志乃創 / 第18話

第18話 信頼未満

 商店街を抜けると、空が広くなった。  低い雲が道路の上まで降りてきているようだった。  湿った風が、店先の暖簾を揺らしている。  唐傘は閉じられたまま、田中の手に収まっていた。  柏城は歩きながら、さっきの画材屋をぼんやりと思い返す。  白く抜けた客名欄。  磨いておくよ、と言った店主の声。  残るものはある。  消えるものもある。  なら、戻せるものもあるのだろうか。 「直樹さんは」  気づけば、口に出ていた。  はい、と返事をして田中が振り返る。 「日常を、戻せるんですよね」 「できますね」  田中は迷いなく答えた。 「多分、誰より正確に」  その言葉は、思っていたよりも深く柏城に刺さった。  正確に。戻せる。  なら。  胸の奥で、何かが勝手に動いた。  割れた無線。  赤く濁った水音。  同じ防具。同じ部隊章。  ヘルメット越しに聞こえた、最愛の声。  最後に見たのは恋人としての顔ではなかった。  現場を守ろうと動く、警察官だった。  守れなかった。何もかも。  腕の中から抜け落ちていった重さ。  呼んでも返らなかった名前。  自分だけが、まだ息をしていた。 「じゃあ」  口が、勝手に動いていた。 「俺の、」 「柏城さん」  田中の声が、そこへ重なった。  強い声ではなかった。  けれど、柏城が続きを口にするための間は、きれいになくなった。  柏城の足が止まる。  閉じた唐傘の先が、歩道をこつ、と叩いた。 「今のは、言わせたくありません」  柏城は瞬きをした。   「……何も」 「言いかけました」  逃がしてはくれなかった。  田中は笑っていない。 「言葉にしたら、形になります」 「でも、」 「駄目です」  短い言葉に、柏城を責める響きはない。  ただ、相談するための言葉でもなかった。  願うだけなら、自分の自由ではないのか。  何を望むのかも分からないうちから、危ないものとして塞がれている。  田中は、その反発に気づいたように少しだけ眉を下げた。 「……すみません」  小さな声。  さっきまでの硬さが、急に所在なさげに揺れる。 「いや、分かってます。俺の悪い癖です」  そう言いながらも、田中は唐傘を抱え直しただけだった。  視線が、閉じた和紙へ落ちる。 「でも、えっと。柏城さん、今、隣にいるじゃないですか」  ひどく当たり前のことを、確かめるように言った。  当たり前なのに、どこか必死だった。 「俺の中では、ちょっと友達なんですよ」 「……ちょっと」 「はい。ちょっと。こっちがそう思ってるだけです」  田中は、困ったように笑った。 「だから、まあ。無理かもしれないし、勝手かもしれないんですけど」  一度視線を落とし、言葉を探す。 「今だけ、ちょっとお節介させてください」 「……」 「迷惑だったら、あとで怒っていいので」  怒る余地は残してくれるらしい。  ただし、今ではない。  それでも声は柔らかかった。 「見てるだけって、嫌なんです」  風が抜ける。  店先の暖簾が音を立てた。  雨は降っていないのに、空気だけが水を含んでいる。  そのくせ、柏城の喉の奥は乾いていた。  薄い紙を貼られたみたいに、息が引っかかる。  言葉になりかけたものが、そこに残っている。  戻してほしい。  消してほしい。  逢いたい。  忘れたい。  どれだったのか、自分でも分からない。  分からないまま、全部だった気もする。 『傘はなあ、雨を消す道具じゃねえのよ』  唐傘が、田中の手の中でかすかに揺れた。 『濡れる場所を、ちっとばかりずらすだけだ』  柏城は閉じられた和紙を見る。  内側は見えない。 「契約も、似たものなんです」  田中は言った。 「届かないところへ、手を届かせる。でも」  そこで、少しだけ言葉が止まる。 「届いたものを持って立てるかは……別です」 「朝倉さんも、ですか」  柏城が聞くと、田中は頷いた。 「絵だけが残ればいいって、叶うんですか」 「直樹さんは、正確なので」  穏やかな声だった。  穏やかなまま、少しだけ冷たい。  白い病室。細い指。  スケッチブック。  自分を覚えているのは、自分だけだと言った声。  契約を急がない理由を、ようやく理解する。 「だから、まだ契約しません」  短い答えだった。  そこには迷いより先に、決定があった。    柏城は息を吐く。  喉の奥に残っていた言葉が、沈んでいく。  ようやく、道を塞がれた気がした。  田中は柏城を見ていた。 「柏城さんまで、壊れてほしくないです」  理屈ではなかった。  慰めでもなかった。  柏城のことなのに、田中の声の方が痛そうだった。 『お前が焦ったって、何も変わらんぞ』  閉じた和紙の奥で、骨が小さく鳴る。  田中が瞬きをした。 「……俺?」 『違う』  唐傘は、喉の奥で笑うように低く鳴った。 『聞こえたなら、それでいい』 「何の話ですか」 『随分なものを、燃料に選んだと思ってな』 「……大丈夫ですか?」  柏城は思わず聞いた。  田中も眉を寄せる。 「うーん。たまに、よく分からないこと言うんですよね」  もうおじいちゃんなので、と田中が苦笑した。 『おい猛虎!誰が、まだ現役だぞ!』  唐傘が勢いよく骨を鳴らせば、田中は「はいはい」と雑に返す。  柏城は、背中の奥に残った違和感を追うように振り返った。  自分の後ろには、何もいない。  閉じた店のシャッター。  車の走る音。  湿った空気の中で、遠くのエンジン音だけがぼんやり滲んでいる。  それだけだった。  それだけなのに、背中の少し奥だけが、まだ落ち着かなかった。  見えないものに見られているような。  けれど、目で追えばすぐにほどけてしまうような。  そんな頼りない感覚。 「柏城さん?」  田中に呼ばれて、柏城はようやく前を向きかける。 「いえ、」  何もいませんでした、と言おうとした。  視界の端で、別の何かがかすかに動く。  今度は、気配ではなかった。  はっきりと、見えた。  電柱の陰から、白い袋がはみ出している。  両手に一つずつの買い物袋。  ビニールが、指の重みでくしゃりと歪んでいた。  柏城は目を凝らす。 「……え、?」  もう一度、見る。  電柱の後ろに、誰かが隠れている。  隠しきれない背丈。  濃紺の髪。  大きいサンダル。  灰色のアスファルトの上で、その存在だけが妙にはっきり浮いていた。  猫屋敷だった。  様子を窺うように顔を出した猫屋敷と、目が合う。  すかさず、猫屋敷が舌打ちをした。 「……っくそ、まだだったか」 「えっと、猫屋敷さん?」 「違いまーす」  低い声だった。  気の抜けた言い方なのに、声だけがやけに重たく響いた。 「通行人Aです。お気になさらず」 「いや、猫屋敷さんですよね」 「見間違いじゃないですかね?」  袋の中で惣菜のパックらしきものが、かさ、と擦れる。  油の匂いが、湿った風に少しだけ混ざった。  田中がぱっと顔を上げる。 「猫屋敷!ちょうどいいところに」 「よくない。俺は今忙しいの」  猫屋敷の顔が目に見えてげんなりする。  両手の袋が、抗議をするみたいに小さく揺れた。 「うん、分かる分かる。でさ」 「今日オフだから。やらない」  即答だった。 「まだ何も言ってないじゃん」 「どうせ仕事の話でしょ」 「今日は違うって」 「は?」  猫屋敷が不審そうに目を細める。 「え、珍し……」 「仕事なら、今日はもう俺一人で充分」  田中はそう言って、横目で柏城を見る。 「柏城さん、送って行けない?」  買い物袋が、かさりと音を立てる。  猫屋敷の視線が柏城へ寄った。 「……駅まで?」 「うん。できれば」 「なら、まあ」  柏城は思わず口を挟む。 「あの、大丈夫です。自分で帰れます」 「大丈夫そうなら、俺は最初から隠れません」  猫屋敷は言うとすぐに眉を寄せた。 「いや、隠れてないですけどね」 「隠れてたじゃないですか」 「電柱を見てただけです」 「電柱を?」 「こう、なんて言うか、美術に目覚めた、的な、造形美?みたいな……?」  田中が呆れたように笑った。  猫屋敷は面倒くさそうに息を吐く。  その息は曇り空の下にすぐ溶けて、残らなかった。 「オフに九十九課の奴見ると、大体ろくなことにならない」 「いつも九十九課の奴といるのに?」 「……それは、別でしょ」  ほんの少しだけ、間があった。  猫屋敷は視線の行き場を探すみたいに、足元のアスファルトを見て、戻す。  触れられたくないところを、やわらかく撫でられてしまったような。  そんな逃げ場のない顔だった。  田中は嬉しそうに、にっこりと目元を緩める。 「あー、はいはい。そっちは別ね」 「うるさい」 「俺ら、結構気ぃ使ってるんだけどなあ」 「頼んでない」 「恩に着てよね」 「だから、今断ってないし」  猫屋敷は気まずそうに視線を逸らした。  袋の持ち手が、長い指に食い込んでいる。 「てか、そっちが勝手にやってるだけでしょ」  猫屋敷はそう言って、買い物袋を持ち直した。  そのまま柏城の方を見る。 「じゃ、駅まで行きますよ」 「……あ、はい」 「ちょっと急いでいいです?唐揚げ冷めるんで」  面倒くさそうで、雑な言い方だった。  けれど、歩き出す方向は柏城と同じだ。 「猫屋敷、ありがと」 「礼とかいらないから。仕事みたいにしたくない」 「仕事じゃないよ?」 「……余計悪い」  唐傘が、閉じたまま小さく鳴った。 『友達が増えると、帰り道は安全だからな』  猫屋敷は唐傘を見て頬を引きつらせる。 「そのお喋り閉じといて。長いんだよ」  喉の奥に残っていた乾きが、ほんのわずかに薄まる。  次の角までは、三人で歩いた。  前を行く猫屋敷のサンダルが、乾いた音を立てる。  隣では田中が、閉じた唐傘を抱えていた。  背中の奥は、まだ落ち着かない。  それでも足は、まっすぐ前へ出せた。

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