志乃創 / 第19話

第19話 セーブポイント

 田中が柏城を預けた理由を、猫屋敷は知らない。  何があったのかも、詳しくは聞いていない。  それでも、今日の柏城は放っておくには静かすぎる気がした。  だから田中は、あんなふうに笑って、俺に押しつけたんだろう。  多分、一人にしたくなかったのだと思う。  そう解釈した。  勝手に。 「……腹、減ってないんですか」  家を出た時にはまだ少し明るかった空が、今はもう藍色に沈みかけている。  薄いスウェット越しに、夜気が腕へ触れた。  ビニール袋が、歩くたびにかさりと鳴る。  中の容器が小さく揺れて、油と醤油の匂いが微かに漏れていた。 「いえ、大丈夫ですよ」  柏城はそう答える。  丁寧だ。  丁寧すぎて、少し遠かった。  猫屋敷は、袋の口を見下ろす。  これから一緒に働く人だ。  初対面の印象は、多分あまり良くなかった。  差出人不明の菓子を食べようとしていたところを止められたし。  こちらもこちらで、普通に拗ねた。大人げなく。  だけど、柏城さんは変な目では見なかった。  俺に、余計な好意を向けなかった。  馴れ馴れしく優しくもしなかった。  なら。  少しくらい、こちらから近づいてもいい人なんじゃないか。  そう思った。  思ったのだが。 「……あの、」  猫屋敷は、紙袋の中から唐揚げの容器を取り出した。  蓋を開け、添えられていた楊枝を一本抜く。  まだ温かい。 「食べます?」  柏城が、少しだけ目を瞬かせる。 「いえ、お気遣いなく」 「ここの、美味しいですよ」 「そうなんですね、今度買ってみます」 「……そうですか」  会話が切れた。  猫屋敷は、手元の唐揚げを見下ろす。  湯気はほとんど見えない。  容器の底に、油が薄く溜まっていた。  上手くいかない。  緋毬さんなら、どうするだろう。  田中なら。  多分、もっと軽く笑う。  断られても、気まずくならない。  そもそも、断られたくらいで傷つかない顔をする。 「あの、でも、今食べとけば買いに行く手間省けますよ」  猫屋敷は顔を上げた。 「話題作りのための買い物なんて、めんどいだけじゃないですか」  言ってから、しまったと思った。  嫌味みたいだった。  いや、ほとんど嫌味だった。  柏城は困ったように黙る。  猫屋敷は唐揚げを差し出したまま、引っ込めることもできずにいた。 「……ありがとうございます。そこまで言うなら」  柏城が、困惑交じりに受け取る。  一口食べて、「あ、美味いですね」と小さく漏らした。  それを見れば、胸の奥がほっと緩んだ。  同時に、別のところが沈む。  馬鹿みたいだ。  唐揚げ一つ渡すだけで、何をしているのだろう。  仲良くなりたいなら、もっと普通にすればいい。  普通って何?  職場の人間との距離も、知り合いから友達になる方法も。  よく分からなかった。 「猫屋敷さんって、家この辺なんですか?寮じゃなくて」  柏城が、唐揚げを食べながら言った。  猫屋敷は顔を上げる。  話しかけられた。  断られたわけではなかった。  終わりではなかった。  それだけのことで、さっき沈んだ分が浮いた。 「……まあ。近いです」  声は、思ったより普通に出た。  それで少し、調子に乗った。 「柏城さんって」 「はい」 「ゲームとか、普段しますか」  自分でも分かるくらい不自然な流れだった。  だが、口に出してしまったものは仕方がない。  話題なんてこれくらいしか持ち合わせてない。  柏城は少し考えるように視線を上げる。 「え?ああ、それなりですけど」 「それなり」  猫屋敷は、思わず聞き返した。 「それなりって、どの程度ですか。スマホゲーだけとか、家にハードあるとか、友達に誘われたらやるくらいとか」 「ああ、えっと。家にありますよ。最近はあまり触れてませんけど」  ある。  その一言で、猫屋敷の中の何かが少し浮いた。 「……あの」  また、あの、から入っている。  この入り方しかできないのか、俺って。  それでも口は止まらなかった。 「ちょっと、自慢したいものがあって」 「自慢したいもの?」 「はい。九十九課の人たち、全然ゲーム興味なくて」  緋毬さんは多分、へーって言うだけ。  田中は見せたら褒めてくれるだろうが、たぶん本質は分かっていない。  香月さんは、笑顔で「すごいですね」と手を叩いてくれる。  それはそれで、少し違う。 「だから」  袋を持つ手に力が入る。  言っていいのか。  今誘うのは、やっぱりやめた方がいいのか。  でも、田中は柏城と普通に話していた。  柏城も、唐揚げを食べた。  美味いと言った。  なら。  多分、まだ大丈夫だ。 「暇なら、家来ません?」  言ってしまった。 「誰かに見せびらかしたくて」  柏城が瞬きをする。  それが驚きなのか、迷惑なのか、猫屋敷には分からなかった。  そこで急に、自分の言葉がどう聞こえたかに気づく。  ほとんど初対面の職場の人間を、夜に家へ誘っている。  しかも理由が、自慢したいから。  普通に変だ。 「いや、深い意味はなくて」  慌てて付け足す。 「……まあ、無理なら別に」  別に。  そう言いながら、断られたら素直に落ち込むことは分かっていた。  猫屋敷は、柏城の方を見ないようにして歩いた。  それでも耳だけは、返事を待っている。  浮ついた感じが足元から、上ってくる。  自慢したいものがあるのは本当だった。  誰かに見せびらかしたかったのも、本当だ。  残念ながら、その相手がいないことも。  柏城は返事に迷う。  迷惑なら断ればいい。それだけの話だ。  だが、猫屋敷が見ないようにしているのに気付いてしまった。  返事を待っているくせに、待っていないふりをしている。  案外、迷惑とまでは思わない自分もいた。 「……じゃあ、少しだけ」  そう言うと、猫屋敷の肩が分かりやすく揺れた。 「別に、無理にとは言ってないですけど」 「はい」 「本当に、見せたいだけなんで」 「はい」 「あと唐揚げが多いだけなんで」 「分かりましたって」  嬉しそうに緩みかけたのを、押し戻すように唇を引き結ぶ。  それでも隠しきれず、視線は落ち着きなく揺れていた。  分かりにくい癖に、隠すのはずいぶん下手だった。  家は近かった。  オートロック付きの、やけに立派なマンション。  エントランスが広い。  床は磨かれていて、管理人の姿まで見える。  警察官の一人暮らしにしては場違いな気がして、柏城は足を止めかけた。  いや、外観だけで判断するのもおかしいか。  そう自分に言い聞かせながら後を追う。  猫屋敷は何も気にした様子もなく、慣れた手つきで鍵を操作していた。  エレベーターに乗って、八階へ。  部屋の中は片づいていた。  本棚。ゲーム棚。  低いテーブル。  大きめのソファとテレビ。  窓際にクイーンサイズのベッド。  生活感はあるのに、まず思ったのは機能性の良さだった。 「これです」  猫屋敷はそう言って、モニター横の白い箱を指さした。  柏城は、数秒見てから目を見開く。 「……え、これ」 「はい」  猫屋敷はとても自慢げな顔をしている。 「先行販売の?予約サイト開けなくて、俺、途中で諦めましたよ」 「そうです、そうなんですよ」  猫屋敷の声が、得意げに跳ねる。 「いや、すごいですね。よく買えましたね」 「まあ」  明らかに嬉しそうだった。  猫屋敷はそれを隠そうとしているのだろうが、隠せていない。  柏城は、久しぶりにゲーム機をまじまじと見た。  そういえば、触っていなかった。  あの日から。  勤務と事情聴取と検査と、眠れない夜と、考えないための運転ばかりで。  好きだったものに触る余裕がなかった。  触ったところで、楽しいと思える自信もなかった。 「まだ一度も電源入れてないんです」 「え」 「最初に起動するの、やります?」 「いいんですか」 「触ってもらわないと、自慢にならないんで」 「でも、猫屋敷さんが楽しみにしてたんじゃ」 「横で見てるんで。同じです」  ああ。  たぶん、励まそうとしている。  最初に電源を入れる時の、少し浮つく感覚。  新しい画面が開くまでの、短い待ち時間。  猫屋敷は、その小さな楽しみを柏城に譲ろうとしていた。 「……じゃあ、やります」 「はい」  箱を開ける。  真新しい本体を取り出し、コードを繋いだ。  柏城は電源ボタンへ指を置く。 「えっと、押しますね」 「どうぞ」  猫屋敷は素っ気なく答えた。  そのくせ、柏城がボタンを押す瞬間だけ、じっと画面を見ていた。  大事なものを差し出す手つきが、ひどく不器用だった。  子供じみていて、優しい。  それが、高い背丈と妙にちぐはぐだった。  暗かった画面に、光が灯る。  起動音が、静かな部屋に小さく響いた。  猫屋敷の口元が、ほんの少し緩む。  柏城も、少しだけ笑った。  久しぶりに、何かを楽しみに待つ感覚を思い出した気がした。  開いた画面は、協力型のアクションゲームだった。  猫屋敷は上手かった。  時々、わざとらしく柏城の方へアイテムを残す。 「これ、取っていいんですか」 「俺、要らないんで」 「でも」 「使わないんですか?」 「……ありがとうございます」 「はい」  柏城が敵に囲まれると、すぐに横から割り込んでくる。  画面の中の猫屋敷は、口で言うよりずっと分かりやすく助けてくれた。  しばらく遊んでいると、棚の端にホラーゲームのパッケージが並んでいるのが見えた。 「仕事して、家でもホラーやるんですか」 「やりますよ」 「飽き飽きしませんか」  猫屋敷は、視線を落とす。  それから、何でもないことのように言った。 「仕事がうまくいかなかった時にやります」  柏城は返事をし損ねる。  画面の中では、キャラクターが決められた道を走っている。  敵を倒せば進める。  失敗しても、やり直せる。  正しい手順がある。  ちゃんと、終わりがある。 「まあ、現実より親切なんで」  猫屋敷はそう言って、画面の中で敵を一体倒した。  柏城は少し遅れて、「確かに」と笑った。  それ以上は、聞かなかった。  そのまま二人でしばらくゲームを続けた。  低いテーブルの上の惣菜をだらだらとつまむ。  猫屋敷が買った唐揚げもメンチカツも、餃子も、気づけば空になっていた。 「……足りないですね」  猫屋敷が空の容器を見て言った。  柏城も、否定はできなかった。 「出前取りますけど、食べますよね?」  食べますか、ではなかった。  食べますよね。  その距離の近さに、返事が詰まる。 「いや、俺、持ち合わせがあったか」  そこまで言ったところで、腹が鳴った。  自分でも驚くくらい、はっきり鳴った。  猫屋敷が一瞬黙る。  それから、目元を緩めた。  馬鹿にする笑いではなかった。  安心したような、気の抜けた感じだった。 「今日、外で仕事だったんですよね」 「ああ。はい」 「なら、ご褒美あってもいいんじゃないですか。忙しかったでしょ」  猫屋敷はスマホを操作しながら言う。 「体は限界って言ってますよ」  柏城は何も返せなかった。  限界。  その言葉が、思ったより近いところに落ちる。  食べなくても、眠れなくても、動けるなら大丈夫だと思っていた。  けれど、腹は鳴った。  手はコントローラーを握っている。  目の前には、食べ終えた容器と、得意げな顔をし損ねた猫屋敷がいる。 「……すみません」 「何がですか」 「いえ、」  猫屋敷は深くは聞かずに、手際よく出前を頼んだ。  届いた料理を二人で分けて、またゲームをした。  勝ったり、負けたり、落ちたり、助けたりした。  会話は多くなかった。  それでも、沈黙はさっきほど遠くなかった。  腹が満ちると、急に体が重く感じる。  暖房の効いた部屋に、揚げ物の匂いがまだ少し残っていた。  画面の光が、ぼんやり滲む。  駄目だ。  寝るのは、まずい。  迷惑になる。  帰らないと、  そうは思うのに、指先へ力が入らない。  猫屋敷が何か言った気がした。  返事をしようとして、コントローラーを握り直す。  その動作だけで、精一杯だった。  視界がゆっくり暗くなる。  気づけば、意識は静かに途切れていた。  考える間もなく眠れたのは、随分久しぶりのことだった。    声が聞こえた。  低くて、やけに眠そうな声。 「……や、寝てんだって。違う、ソファだよ馬鹿」  誰かが電話をしている。  柏城は、重たい瞼を開けた。  最初に見えたのは、見慣れない天井だった。  次に、腹の上に掛けられた毛布。  それから、自分の手から外されて、テーブルの端に置かれているコントローラー。  昨夜のことを思い出すまでに、少し時間がかかった。  猫屋敷の家。ゲーム。出前。  そのあたりで、記憶が曖昧になっている。 「だから、今日は直行にしてやって。外回りなら午後からで間に合うだろ」  猫屋敷は窓際で電話をしていた。  上下スウェットのまま、片手で髪を掻いている。  声はいつもより更に低い。  まだ起きて間もないのかもしれない。  柏城は、ゆっくり体を起こそうとした。  肩に残っていた重さに気づく。  落ちるように眠っていた。 「……え、いや、違うって。普通の友達ってこんなんでしょ」  猫屋敷が不機嫌そうに言う。 「うるせ。そういうの、もう散々なんだよ」  電話の向こうで、田中が笑っている気がした。  猫屋敷は嫌そうな顔をして、通話を切る。  それから、柏城が起きていることに気づいた。 「あ、」 「……すみません」 「何がですか?」 「寝落ちました」 「まあ、見れば分かります」  猫屋敷は、テーブルの上の空き容器をまとめながら言った。 「寝てたんで、田中に連絡しときました。今日は昼から直行でいいらしいです」 「勝手にですか」 「勝手にです」  悪びれた様子はなかった。  むしろ、どこか得意そうだった。  柏城は毛布に目を落とす。  薄手だが、ちゃんと暖かかった。 「これ、猫屋敷さんですよね」 「腹痛くて起きたら最悪じゃないですか」  猫屋敷は、こちらを見ないまま言う。 「風邪引かせたら、俺が怒られそうだし」  言い訳は少し雑だった。  けれど、昨夜の唐揚げと同じだった。  柏城は毛布の端を握った。 「ありがとうございます」 「別に。飲み物甘いのでいいです?」  今度も、聞いているようでほとんど決定だった。  柏城は少し笑う。 「……はい。いただきます」  戻ってきた猫屋敷の手には、マグカップが二つあった。  中身はホットミルク。  寝る前なら分かる。  朝一番に出てくるとは思わなかった。 「コーヒーじゃないんですね」 「寝起き、これが落ち着くって言う人がいるんで」  猫屋敷はそこまで言って、少しだけ首を傾げた。 「すみません、癖で作りました」  言ってから、マグカップを持つ手がわずかに止まる。 「朝からこの甘さは、胃にきます?」  今さら聞くのも変だと思ったのか、猫屋敷は少しだけ目を逸らした。  柏城は、湯気の立つマグカップを見る。  甘い匂いが、朝の部屋にゆっくり溶けていた。 「いえ。……なんか、安心しますね」  数えるほどしか会っていない同僚が、自分のために温かい飲み物を用意している。  本当なら、もっと気まずくてもいいはずだった。  それなのに、不思議と嫌ではない。  嫌ではないことの方が、少し怖かった。  猫屋敷は何も言わず、マグカップへ口をつける。  昨夜の藍色は消え、カーテンの隙間から薄い朝の光が差していた。  ゲーム機の電源だけが、二人の間で小さく白く光っている。

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