  本当に、音がしそうなくらいだった。 「それはもう満点で合格」  満面の笑みだった。  片目の影まで、笑顔に巻き込まれて明るく見える。 「頑張ってたからね。お祝いにご飯だけじゃ足りないと思うんだけど」 「うわ、出た」  紫谷が呟く。 「昔から真面目で」 「あ~~~、そこまでは聞いてないんだけど」  猫屋敷も呟く。  二人とも慣れていた。 「もー素直で健気で努力家で、料理も上手くて」 「……あの」  柏城は思わず口を挟んだ。 「二人とも聞いてないみたいですけど、いいんですか?」  田中が勢いよくこちらを見る。 「柏城さんは聞いてくれるんですか!?」  食いつきが凄かった。  しまった。  これはそういうやつだ。 「いや、あの」 「七郎っていうんですけど、僕の自慢の弟です」 「もう始まってるじゃん」  紫谷が笑う。 「資格試験も本当に頑張ってて、昔から努力家なんですけど、でもそれをひけらかすタイプじゃないんですよ。そこがまた偉くて」 「あー……柏城さん? で合ってますよね、名前」  猫屋敷がいつの間にか隣まで来ていた。  顔を見ようとすれば、随分上を見る形になる。  でかい。  細身だからか。  座っている時の印象より、随分背が高かった。 「あの、田中の話はあんま、真面目に聞かなくて大丈夫ですよ」 「ええと」  返答に困る。  配属されて数日の新人が、じゃあ無視しますとは言えない。  BGMのように田中の話し声が流れていく。 「あと、コーヒー飲めます?良かったら、ですけど」  猫屋敷はそう言って、棚から空のマグカップを一つ取った。  柏城の反応が遅れた。  感じが悪い。  そう思ったばかりの相手から、ごく普通に気を遣われた。 「……飲めます」 「ならどうぞ」 「あ、すみません」 「いえ、自分のついでなので」  猫屋敷はそう言って、柏城の返事を待たずにコーヒーマシンへ戻った。  よく分からない。  感じは悪い。  だが、悪意があるわけでもないらしい。 「田中」  猫屋敷がコーヒーを二つ持って戻りながら言う。 「昼のうちに終わる? それ」 「終わるわけないでしょ」 「じゃあ始めないで」 「えー、聞いてよ」 「昨日も聞いた」 「昨日とは違う話!」 「同じ人間の話だろ」 「しーくんは毎日違うんだよ」  理屈として正しいのかどうか分からない。  柏城は判断を諦めた。  九十九課は、思っていたより緩い。  緩いというより、雑だった。  それぞれが好きな方を向いている。  それでも会話は途切れない。  不思議と空気は悪くない。  柏城は自分の席の前に立ったまま、猫屋敷が置いたマグカップを見た。  湯気が細く上がる。  何もなかった机に、コンビニ袋とコーヒーが乗った。  自分の場所のはずなのに、落ち着かない。  その時、扉が軽く叩かれた。 「九十九課さん、荷物です」

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