志乃創 / 第5話

第5話 遠回り

 窓際に立ち、両腕を胸の前へ寄せている。 「……誰かいます」  柏城が言う。  紫谷は答えない。  影の肩が揺れた。  片腕が上がる。  もう片方も。  胸元へ指を立て、何かを掻き取るように動かした。  次の瞬間。  腕が大きく振られた。  窓の外へ、黒いものが飛ぶ。  雨粒よりも重く。  鳥の糞よりも遅く。  べたり。  柏城の数歩先で、濡れた石へ張りついた。  赤い油彩だった。  生乾きの匂いが、雨の湿気を縫って喉へと入ってくる。  柏城は窓を見上げる。  もう、誰もいない。 「今、何か投げましたよね」 「見えたね」  紫谷はしゃがみ込む。  赤い塊へ指を近づけたが、触れずに止めた。 「また油彩か」 「上から落ちてきました」 「うん」 「人がいます」 「いたね」 「追わないんですか」 「……まあね。被害者ではなさそうだし」  そう言いながら赤い絵の具を見ている。  その端が動いた。  雨水は石の傾斜に沿って下へ流れている。  赤だけが、逆らった。  細い筋を伸ばし。  壁の目地へ入り。  ゆっくりと上へ向かう。  柏城は息を止めた。 「……上ってる?」 「そーだね」 「落ちてきたのに、何のために、」 「帰りたいんじゃない?」  軽い声だった。  赤い筋は壁を這う。  窓へ。  先ほど自分を捨てた人影のいる場所へ。  紫谷はそれを見上げた。 「帰ったら、また捨てられるのにね」  軽い調子だった。  だが紫谷は笑っていない。  柏城もつられてもう一度見上げる。  窓の奥は暗い。やはり人影は見えなかった。  静かだった。静かすぎた。  視界の端で紫谷の右手がゆっくりと腰の後ろへ回る。 「紫谷さん?」 「帰る場所が分かってんなら、話は早いよね」  紫谷はそう言って笑う。  その笑顔は、署で見た気怠そうなものと同じだった。  ジャケットの内側から何かを引き抜く。  銀色だった。  柏城は一瞬理解できない。  包丁。  肉屋で見るような、大きな、肉切り包丁。  異様なほど磨き上げられた鏡面の刃が、鈍く辺りを映している。 「え、」  紫谷は刃先を確かめる。その動作は慣れたものだった。 「そろそろ入ろっか」  声もいつも通り。  眠たげな空気だけが、どこかへ消えている。 「ま、これはまだ使わないと思うけどさ」  そう言って指紋を落とすように包丁を軽く拭った。 「や、なんすか、それ」 「んー……仕事道具?」  包丁が?  柏城は思わず二度見した。どう見ても包丁だった。  警察官が持つものではない。  少なくとも柏城の知っている支給品にはない。  紫谷は気にした様子もなく刃をしまう。  まるで、手帳でも確認したかのような自然さだった。 「行こっか」  先に歩き出す。  柏城はその背中を見た。  窓の人影。  壁を這う絵の具。  そして大きな肉切り包丁。  繋げて考えたところで理解できない。  それでも。  この部署では誰も、疑問に思わないのかもしれない。  そんな考えが頭をよぎる。  柏城は二秒ほど迷って後を追った。  雨に濡れた石畳を踏みしめる。  美術館の正面玄関。  重厚な木製の観音扉の前で。  紫谷は一度だけ、呼吸が深くなった。  扉が押し開かれる。  暖房は効いているはずだった。  それなのに寒い。  呼吸がしにくい。  あの日、現場へ向かった朝のことを不意に思い出した。  絵の具。古い木材。乾いた油。  いくつもの匂いが、喉の奥で混ざっている。  柏城は無意識に息を浅くした。  その奥で、人の気配が動く。  受付には若い女性職員が立っていた。  こちらを見る。  警察手帳を見せた瞬間、女性は顔色を変えた。 「警察……」  声が掠れる。 「あれ」  気の抜けた声が飛んだ。 「なんか、知ってるかな?」  紫谷は返事を急かさなかった。  女性は口を開きかける。  閉じる。  喉が小さく動いた。  やがて、首を横へ振る。 「……いえ」  短い返事だった。  けれど目だけが違った。  一瞬だけ。  怯えるように展示室の奥を見る。  紫谷はその視線を追わない。  ただ、小さく笑った。 「ん、そっか」  それだけだった。  女性は息を詰める。  何かを飲み込むように俯いた。  柏城は二人を見比べる。  何も聞き出していない。  何も答えてもらっていないのに。  紫谷だけが、何かを受け取った顔をしていた。 「失踪事件について、聞かなくていいんですか」  思わず小声になる。  紫谷は歩きながら肩を竦めた。 「今ので十分でしょ」 「何がです」 「怖がってる」 「当たり前じゃないですか」  失踪事件が起きている。  警察が来れば緊張もする。  だが、紫谷は首を振った。 「違うなあ、警察じゃなくてさ」  紫谷が目を細める。 「向こう、ね」  柏城は振り返る。  長い廊下。  壁一面の絵画。  静まり返った展示室。  誰もいない。  そのはずだった。  なぜか奥だけ暗く見える。 「見た?」  不意に紫谷が言った。 「何をですか」 「いや」  紫谷は肩を竦める。 「見てないならいいや」 「だから何を」 「気にしなくて大丈夫」  全く大丈夫に聞こえなかった。  柏城はもう一度廊下の奥を見る。  そこだけ空気が沈んでいるような。  言葉に出来ない違和感だった。 「怪異ってねぇ、」  紫谷が呟く。 「縄張りにいるときは強気なわけだよ」  展示室へ向かう廊下は静かだった。  足音だけがやけに響く。  柏城は、歩数を数えていた。  正面玄関から廊下。  階段。  二階。  外から見えた窓の位置まで。  目的地には、壁があった。  白い展示壁。  肖像画が三枚。  窓はない。 「場所、間違えてませんか」 「たぶんここ」  紫谷が壁をノックするように叩く。  こん。こん。こん。  鈍い音。 「外から見た時、窓がありました」 「うん」 「人もいました」 「いたねえ」 「では、この壁の向こうに空間が」 「ないよ」  紫谷が館内図を開いた。  展示室の外側は、そのまま外壁になっている。  人が立てるほどの幅はなかった。  柏城はもう一度壁を見る。  肖像画の一人が、こちらを見ていた。  先ほどは左を向いていた気がする。  けれど、最初にどちらを向いていたかが思い出せない。 「改装したんでしょうか」 「かもね」  紫谷は壁に耳を寄せる。 「中に誰かいれば、狭そうだけど」  冗談のようだった。  耳を近づけて五秒がすぎる。  六秒。七秒。八秒。  壁の向こうから。  べたり。  濡れたものを投げつけたような、微かな音がした。 「やっぱ、奥に部屋はないかな」  紫谷が歩き始める。  聞き間違いだろうか。  外では雨が降っている。  きっと、雨粒が屋根から落ちただけだ。  異変なら、紫谷が反応するはずだから。  そう考えて後を追う。  不意に前との距離がなくなった。  危うく紫谷の背中にぶつかりそうになる。 「どうしました」  紫谷は壁を見ていた。  「あー……いや、」  小さな舌打ち。  本当に小さな音だった。  聞き間違いかと思うほど。だが確かに聞こえた。  柏城は顔を上げる。  今のは聞き間違いではない。  署で会った時から、眠そうで、軽い顔をしていた。  それが初めて、不快そうに歪んだ。  視線の先を追えば、壁一面を覆う長い鏡があった。  美術館らしい装飾だ。古びた額縁が鏡を囲んでいる。  紫谷は何事もなかったように歩き出す。  ただ。少しだけ歩く速度が速い。  柏城は首を傾げながら後を追った。  何だったんだ。  そう思いながら。  何気なく鏡を見る。  そこで違和感を覚えた。  鏡の中の紫谷はひどく疲れた顔をしている。  目の下には濃い隈がある。顔色も悪い。  思わず前を歩く本人を見る。  いつも通りだ。  気怠そうではあるが、鏡の中ほどやつれてはいない。  もう一度鏡を見る。  鏡の中の紫谷が笑った。  そう見えた。  喉の奥が、ひやりと冷える。  一歩前を歩く紫谷の横顔は笑っていない。鏡だけだった。  心臓が嫌な音を立てる。 「可哀そうに」  責めるような響きはない。  心の底から同情しているような、優しい声だった。  鏡の中の紫谷が微笑む。 「生き残ってしまったんだろう?」  柏城の歩みが止まる。  頭の奥が酷く痛んだ。  雨音。  無線。  悲鳴。  照らす警告灯。  一面に広がる赤。赤い。真っ赤に。  脳裏で何かが揺れる。  どくん、と脈が跳ねた。思考を止める。  気づかぬうちに息を止めていた。  何かを思い出しかけた。思い出したくはなかった。 「でも大丈夫」  鏡の中の紫谷は穏やかに続ける。 「きっと、すぐに慣れるさ」  励ますような優しい顔だった。  だから余計に気が悪い。 「柏城、そっちは見なくていいよ」  静かな声がした。  柏城は弾かれたように顔を上げる。  紫谷は立ち止まり、自分を待っているようだった。 「何が、ですか」  すぐには答えなかった。  困ったような顔と目が合う。 「いや」  視線が柏城の向こうを通る。 「行くよ」  促され、柏城は鏡から離れる。  数歩進んだところで、柏城は足を緩めた。  行き先が違う。  第三展示室は、反対方向だったはずだ。 「紫谷さん」 「ん?」 「展示室ならあっちじゃ、」 「あー、こっちでいいよ」 「遠回りですよね?」 「ま、そうだね」  欠伸混じりの返事だった。  意味が分からない。 「ね、柏城。被害者の靴、覚えてる?」 「急になんですか」 「一人目」  柏城は眉を寄せた。  白だった。  確かに白だったはずだ。  その先が出てこない。 「……白い靴です」 「種類は?」 「靴は靴でしょう」 「鞄」 「黒だったと思います」  紫谷の歩みが止まった。  振り返らない。 「赤ね」  柏城も足を止める。 「……すみません」 「署で答えてたじゃん」 「あの時は、資料を見た直後でしたから」  答えながら、少し腹が立った。  それくらい誰にでもある。  色の記憶を間違えただけだ。  紫谷がゆっくり振り向く。 「そっか」  笑っていた。 「じゃ、次」 「まだやるんですか」 「失踪者、何人?」 「四人です」  すぐに答えた。  紫谷は頷く。 「そこは大丈夫か」 「何がです」 「んーん」  それだけ言って紫谷は歩き出す。  車内で何度も資料は読んだはずだった。  靴も、鞄も、見たはずなのに。  柏城は前を歩く背中を見る。  言いたいことがあるなら最初からそう言えばいい。  わざわざ遠回りまでして、回りくどい。  仕事に集中しろと言いたいのか。そうでないのか。 「ね、これって怪異事件だと思う?」  不意に紫谷が言った。  まただ。柏城は眉をひそめる。 「九十九課の担当案件なんですよね」 「そうだね」 「なら怪異が」 「たまにだけど。あるんだよね」  紫谷は柏城の言葉を遮った。 「証拠が出ないからって回ってくるだけの、未解決事件」 「九十九課にですか」 「うん」  紫谷は欠伸をした。 「怪異がいたから怪異事件とは限らないし」 「……」 「怪異が犯人とも限らない」  柏城は少し考える。  言われてみればその通りだった。 「違ったら?」 「一課とかに返す」 「それなら楽じゃないですか」  すると紫谷は露骨に嫌そうな顔をした。 「全然」 「え?」 「怪異関係ないって立証するまでは九十九課の管轄だから」  面倒そうに頭を掻く。 「そっちの方が疲れるじゃん。犯人駆除して終わりの方が頭使わなくて済むし」  柏城は思わず足を止めそうになった。  駆除。  犯人逮捕ではない。  犯人確保でもない。  まるで害虫の話だった。  紫谷は前を向いたまま言う。 「靴とか鞄とか、ちゃんと覚えといた方がいいよ」 「……」 「怖いものばっか見てると見落とすから」  柏城は返事をしなかった。  鏡のこと。  遠回りのこと。  被害者のこと。  頭の中で、ばらばらのまま転がっている。  数分前の自分が、鏡のことばかり考えていたのは事実だった。  柏城は釈然としないまま紫谷の背中を追う。  第一展示室。  第二展示室。  肖像画が並んでいる。  どれも上手い。なのに。  すまし顔と言うべきか。  笑わぬ無数の顔の不気味さに嫌気が差す。  どれも妙に目が合うのが、一層気味悪く感じた。  第三展示室へ入る。  そこで紫谷が足を止める。  ぴたりと。  まるで壁へぶつかったように。

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