志乃創 / 第13話

第13話 恩返しのフィナンシェ 後編

 事務員が小さな箱を抱えて入ってくる。  皆反応が早い。  特に、猫屋敷が早かった。  机の上に置かれた箱は、上品な包装紙に包まれていた。  開ければ高級そうな焼き菓子の詰め合わせ。  箱の角も綺麗で、雑に扱われた様子はない。  ただ。  送り状に差出人の名前がなかった。 「いただきます」  猫屋敷が自然に手を伸ばした。  迷いがない。 「待ってください」  柏城は反射的に止めた。  猫屋敷が顔を上げる。  本気で不思議そうだった。 「何ですか」 「色々、確認しないんですか」 「食べながら考えましょう」 「逆です」 「逆だね」  田中もうなずいた。  紫谷は箱を眺めながら笑う。 「お菓子の怪異とかいるのかな」 「また急に変なこと言い出して……」  柏城が呟く。  田中は素直に箱を見た。 「これがお菓子のフリしたお化けってことですか!?」 「いるかもしれない」 「え、やだ!怖い!」  猫屋敷は紫谷を見た。  それから、自分の頭の横で人差し指をくるくる回し、ぱっと開く。  くるくる、ぱー。  意味は分かりやすかった。 「正気ですか?」  さりげなく同意する。それから箱を見下ろした。 「開けた瞬間爆発とかだったらどうしよう」 「焼き菓子なんですよね?」 「うーん。よく考えなくてもいるわけないかもね」  紫谷が自分で言って自分で納得し始める。  何だったのだろう。  紫谷が包装を解き、蓋を開ける。  箱の中にはフィナンシェやマドレーヌ、クッキーが整然と詰められていた。  バターと蜂蜜。  焦げた砂糖の匂いが、ふわりと広がった。  九十九課の机に置くには場違いなほど上等な匂いだな、なんて。  考えていれば勢いよく田中が立ち上がった。 「今日しーくんとご飯だった!」  紫谷と猫屋敷が同時に顔を上げる。 「「あー」」 「しーくん?」 「田中君の弟」  紫谷が答える。 「あ、溺愛の弟くんね」 「溺愛……」  柏城は田中を見る。  田中は真面目な顔だった。 「いい子なんですよ」 「はい」 「仕事の邪魔しないよう連絡もせず待っててくれてるはずなんです」 「そうなんですね」 「昔から気遣いのできる子で」 「始まった」  猫屋敷が呟く。 「聞いてくださいよ」 「さっきから聞いてますよその話」 「料理もできますし」 「止まんないなぁ」  紫谷が笑う。 「成績も優秀で」 「田中。時間いいの」  猫屋敷が言った。  田中は時計を見ると顔色を変える。 「まずい。待たせてる!」 「今気づいたの?」 「仕事は片付いてるので引継ぎありません。」 「はーいお疲れー」 「あ、お疲れ様です」 「ん、おつ」 「それじゃ、交代時間も来てますのでお先に失礼します!」  田中は風のように去っていった。  扉が閉まる。  残ったのは紫谷、猫屋敷、柏城の三人だけだった。  机の上には置かれたままの焼き菓子の箱。  静けさを待っていたかのように、猫屋敷がもう一度手を伸ばす。 「いただきます」 「だから待ってくださいって」  柏城が止める。 「何ですか」 「何ですかじゃないです」 「お菓子ですよ」 「知ってます」 「食べましょう」 「差出人不明ですよね?」  猫屋敷が箱を見る。  柏城を見る。  もう一度、箱を見る。 「香月さん宛とかだと困るんで、早く食べといた方がいいですよ」 「逆なんですよ、さっきから」  紫谷が吹き出す。 「柏城って、真面目だねぇ」 「こんなの真面目以前の問題ですけどね?」 「いやでも、傷むかもしれませんし」 「焼き菓子ですよ」 「万が一があるかも」 「万が一より先に差出人の確認をしてください」  猫屋敷は不満そうだった。  紫谷が箱を取り上げる。 「怪しいのは変わんないし、とりあえず冷蔵庫入れとく?」 「え」  猫屋敷が固まった。  柏城は思わず二度見する。  冷蔵庫へお菓子を入れる。  たったそれだけの事で、こんな露骨に落ち込む人間を初めて見た。 「そんな顔します?」 「食べたかったので」 「甘いものお好きなんですか」 「食べ物なら何でも好きです」  間髪入れず返ってくる。 「……食いしん坊さんめ」  紫谷がぽつりと呟いた。  猫屋敷が眉をひそめる。 「子供扱いしないでください」 「してないよー」 「しました。別に、食べたかっただけです」 「それを食いしん坊って言うんじゃ……」  思わず口をはさむ。 「違います」 「違うんですか」 「食いしん坊はもっと計画性がありません」 「変なこと言ってら」  紫谷が笑う。  柏城は紫谷を見た。 「先輩がそれ言うんですか」  紫谷は何も言わなかった。  ただ笑っていた。  その笑顔で何となく誤魔化せると思っているらしい。  呆れるほど、いつも通りの顔だった。  紫谷が箱へ視線を戻す。  上等な焼き菓子の甘い匂いが、まだ机の上に散らかっている。 「ま、とりあえず冷蔵庫ね」  そう言って蓋を閉めようとした時だった。  かさり。  箱の底で、紙の擦れる音がした。  紫谷の手が止まる。柏城も、猫屋敷も。  同じように箱を見る。  もう一度、かさりと音がした。  底の仕切りの隙間から、白い封筒が滑り落ちる。  全員が動きを止めた。 「ん?」  紫谷が拾い上げる。  封筒の表紙に、猫屋敷が首を傾げた。 『猫屋敷さんへ』 「……誰ですか?」  猫屋敷は柏城を見た。 「俺が知る訳ないです。配属四日目ですよ」 「は、やっぱりなんかありそう。ハルくん悪いことでもした?」 「……心当たりがありすぎますね」 「警察官が何言ってるんですか」  柏城は思わず呆れた。  猫屋敷は封筒ではなく焼き菓子を見ている。 「そういう事なんで柏城さん、最初の一口どうぞ」 「さらっと毒見させようとしないでください」 「じゃあ緋毬《ひまり》さんどうぞ」 「嫌だよ。てかこういうの若手がするもんじゃん?ハルくんが食べていいよ」 「俺が若手と決まったわけじゃないでしょう」  猫屋敷が柏城を見る。 「おいくつですか」 「えー……この流れで言うの嫌です。二十七ですけど」  紫谷と猫屋敷が顔を見合わせた。 「この中で最年長じゃん」 「え?」 「俺二十六。柏城の一個下だよ。なんか先輩って言われるの変な感じぃ」 「俺は二十四です」 「へえ……」  意外だった。  紫谷は年上だと思っていた。  猫屋敷も、態度が大きいから年齢もそれなりなのかと思っていた。  年齢と態度は比例しない。  当たり前のことを、ここに来てから何度も思い知らされる。 「というか、一つ思ってたこと言っていいですか」 「はい」  柏城は封筒を指差した。 「危ないものかどうか、手紙を確認したらいいんじゃないですか?」  時計の針の音が聞こえた。  紫谷が封筒を見る。  猫屋敷も封筒を見る。  それから、二人して頷いた。 「確かに」 「確かにじゃないですよ」  柏城は頭を抱えた。 「最初にやることですよね」 「そうかぁ」 「そうですね」 「何で今気付いたみたいな顔してるんですか」  柏城はもう諦め始めていた。  中から出てきたのは、綺麗な折り目の便箋だった。  丁寧な文字。差出人は女性。  二年前。  ストーカー被害に遭っていたこと。  眠れなくなったこと。食べられなくなったこと。  警察に相談したこと。  その時、猫屋敷が対応したこと。  文面は静かに続いた。 『私はあの日、死ぬつもりでした』  ことん、と紫谷が缶コーヒーを置いた。  軽い音がやけに響いた。  さっきまでの昼休みの緩さが、少しだけ遠のく。  電話の音。  廊下を歩く靴音。  コピー機の唸る音。  どれも変わらないのに、便箋の上がどこか重たく感じる。  柏城は続きを読み上げた。 『猫屋敷さんに言われた言葉を今でも覚えています』  顔を上げる。  猫屋敷は真剣だった。  手紙ではなく、焼き菓子に。  どれが一番高くて美味しいか。  多分、そういう顔をしている。  柏城は嫌な予感がした。 『生きていてもいいんじゃないですか』  その言葉に救われた。  今も忘れていない。  そう書かれていた。  柏城は、もう一度猫屋敷を見る。 「覚えてますか。この方」  猫屋敷は顔を上げた。  ほんの少し考える。  目線が右に流れて、戻る。 「いや」  短かった。 「身に覚えは、ちょっと」  紫谷が吹き出した。 「やっぱ覚えてないんだ」 「年間何件対応してると思ってんすか」  猫屋敷は悪びれずに言った。  視線はまだ箱の中にある。 「自殺しようとしてた人ですよね?」 「そうですね」 「その人に、こう言ったんですよね」 「手紙に書いてあるなら言ったんだと思います」 「覚えてないんですか」 「覚えてませんね」  あまりにも平らだった。  嘘ではない。  照れ隠しでもない。  本当に、ない。  柏城の喉の奥が詰まる。  目の前にいる男が酷く薄情に見えた。  けれど薄情と決めつけるには、顔があまりに普通だった。 「助けた相手なんですよね?」 「助けたって言葉は嫌いです」  そこで初めて、猫屋敷が柏城を見た。  怒ってはいない。責めてもいない。  その言葉を自分に向けられたことに納得いかない顔だった。 「勝手に生きる方を選んだのは向こうでしょう」  声が詰まる。勝手に、なんて。 「……言い方、ひどくないですか」  署の駐車場を車が通る。  白い光が机の端を滑った。 「そうですか?事実でしょう」  便箋の紙が、指の腹に乾いて触れる。 『私は忘れません』  その一文が、目に映っていた。  忘れない側の重さを柏城は知っている。  忘れられない声も、顔も。  自分だけが覚えている日の匂い。  それを。  猫屋敷は、知らない顔で焼き菓子を見ている。 「でも」  柏城は言った。  自分でも声が硬いと思った。 「この人は、あなたに感謝しています」 「それは良かったですね」  猫屋敷はすぐに答えた。  軽くはなかった。投げやりでもなかった。  だが、そこで終わっていた。  感謝を受け取って、胸にしまうでもなく。  誇るでも扱いに困るでもなく。  机の上に置いておくみたいに、そこに置いただけ。 「……本当に、それだけですか」 「それ以外に何かあります?」 「普通は、もう少し」 「普通?」  猫屋敷が首を傾げる。柏城は言葉に詰まった。  普通は覚えている。  普通は喜ぶか、照れるか、困るか。  自分が誰かを助けたなら。  誰かの人生に残ったなら。  少しくらい、何かが動くものではないのか。 「仕事でしょう」  猫屋敷が言った。  声は低いが冷たくはない。 「相談を受けて、話を聞いて、必要なら繋ぐ。それだけです」 「それだけで、この人は生きたんですよ」 「だから良かったですねって言ってるじゃないですか」 「……そういう話じゃないです」 「そういう話ですよ」  猫屋敷は、初めて眉を寄せた。  線を引かれた気がした。 「人の生きるか死ぬかはこっちに関係のないことです」  柏城は息を止めた。  紫谷が缶コーヒーを飲み、目を細める。  猫屋敷は続けた。 「死なないことを選んだのはその人で、俺じゃない」  その声は相変わらず淡々としていた。 「次に死んだ人まで責任を負いたくありません。勘違いも甚だしいんじゃないですか」  昼の空気が沈んだ。  署内の音が、鼓膜の向こう側へ遠のいていく。  柏城は何も言えない。  死んだ人間の数を、何度も数えた。  自分だけが残った理由を、何度も探した。  選んだ者。  選べなかった者。  その境目に、立たされている気がした。 「ハルくんってさぁ」  紫谷が軽い声を出す。  軽いのに、割り込むタイミングだけは正確だった。 「説明下手だよね」 「説明する必要ありますか、これ」 「あるよぉ、柏城見てみ?すごい顔してるもん」 「相変わらず真面目な顔ですね」 「ふは、それはそう」  紫谷は目を細めたままだった。 「てか初対面の相手にその言い方するの、ほんと性格悪いからやめた方がいいよ」 「知ってます」 「開き直るなって」 「事実を言っただけです」 「その事実の投げ方が悪いの」  空気が戻る。  それでも、机の上の白い紙だけは軽くならなかった。  柏城は続きを読む。  結婚したこと。仕事を続けていること。  今は穏やかに暮らしていること。  焼き菓子はそのお礼だということ。  最後に、短い一文があった。 『あの時の事、本当に感謝しています。一生忘れません』  誰もすぐには喋らなかった。  窓際の机に、昼の光が落ちている。  包装紙の端が、薄く光っていた。  綺麗すぎる箱だった。  二年分の感謝を詰めて送るには小さすぎる。  忘れている男の机に置くには、丁寧すぎる。  柏城は猫屋敷を見た。 「本当に覚えてないんですね」 「覚えてません」  猫屋敷はフィナンシェをひとつ摘み包装を剥がす。 「でも」  そこで言葉が続いた。  手紙は結局一度も見なかった。 「元気なら、それで十分でしょう」  そう言って、口に入れた。  柏城は顔を上げる。  もぐ、と猫屋敷の頬が動く。 「……美味い」  珍しく紫谷が苦笑した。 「余韻とかないの」 「ありますよ。美味いです」 「そういう余韻じゃないんだよなぁ。そもそも、食べていいってなった?」 「手紙にお礼って書いてあるので」 「切り替え早」 「二年越しに届いたなら、なおさら早く食べた方がいいでしょう」 「何で?」 「向こうもそのつもりで送ってるはずなので」  柏城は黙った。  分かりにくい。  非常に分かりにくい。  けれど、さっきより少しだけ分かった気がする。  彼は思い出すつもりがない。  でも、相手が今も生きていることは受け取った。  それで十分だと思っている。  優しいとは違う。  善人と言うにも違う。  多分。  猫屋敷の中では仕事も記憶も感謝も、別々の箱に入っているらしい。  柏城には、まだその箱の分け方が分からなかった。  便箋をそっと畳む。  折り目が指の腹に乾いて触れた。  丁寧な文字が、白い紙の内側へ隠れていく。  ぬるい空気が沈んでいる。昼ももう終わる。  窓の外で、カラスが鳴く。  香月課長が交代に来るには、まだ早い時間だった。  蛍光灯の白さだけが先に浮いて、部屋の隅には夕方の赤が薄く溜まる。  書類を書きながら、柏城は視界の端へ意識を向けた。  窓際に猫屋敷が立っている。  背が高いせいで、夕焼けの赤がそこで欠けていた。  紫谷がふらりと横へ行き、マグカップを置いた。  ことん、と小さな音がする。  猫屋敷は礼を言わない。  代わりに、軽く頭を下げる。 「昼間の。柏城困ってたねえ」  紫谷が、しし、と息をこぼすように笑う。  しばらく静かだった。  カップの中のコーヒーが細く湯気を立てている。 「いいこと言ったんでしょ?」 「まぁ、おそらくは」  猫屋敷は窓の外を見たままだった。  夕焼けが硝子に薄く反射している。  外の景色と課内の景色が重なって、二人の表情が硝子の赤に紛れていた。 「別に、死ぬほど特別な言葉でもないです」 「うん」 「ただ、」  猫屋敷は少しだけ笑った。  笑った、ように見えた。 「言われないまま死ぬには惜しい言葉なだけで」  柏城は、便箋の丁寧な文字を思い出す。  死ぬつもりだった人間が、焼き菓子を送ってくるまでの時間。  その長さを、猫屋敷は恐らく数えていない。  けれど、零れ落ちる前の言葉は拾う。  そういう人なのだと思った。 「ハルくんてば可愛い~」  紫谷が言った。沈黙を指でつつくみたいな声だった。 「今更気づいたんですか、俺の可愛さに」  猫屋敷が目元を緩める。  二人は、それ以上深く話さない。  触れたところをすぐ茶化す。  でも、見ていないわけではない。  柏城は机から二人を眺めていた。  窓際の隅の席。  九十九課がよく見える場所。  中心ではない。でも外でもない。  今はその位置がありがたかった。 「あの」  柏城が声を掛ける。  二人が振り返る。 「それ、俺の分あります?」  猫屋敷が即答する。 「ありません」 「え、さいてー」  紫谷が笑う。 「もう全部食べたんですか?」 「とりあえず高そうなのだけ。でも全部俺のですからね」  猫屋敷は当たり前のように言った。 「柏城に食べて良いよって言っちゃったよ」 「あ、いえ。構わず」  やっぱり、よく分からない人だった。  第一印象も、たぶん間違っていない。  感じは悪い。  面倒くさいし変な人だ。  少なくとも、理解はできない。  たぶんこれからも、そう簡単には分からない。  それなのに。  信用はできそうだった。  それが一番、接し方に困る。  柏城はそう思いながら、大きく息を吐いた。  来た時には何も置かれていなかった机の上に、書きかけの研修資料がある。  端に寄せたボールペン。半分ほど減ったペットボトル。  猫屋敷が置いていった空のマグカップ。  数時間前にはただの空いた机だった。  今はなんとなく、自分の机に見える。  焼き菓子の甘い匂いは、まだ、薄く残っていた。

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