志乃創 / 第11話

第11話 久留須美術館失踪事件 終

 壁も床も天井も。  果ての見えない回廊の全てが鏡で出来ていた。  少し視線を落とせば、伏せた睫毛の影まで同じ形で映っている。  見慣れた景色だった。  驚きはしない。  ただ、嫌だった。  呼吸をする度に、吐いた息がどこにも逃げず、薄く湿って肌へ戻る。  鏡は冷たいはずなのに、空気だけが妙に生ぬるい。  誰かの口から吐き出されたものを、そのまま吸わされているようだった。  生温い唾液を口移しにされるような湿気が、舌の奥へ絡みつき、飲み込む度に喉から胸までをぬるく濡らした。  鏡の奥で誰かが笑う。  紫谷は振り返らない。  どうせ居る。  居なかったことなんてないし。  隣を歩く気配。  肩が触れそうなほど近いのに、触れはしない。  皮膚のすぐ外側を、冷たい輪郭だけがゆっくり撫でていく。  その距離が、一番、気持ち悪かった。 『つまらんなあ』  声がした。  耳元ではない。  その更に奥。  鼓膜の裏側へ冷えた指を差し入れられ、柔らかいところだけを撫でられているようだった。  紫谷は舌打ちをする。 「邪魔」 『それしか言えんのか』  同じ顔。  同じ声。  同じ目。  唇の薄さも。  笑う時に僅かに上がる片側の口角も。  喉が動く癖まで同じだった。  違うのは、黒い髪色だけ。  高校を卒業してから、ずっと染め続けている色。  それだけが鏡の中の自分と違っている。 『昔はもう少し面白かったんじゃないか?』 「覚えてない」 『そうか』  雲外鏡は笑った。  自分と同じ唇が開く。  鏡の奥に並ぶ無数の口も、濡れた花弁のように遅れて開いた。 『私は、憶えているよ』  その一言で、鏡が揺れる。  水面へ墨を落としたように、無数の自分が歪んで、滲んだ。  輪郭が溶ける。  笑った口元だけが、濡れたまま残った。  紫谷は頬の裏側を噛む。  薄く血の味がした。  それすら、誰かの舌から移されたもののようで気持ちが悪い。  ここへ来る度に吐き気がする。  胃の奥から込み上げるというより、喉の内側を直接弄られるような吐き気だった。  何度見ても慣れない。  慣れてたまるかとも思う。  胸糞悪い。 「……そういえば」  紫谷は歩き続けながら口を開く。  靴音が幾重にも重なる。  一歩。  もう一歩。  自分の足音へ、隣を歩く気配の音がぴたりと重なり、どこまでも続く鏡の奥へ沈んでいく。 「余計な事してくれたな」 『余計?はて、なんのことか』 「腐ってる」  吐き捨てる。  唇の端へ残った言葉を、鏡の向こうから舐め取られたような気がした。 「分かってやった癖に」 『思い出しかけていたじゃないか』  紫谷は答えない。  答えたところで、喜ばせるだけだ。  舌の裏に残った血を飲み込む。  喉を通る感触が、他人のものを無理に嚥下しているようで、また吐き気が込み上げた。 『あと少しだったのに』  雲外鏡の声が、甘く沈む。  労わるようで。  慰めるようで。  その実、塞がりかけた傷口へ爪を差し込み、薄皮だけをゆっくり剥がしている声だった。 『忘れるというのは残酷な事だ』  鏡の奥で、紫谷と同じ顔が目を細める。  視線が頬を撫でる。  唇へ落ちる。  喉元をなぞる。  触れてもいないのに、そこだけ皮膚が汗で湿った。 『あれにも大事な人は居ただろうに、なあ』 「……」 『思い出すだろう?』 「口を閉じろって」 『お前が迎えに行った時』  足が止まった。  音も止まる。  さっきまで煩いほど響いていた靴音が、濡れた手のひらで耳を塞がれたように、どこかへ消えた。  代わりに、自分の息だけが聞こえる。  吸う度に、喉の奥で小さく音が鳴る。  誰かに口を塞がれ、その隙間から必死に空気を啜っているようだった。  浅くて。  震えていて。  情けなくて。  嫌になるほど、生きている音だった。 『結局、一人しか残っていなかった』  指先が冷える。  皮膚の下から、ゆっくり温度が抜けていく。  その代わりに、生ぬるい何かが胸の奥へ入り込んでくる。  鏡の中の無数の自分がこちらを見ていた。  責めるでもなく。  笑うでもなく。  ただ、知っている顔で。  忘れたふりをしていることも。  思い出せないことに安堵していることも。  その安堵を、誰にも知られたくないことも。  全部、知っている顔で。  紫谷はゆっくりと息を吐いた。  吐いた息は白くもならない。  透明なまま鏡へ触れ、薄く曇る。  その曇りの向こうで、自分と同じ唇が笑った。  触れれば、きっと湿っている。  そんな錯覚だけが、いつまでも残った。  もう二度と、あんな現場になど行きたくなかった。

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