志乃創 / 第17話

第17話 還り道

 田中が警察手帳を出すと、店主はすぐに朝倉詩織の名前に反応した。 「よく来てたよ。絵の具を一本ずつ買ってな。高い色は諦めて、代わりになる色をずっと探してた」  奥から帳簿が出てくる。  そこには、詩織の名前が何度も残っていた。  絵の具。  木枠。  キャンバス。  ところが、ある日付から先は客名欄だけが白く抜けている。  商品名と金額だけが残る。  田中は空欄をしばらく見つめた。 「……ないですねえ」 「名前が、ですか」  柏城が尋ねる。 「名前というより、ここに来た痕です」  空欄には触れない。 「でも、全部じゃない」  引き取りに来なかった額がある。  そう言って店主は茶色い紙に包まれた額縁を持ってきた。 「誰のだったか思い出せなかったんだが……今、分かったよ」  包みの端に貼られたメモは白かった。  名前だけが抜けている。  それでも、額縁は確かに誰かのために作られていた。 「角を少し丸くしてくれって言われたよ。搬入の時に持つから、手を切らないようにって」  田中の表情が和らぐ。 「朝倉さんらしいですね」  柏城は額縁を見た。  店主は、包みの端に貼られたメモを裏返した。  表の氏名欄は白い。  裏には、受取予定日と短い伝言が残っていた。  次の展示でも使うので、丈夫に。 「そういや、そんなことも言ってたな」  店主は目を細める。 「今度はもう少し大きいのを描きたいって」  柏城は白い氏名欄と、その下の日付を見た。  持ち主の名前はない。  それでも、次の展示は来ることになっている。  誰かが手を切らないように。  次にも使えるように。  先のことを丁寧に考えていた人間が、確かにここにいた。 「その額、保管しておいてもらえますか」  田中が言った。 「朝倉さんが取りに来られるようになったら、渡してください」  店主は静かに頷いた。 「磨いておくよ」  硝子戸を開けると、商店街の音が一度に戻ってきた。  油の弾ける音に、八百屋の呼び声が重なる。  自転車が濡れたタイルの上を横切り、ベルの音を残していった。 「よかった」  田中は店を振り返らないまま言った。 「よかった、ですか」 「学校の外にも、朝倉さんを待ってるものがあったので」  田中の隣で、唐傘の傘先が軽く床を擦った。 「あの額、名前がなくても捨てられなかったでしょう」 「はい」 「そういうのが一つ残ってるだけで、帰ってきた時に少し違います」  田中は鞄の口を閉じた。 「何も残っていないことも、あるんですか」 「ありますよ」  返事は、あまりにも早かった。  柏城が横顔を見るより先に、田中は惣菜屋の前で足を止める。 「だから、ある時は喜んでおくんです」  揚げ物の匂いに顔を上げ、いつものように笑った。  硝子ケースの中では、揚げたてのコロッケから湯気が上がっている。 「……柏城さん、何か食べません?」 「今ですか」 「こういう話をすると、妙にお腹が減るんですよね」  田中は自分の腹を押さえ、少し困ったように笑った。 「たぶん、緊張が切れるからです」  商店街の屋根から、昨日の雨の名残が落ちる。  ぽた、ぱた。  音につられて目を向けると、古い提灯の下に、小柄なものが座っていた。  膝の上には、番傘が抱えられている。  老人に見えたが、人間ではない。  柏城にも、その程度は分かった。  道を行く人々は足を止めない。  向こうが先に顔を上げた。 『タケちゃんじゃないか』  田中はコロッケのケースから顔を上げ、片手を振った。 「あ、お久しぶりです!」 『大きくなったねえ』 「やだなあ。もう大人ですよ」 『あたしらから見れば、まだまだ子どもさ』  老婆はけらけらと笑った。  そのたび、膝に抱えた番傘の骨が細く軋む。  古い提灯の紅に、番傘の深緑。  煤けた着物まで、陽の差す商店街では色濃く浮かんでいた。  手を伸ばせば届く距離にいる。  なのに、薄い硝子を隔てて眺めているようでもある。 『若は元気かい』 「七郎ですか。元気ですよ」 『大旦那様と大奥様は』 「変わらずです。祖父も祖母も元気にしてます」  氏名でなく、呼び名だけで話が通じていく。  田中の家を知り、そこに暮らす人間を知っている。  おそらく、柏城が生まれるよりずっと前から。  田中も近所の老人へ答えるのと変わらない調子で頷いていた。  柏城は口を挟まず、その横顔を見る。  明るい声。  唐傘を抱えた腕。  相手が人間でなくても変わらない笑い方。  ふと視線をずらすと、すぐ隣に細い路地が口を開けていた。  店と店の間。軒下から奥へ伸びている。  どこにでもありそうな、隙間だった。  真昼の光は入口まで届いている。  そこから先へは、入っていかない。  暗いというより、光の方がその場所だけを避けているようにさえ見えた。  商店街に雨は降っていない。  濡れた屋根から時折雫が落ちるだけで、通りにはまだ白い日差しが残っている。  それなのに。  路地の奥からは雨音がした。  しと、しと、と。  音を聞く程、冷たさが皮膚の裏側へ、一滴ずつ、落ちてくる。  暗がりの奥で。橙色の灯りがひとつ、吊られていた。  雨に濡れ、輪郭をぼかしながら、ゆっくりと揺れている。  ゆっくり、   ゆら。 ゆら。  遠いはずだった。  目を凝らす。  近くで。もっと、形を。知りたい。  焦点を合わせようとすると、周囲の方が歪んでいった。  田中の肩が遠ざかる。  老婆の顔が小さくなる。  頭上のアーケードが、魚の腹のように丸く、まあるく、ふくれていく。  残ったのは。  橙色だけだった。 『まだしばらく、その子と一緒かい』  老婆の視線が唐傘へ移る。  唐傘の揺れが止まった。 「はい。案外、気が合っちゃって」 『そうかい』  田中は笑っている。  老婆はそれ以上聞かず、唐傘も何も言わなかった。  短い沈黙だった。  その間にも、路地の奥からは湿った空気が流れてくる。  雨上がりの庭土と、長く閉め切った古い家の柱の匂い。  その底に、炊き上がった飯の湯気があった。  知らない家だった。  帰ったことはない。  待たれた覚えもない。  それなのに、戸を開ければ誰かがこちらを振り向くような気がした。  柏城の身体が、僅かに前へ傾く。 「うわ、なにあれ!?」  背後で田中の声が跳ねた。  ついさっきまでと変わらない、明るい声だった。  柏城は振り向かなかった。 『古い雨樋の影だ。まだ形にもなってないぞ』 「え、あ。なあんだ」 『お前は本当に気が小さいな』 「急に動いたら、誰だってびっくりするって」  田中が咳払いをする気配がした。 「どうも、猛虎です。害がないなら、お友達になりましょう」  老婆がまた笑う。 『タケちゃんは昔からそうだねえ。怖がりのくせに、すぐ挨拶する』 「知らない相手と橋の上で会う方が怖いですから」  その会話を、柏城は聞いていた。  少なくとも、最初は。  田中の声が少し遠くなる。  唐傘の声も。  老婆の笑い声も。  惣菜屋の呼び込みも。  すべてが一度に消えるのではなく、雨の膜を一枚ずつ被せられていくように輪郭を失っていった。  代わりに、雨音がすぐそばで満ちた。  しと。  しと。  灯りが揺れた。  その向こうに、白い障子が、ある。  紙の裏を人影が横切り、誰かが台所へ立つ。  鍋の蓋が小さく鳴り、湯気の中へ濡れた袖が消えていった。  畳は湿っている。  木造の家の匂い。  煮物の甘い湯気。  その奥に、雨に濡れた獣の毛のような生臭さが潜んでいた。  あるはずがない。  分かっている。  柏城は息を吸った。  喉の奥がひくりと狭くなる。  嫌な匂いだった。  もっと近くで、この匂いを確かめたいと。  そう、身体のどこかが答えた。  何の匂いなのか。  どこから流れてくるのか。  障子の向こうにいるものは、こちらを見ているのか。  口の中は乾いていた。  舌の裏には、ぬるい唾液が溜まっているのに。  気持ちが悪い。  その不快ささえ、奥へ進むための理由に変わっていった。  普段は足元で丸くなっているだけの猫が、夜の庭で知らない獣の顔をする。  同じ猫のはずだ。  こちらが、知らなかっただけで。  雨に濡れた毛並み。  皮膚の下に残る熱。  理屈を持たない呼吸。  触れてはいけないと思うほど、指を差し入れてみたくなる。  柏城の指先が、僅かに曲がった。  路地から流れてきた空気が、吐息のように頬を撫でる。  身体が先に反応した。  腹の底が重くなる。  そこから、腿の内側へ。熱が、下りていく。  恥でも、快でもない。  名前を持つ前の、生き物の反応だった。  自分の身体ではないようで。  それでも、この奥に結び付くものは知っている気がした。  もう一歩。  近づけば、分かる。  灯りの下へ立ち。  湿った畳へ膝をつき。  障子の向こうの息と同じ温度の空気を吸えば。  何かが繋がる。  何に、とは考えなかった。  考える前に、知りたいという欲だけが形を持った。  足が動く。  靴底の下で、商店街のタイルが遠ざかった。  次に踏んだのは、濡れた石だった。  路地はもう、店と店の隙間ではない。  石畳が奥へ伸び、両側には古い家が並んでいる。  軒から細い雨水が垂れ、橙色の灯りがいくつも揺れていた。  知らない町だった。  それなのに、曲がる場所を知っている。  この先に家がある。  誰かが、待っている。  戸を開ければ、帰ったのかと声をかけられる。  帰ったことなど、一度もないのに。  柏城は、もう一歩、進む。 「祖母に叩き込まれました」  田中の声が、雨の向こうから届く。 『知らんものを、知らんまま渡すな。橋守の作法だ』 「そういうことです。知り合いが多い方が、帰り道は安全なので」  その声だけが、一瞬鮮明になった。  けれど、すぐに雨音が重なる。  濡れていく。  ……しと。  ……しと。  灯りの下で、誰かがこちらを向いた。  顔は見えない。  それでも、待っていたのだと思った。  背後で田中の声が途切れたのを聞いた。 「……柏城さん?」  返事は出なかった。  田中が振り返る。  ついさっきまで隣にいたはずの柏城がいない。  いや。  いた。  軒下の奥。  商店街の白い明るさと、雨に濡れた暗がり。  その境目を、半分越えたところに立っている。  片足はまだ、こちら側。  もう片方は、光の届かない色の中へ入っていた。 「柏城さん!」  田中は駆け出した。  香月から聞いていた話が、頭をよぎる。  事件の唯一の生存者。  九十九課が着いた時には、怪異は死亡。  記憶は混濁、何が起きたのかは不明。  ただ、見えるものは少なく、警戒心も強い性格。  普通の人間側に近い。  そう、聞いていた。  だから、呼ばれても足を止めると思っていた。  せいぜい遠くから眺めるくらいだと。  そう思って、目を離した。  なのに柏城は、抗う様子もなく境目へ足を踏み入れている。 『猛虎』 「分かってる!」  境目へ踏み込んだ腕を掴む。  冷たい。  薄い霧のようなものが、柏城の周りだけにまとわりついていた。 「戻ってください」  柏城がゆっくり振り返る。  目は澄んでいた。  操られているようには見えない。 「奥に、灯りが」 「見なくていいです」 「でも」 「見なくていいので」  声が強くなる。  驚いた柏城の顔は、あまりにも普通だった。  眠っているわけでも、引きずられているわけでもない。  自分の意思で、奥へ行こうとしている。 「柏城さん、こっちです」  腕を引く。  足は動かない。  路地の奥で灯りが揺れた。  帰ろう。  もう暗いから。  柏城の喉が動く。 「聞こえます」 「聞かなくていいです」 「誰かが」 「誰でもいい」  田中は握る力を強めた。 「今は、こっちです」  靴底が石畳を滑る。  それをきっかけに、商店街が戻ってきた。  揚げ物の弾ける音。  店先の声。  自転車のベル。 「一歩だけ。ゆっくりで、いいですから」  もう一度引く。  濡れた石から、商店街のタイルへ。  雨の匂いが薄れた。  古い家も、橙色の灯りも消える。  残ったのは、雨樋と室外機と濡れた壁だけだった。 「……俺」 「大丈夫ですか」  田中の声には、まだ焦りが残っている。 「あれは駄目です。迷ったら、出てこられない」  柏城は足元を見た。  怖い、と思った。  けれど、怖くなったのは引き戻されたあとだ。  足を出した。  息を吸った。  知りたいと思った。  それだけだった。 「……境目に、当てられたんですかね」  口にした言葉は、胸の内への収まりがよかった。  自分から覗こうとしたのではない。  向こうが呼んだのだと。  田中はすぐに答えなかった。  柏城の目から喉元へ、視線がゆっくり下りる。  何かを確かめ、また顔へ戻った。 「……そうかも、しれませんね」  わずかな迷いがあった。  柏城は気づかないふりをする。 「すみません」 「俺が目を離したからです」 「田中さんのせいじゃ」 「俺のせいです」  珍しく言い切ったあと、田中は握っていた手を緩めた。 「怒ってるわけじゃないです。……びっくりして」  軒下の老婆が、二人を眺めている。 『タケちゃん』 「はい」 『その兄さん、気をつけておやり』  番傘を抱え直し、皺だらけの口元を緩めた。 「覚えておきます」  唐傘は黙っていた。  その沈黙だけが、柏城の肌に残る。 「また来ます」 『ああ。若にもよろしくね』  二人と一傘は、雨上がりの道を歩き出した。  しばらく、唐傘の鼻歌は聞こえなかった。  柏城は振り返らない。  濡れた石畳。  帰ろうと呼ぶ声。  あれは、境目が見せたもの。  自分は呼ばれてしまった。  そういうことにした。 「田中さんは、家を継がないんですか」 「え?…ああ、弟の方が向いてるんです。幽世にも、屋敷にも馴染むので」  田中は少し慌てて笑う。 「あ、俺も嫌いなわけじゃないですよ!」 そんなに慌てなくても、充分伝わっている。 「田中さんも、向いてそうですね」 「俺が?」 「怖がっても逃げない人だと思って」 「いや逃げますよ。普通に」 「でも、戻ってくる人ですよね」  田中の足が、僅かに緩んだ。 「さっきも、戻してくれました」 「あ、と、仕事なので」 「誰にでも出来ることじゃないです」  田中は困ったように眉を下げる。 「そういうの、慣れてないんですけど……」 「思ったからそう言っただけですよ」  田中は前を向いた。  アーケードを抜ける影が、その横顔を一瞬だけ暗くした。 「ええと……橋の上で転ぶ人も、いるでしょう」  少しだけ言葉を探す。 「俺は、そういう人を見ていたかったんです」  橋の上で転ぶ人。  朝倉の顔が浮かぶ。  数分前の、自分も。 「家で待つより、外で声をかける方が向いてるんですよ」 「それも、橋守じゃないですか」  田中は目を丸くし、照れたように笑った。 「祖母に聞かれたら怒られます」 「なんて言われるんですか」 「調子に乗るなって」 『実際、すぐ乗るからな』 「そこは黙っててくれても良くない?」  柏城はつられるように笑った。  胸の奥には、まだ路地の熱が残っている。  それでも今は、追いかけようとは思わなかった。  隣を歩く声が、こちら側にある。  足元はまだ、少し揺れている。  けれど田中の靴音は、迷わず前へ続いていた。

運営おすすめ

週間ランキング

全ランキング

反応スコアランキング

もっと見る

PV・ブックマークランキング

もっと見る

更新された連載作品

すべて見る
読み込み中…

新着短編

すべて見る
読み込み中…

作品一覧

読み込み中…

作品ダッシュボード

作品全体の公開状況と、読者からの反応をひと目で確認できます。

作品パフォーマンス

選択期間のPVが多い順

上位5作品
ライブラリ

作品の公開状況と構成

最近の更新

最後に編集した作品

要チェック

公開前に確認したい項目

プレビュー
読者に表示される見た目

表示設定

文字サイズ
100%
背景色
縦書き表示
リッチモード
目次
読み込み中…

キーワードを入力して作品を探しましょう

アクセス解析
アクセス解析データは 5分おき に自動更新されます
読み込み中…
ランクイン記録
通知
通知はありません
地形ブラシ
25
スタンプ
ツール
装飾
表示
100%

世界地図

100%

REACTION SCORE

反応スコアの内訳