志乃創 / 第16話

第16話 逢い間の商店街

 大学は、病院よりも明るかった。  正面玄関を抜けると、開け放たれた窓から学生たちの声が流れ込んでくる。  課題を読み上げる声。昼食へ誘う声。  提出期限を聞いて、廊下の端で誰かが悲鳴を上げた。  笑いが重なる。  乾ききらない絵の具の匂いが、その間を縫っていた。  窓際では、紙袋からフランスパンを覗かせた学生が友人と写真を見せ合っている。  鱗肌の学生が、筒状の作品ケースを抱えて階段を駆け上がっていった。  授業も、提出も、昼休みも。  ここでは当たり前が続いている。  来客窓口で用件を告げると、職員がすぐに立ち上がった。  先導する背中を追い、学生課の奥へ進む。  応接机には、事務用のペンが三本並んでいた。  窓際の観葉植物は、葉先だけが茶色く乾いている。  田中は唐傘を椅子の脇へ立てかける。  警察手帳を示し、鑑定書と照会票を机に置いた。 「記録固定と、展示名義の保護をお願いします」 「はい」  職員は書類を受け取った。  提出物管理表を上から辿っていた指が、一度通り過ぎる。  少し戻り、途中で止まった。 「……すみません。ここにあったとは、思うんですが」  名簿の中に、一行だけ空欄があった。  罫線は続いている。  前後には学籍番号と氏名が並び、そこだけがきれいに抜け落ちていた。 「朝倉詩織さんです」 「ああ、そうです。朝倉さん」  職員は頷き、空欄へペンを下ろした。  黒い文字が、罫線の上へ戻っていく。 「責任を問うために来たわけではありません」  田中は、その手元を見ながら言った。 「忘れないための形を、先に作っておきたいだけです」  職員の肩から、僅かに力が抜ける。 「分かりました」  申請書が一枚、隣へ送られた。  印鑑が朱肉へ沈む。  とん、と机が鳴った。  確認。  署名。  もう一度、同じ音。  廊下では学生たちが笑っている。  その隅に、朱印の音だけが机の上へ落ちた。  職員が内線を取り、短く用件を告げる。  ほどなくして、廊下の向こうから足音が近づいてきた。  呼ばれてきた教授が、作品の記録写真を手に取る。 「ああ。この絵は、覚えています」  厚く塗られた青。  細い筆致で引かれた白い線。  教授の親指が、写真の端を押さえた。 「最後まで、ずっと直していました。彼女は――」  言葉が止まる。  視線が写真から外れ、机の上をさまよった。 「すみません、名前が」 「朝倉さんです」 「……そう。そうでしたね」  教授は、写真へ向けてその名を繰り返した。  とん。  新しい印が押される。  田中の指が、唐傘の柄へ触れた。  柏城はその動きに気づき、横を見る。  田中は机へ顔を向けたままだった。  病院で薄れた頬の色が、まだ戻りきっていない。 「田中さん?」 「……はい」  返事が、一拍遅れた。  提出物管理表。  朱肉の染み。  机の下を這う配線。  並んだ写真。  田中の目が、それらの間を行き来する。  廊下の向こうを学生が駆けた。  壁越しの足音は、すぐ近くで止まったように聞こえる。  田中の眉が寄った。 「酔ってます?」 「少しだけです」 『少しって顔じゃないだろ』  蛇の目の輪郭が、閉じた傘の中で動いた。  深い朱。  太い黒。  中心に抜けた白。  田中の視線は、吸い寄せられるようにそこへ収まる。 『こっち見ろ、猛虎』 「見てるよ」 『まだ散ってる』 「今、戻してるところでしょ」  田中は目を閉じた。  短く吸い、細く吐く。  胸元が、わずかに上下する。 「紙はここ。影は奥。唐傘さんは、机の横」 『そうだ』 「名前は、ここ」  指先が、書き戻された一行を押さえた。  目を開けば、申請書へ視線が戻る。 「続けて大丈夫です」 「本当に?」 「倒れるほどじゃないです」 『倒れる前の奴は、大体そう言うな』 「唐傘さん、今は不安を煽らないで」 『不安じゃなくて実績の話だ』 「昔の話でしょ」 『机に負けたの、三年前じゃなかったか?』 「机には負けてないよ。床に負けたの」 「どっちにしろ負けてませんか?」  柏城が言うと、田中は眉尻を下げた。 「柏城さんまで言うんですか、」  教授が、困ったように三人を見ている。  田中はそれに気付いて背筋を戻した。 「あっ。すみません、続けてください」  最後の申請書が置かれる。 「展示名義は、本人確認が取れるまで変更しないようお願いします」 「分かりました」 「控えは明日までに、境界院と九十九課へ」 「はい」  とん、と最後の印が押された。  続いていた音が、それで止まる。  田中は唐傘の柄から手を離した。  すぐには立ち上がらず、書類の端を揃えていく。  一枚。  もう一枚。  角が重なったところで、ようやく椅子を引いた。  田中が唐傘を持ち上げ、柏城も席を立つ。  教授が、ためらうように口を開いた。 「作業場所も、見ていきますか」  共同実習室は、廊下の奥にあった。  扉を開けた途端、木炭と絵の具の匂いが濃くなる。  窓から風が入り、壁際に貼られた薄紙を揺らしている。  机がいくつも並んでいた。  絵筆。  潰れたチューブ。  濁った水の残るバケツ。  その中に、一つだけ何も置かれていない机がある。  教授は、その前で足を止めた。 「最後に帰る時、いつも窓を閉める子でした」  開いた窓へ目を向ける。 「雨が入ると、ほかの学生の作品まで濡れるからって」  名前は出てこないようだった。  田中が、空いた椅子を見る。 「朝倉さんです」 「……そう。朝倉さん」  教授は、忘れないうちに確かめるように口にした。  風が入る。  誰もいない机の上で、白い紙が一枚だけ浮き上がった。  廊下へ出ると、学生たちの声がまた近くなった。 「それ、今日提出だって」 「嘘、来週じゃなかった?」 「昼どこ行く?」 「え、今日弁当なんだよね」  紙袋を抱えた学生が、すぐ脇を通り過ぎる。  絵筆を洗った溶剤の刺激が薄く混じっていた。  田中は壁際で立ち止まり、目元を指で押さえる。 『まだ酔ってるのか?』 「もう平気」 『今の間は怪しいな』 「一秒もなかったでしょ」  唐傘を抱え直し、鞄からメモを取り出す。 「次は商店街へ行きます」 「商店街?」 「よく使っていた画材屋があるんです。展示用の額も頼んでたみたいで」  紙の端に、田中の字で名前が書かれていた。 「店の人が覚えているか、確認するんですか」 「それもあります」  メモを折り、胸ポケットへ戻す。 「学校に記録があるだけじゃ、戻る場所にはならないので」 「戻る場所、ですか」 「大学があって、画材屋があって。途中で寄る店とか、雨の日に立ち止まる場所とか」  田中は、学生たちの行き交う廊下を見た。 「そういうのが残って、やっと生活でしょう」  笑い声が、曲がり角の向こうへ消えていく。  名簿の空欄を思い出す。  書き直された文字。  その横に押された、赤い印。    消えかけた名前にも、こうして紙の上へ留まる場所がある。  何かに結んで留めれば、元へ、戻れるのだろうか。  浮かんだ考えは、胸の奥で薄く滲んで溶ける。 「柏城さん?」  田中が振り返っていた。 「行きましょうか」 「あ、はい」  田中が歩き出す。  唐傘の傘先が、床へ一度触れた。  こつ。  そのあとを、靴音が続く。  歩幅はいつもと変わらなかった。  大学の門の前で、学生が友人と自転車を押している。  道の向こうでは、帽子から葉を覗かせた男が信号を待っていた。  商店街までは、歩いて十分ほどらしい。  田中が顔を上げる。 「外は助かりますね」 「見えにくくなるんですか」 「いや、見えるものが散るんですよ。音も匂いも多いし」  車が通る。  自転車のベルが鳴る。  どこかの店から、油の弾ける音が届いた。 「一つだけ目立つより、全部うるさい方が楽なんです」 『腹も減るしな』 「それは唐傘さんだけだよ」 『お前も減ってるだろ』 「まあ、ちょっとは」 『さっきから鳴ってるぞ』 「鳴ってないよ」 「俺も聞こえましたよ」 「え、ほんとに?」  田中は口元を隠すように笑い、そのまま前を向いた。  商店街の入口に、古いアーケードが見えた。  半透明の屋根を通した陽が、通りへ淡く落ちている。  惣菜屋の呼び声に、自転車のブレーキ音が重なった。  少し先では、店主が半分だけ開いたシャッターを押し上げていた。  入口近くの雑貨屋には、小さな札が下がっている。

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