志乃創 / 第6話

第6話 喝采

 先ほどまで寒かったはずなのに。  第三展示室はどこか暖かかった。  暖房の風ではない。  人肌に近い湿気が、頬を撫でる。  乾ききらない油彩の匂いも、不快ではなかった。  懐かしい気がした。  どこで嗅いだのかは分からない。  けれど、知っている。 「思っていたより、いいですね」  柏城は自画像を見上げた。 「何が?」 「美術館です」  紫谷がこちらを見る。 「さっき、気持ち悪いって言ってなかった?」 「言いましたか」 「言ったよ。外で」 「外壁の絵の具の話でしょう」 「建物も」  柏城は少し考えた。  そうだっただろうか。  雨に濡れた洋館は綺麗だった。  最初から、そう思っていた気がする。 「警戒していただけです」 「今は?」 「少なくとも、外にいた時ほどでは」  柏城は壁に並ぶ肖像画へ目を向けた。 「……思ったより、見やすいですね」    照明は暗い。  窓も少ない。  それでも、絵の輪郭だけは妙にはっきりと見えた。  どの顔も穏やかだった。  黙ってこちらを迎え入れているように見える。  沢山の人がいる。  静かなのに、一人ではない。  いつの間にか、肩に入っていた力が抜けていた。  靴音だけが展示室の奥へ続く。  一歩進むたび、油彩の匂いが濃くなった。  乾ききらない油と、湿った布。  先ほどまでは不快だったはずの匂いが、いつの間にか懐かしいものに思える。  肺の奥まで満たせば、もっと、楽になれる気がした。  柏城は深く息を吸う。  紫谷は黙ったまま絵を見ていた。  やがて、ぽつりと呟く。 「……なるほど。熱烈な視線だねぇ、穴が開いちゃうよ」  その声は、柏城が初めて聞く声だった。  眠そうでもない。気怠くもない。 「あの、どうかしましたか」  紫谷は絵から目を離さない。  そして、小さく笑った。 「いや?……随分でかい自画像だと思って」  柏城は眉をひそめた。 「確かに俺も大きいなとは思いましたけど。それが何か?」  柏城は額縁の下に付いたプレートを見る。  ――久留須玄一 自画像。  柏城は額縁を見上げた。  この美術館の創設者。  地方では有名な画家だ。  死後数十年経っている。  全てここに来る前に見た資料で書かれていた。間違いはない。  当然、生きているはずもない。 「そのままの意味」 「訳が分かりません。説明する気ありますか」  まあまあ、と紫谷は絵から目を離さない。 「普通、自画像って本人を描くじゃん?」 「当り前じゃないですか。自画像なんだから」 「あのねー、怪異になるやつってさ」  紫谷は口元を歪めた。 「大体、自分大好きなんだよね」  柏城には意味が分からない。 「は?」 「人間辞めるやつって、基本執着があるから」  その時だった。  後ろから声がした。 「失礼ですが」  二人が振り返る。  四十代ほどの男性だった。  スーツ姿。  痩せている。  神経質そうな顔。  名札には館長と書かれていた。 「警察の方ですよね」  香月との話は終わったらしい。 「館長さん?」  紫谷が軽く手を上げる。 「どうも」  館長は困ったように頭を下げた。 「申し訳ありません。来館者もいますので、あまり展示物には触れないでいただけると……」 「あー、素敵な絵だと思って。気を付けまーす」  紫谷は悪びれずに言った。  その声に、少しも感動はなかった。 「ねえ、館長さん」 「は、はい」 「最近、動いた?」  館長の顔色が変わった。 「何を……」 「絵」  紫谷は自画像を見上げる。 「動いた?」  館長の唇が震えた。 「先生は、偉大な方でした」  展示室が静まる。  質問の答えではなかった。  館長は続ける。 「海外でも評価され、今なお多くの方が先生の作品を――」  そこで言葉が切れた。  館長は自分の口元へ手を当てる。 「……失礼しました」  まるで、今まで誰が喋っていたのか分からないような顔だった。 「位置が、変わることはあります」  紫谷は何も言わない。  柏城が手帳を開いた。 「失踪者について確認します。最初の方のお名前は」 「大学生の女性です」 「名前です」 「若い女性でした。二十歳くらいの」 「氏名をお願いします」  館長は口を開く。  声は出なかった。  何度か唇だけを動かし、やがて小さく首を振る。 「資料を見れば、答えられると思います」  柏城は訝しげに館長を見た。 「最初に失踪したのは、いつですか」 「半年前です」  柏城の手が止まった。 「半年前?」 「はい」 「一課から移管された四件は、二週間以内です」  館長が瞬きをする。 「……二週間」 「半年前にも失踪があったんですか」 「私が、そう言いましたか?」  館長は穏やかに笑った。 「そのような記録はありません」 「ですが、今」 「先生は偉大な方でした」  また同じ言葉。  今度は、館長自身も気づかなかった。 「んで、監視カメラは」  紫谷が自画像を見上げたまま尋ねた。 「……映っています」  館長は答えた。 「ここへ入るところまでは」 「出るところは?」  館長は首を振った。 「映っていません」  出口は一つ。  窓は閉まっている。人が隠れられる場所もない。  それなのに、入った人間だけが消える。 「四人ともです」  館長はぽつりと付け加えた。 「皆さん、最後にこの展示室へ入って、この自画像の前で足を止めています」  柏城は顔を上げる。  館長は絵を見ていた。  こちらへ説明しているというより、自分に言い聞かせるような声音だった。 「しばらく、先生の絵を眺めていました。それから――」 「それから?」  紫谷が促す。  館長の喉が動いた。 「……いなくなります」 「いなくなる瞬間は?」 「映っていません」 「カメラ止まった?」 「いいえ。映像は続いています」 「じゃあ、目を離した隙に消えたとか」 「そういうことではありません」  館長はゆっくりと首を振る。 「画面の中には、確かに立っているんです。この絵の前に」  白くなった唇が、僅かに震えた。 「次の瞬間には、もういない」  柏城は手帳へ視線を落とした。  捜査一課から回された資料を思い出す。  入館記録。出口に映らない失踪者。閉館後の館内捜索。  だが、四人全員が同じ自画像の前まで来ていたという記載はなかった。 「……それ、一課の資料にはありませんでしたよね」  館長の瞬きが止まった。 「四人ともこの絵の前にいたって、どうして先に言わなかったんですか?」  雨音が遠い。  古い建物の内側で、木材が湿気を吸って小さく軋んだ。  館長は困ったように眉を下げる。 「言っていませんでしたか」 「ありません」 「ですが、警察の方には映像を全てお渡ししています」 「映像にあるかどうかではなく、共通点として報告したかを聞いています」  柏城の声が少し硬くなる。 「四人とも、同じ場所で最後に確認されている。失踪に関係する情報です」 「関係……」  館長は呟いた。  初めて聞いた言葉のようだった。 「皆さん、美術館へ絵を見に来られたんです」 「はい」 「絵の前で足を止めるのは、当然でしょう」  館長は笑った。  穏やかな、客へ説明する時の笑顔だった。 「先生の自画像ですから」  また、答えになっていない。  柏城は眉を寄せた。 「でも、他の絵ではなく、全員がこれを最後に見ているんですよね」 「ええ」 「それを不自然だと思わなかったんですか」  館長は一度、自画像を見上げる。  恐れているようにも。  許しを求めているようにも見えた。 「先生は」  館長の口が動いた。 「偉大な方でした」  柏城は黙る。  館長自身も、何を答えたのか分かっていないらしい。  数秒してから、彼は小さく目を瞬いた。 「……失礼しました。何のお話でしたか」  首筋を冷たいものが伝った。  紫谷は何も言わない。  ただ自画像を見上げている。  その顔には、先ほどまでの気怠い笑みが残っていた。 「じゃ、映像見せてよ。館長さん」 「ええ、こちらへ」  館長は小さく頷いた。  歩き出す。  館長の背中を見ていると、横から声がした。 「意外」  紫谷がぼそりと言った。 「何がですか」 「もっと脳筋だと思ってた」  柏城は足を止めた。 「は?」 「だって機動隊でしょ」 「偏見ですよ、それ」 「ごめんごめん」  全然悪いと思っていない声だった。 「でも館長の方気にしてたじゃん」  紫谷は前を歩く館長を見ながら言う。  柏城は少し考えた。 「……何か、隠してる気はします」 「だろうね。俺は絵見てたから気付かなかったけど」  あっさり頷く。 「とりあえず人間担当、よろしくね」 「勝手に決めないでください」  紫谷は楽しそうに笑った。  監視室は展示棟の奥にあった。  古いモニターが何台も並んでいる。  館長が映像を再生した。  最初の失踪者である若い女性が、第三展示室へ入る。  巨大な自画像の前で立ち止まった。  数秒して、両手を胸の前へ上げる。  ぱち。  ぱち。  ぱち。  音はしなかった。  女性は笑っている。  心の底から満たされたように。  誰かの演説を聞いている観客のように、何度も拍手を続けていた。  やがて映像が乱れる。  ノイズ。  画面が戻った時には、もう誰もいなかった。  館長が次の映像へ切り替える。  二人目。三人目。四人目。  全員同じだった。  絵の前で立ち止まり。笑って、拍手をする。  そして、消える。  監視室に沈黙が落ちた。 「んん、収穫無しかなあ」  紫谷が椅子にもたれた。  柏城は返事をしなかった。  モニターを見つめている。 「……あの、待ってください」  柏城が声を上げた。 「どしたの?」 「全員が拍手しているのって、おかしくないんですか」 「……拍手?」 「え?」  柏城は紫谷を見る。 「見えませんか?」 「何が」 「だから、拍手です」  画面を指差す。  紫谷は映像を見た。  目を細め、再生される女性の姿を追う。 「いや……立ってるだけだけど」  柏城は固まった。 「だって」  画面の中で、女性は今も手を叩いている。 「入って、立って、ノイズ。それだけでしょ」 「拍手してますって」 「……」  紫谷はもう一度モニターを見る。  それから、顔を顰めた。 「お前、何が見えてんの?」 「何って、被害者が拍手を……」 「や、俺には見えない」  柏城は言葉を失った。 「あ、あの。館長さん」 「はい」 「あなたには、どう見えてます?」  館長は怪訝そうに画面を見た。 「感動して、拍手をしているように見えますが」 「へえ」  紫谷が目を細める。 「じゃあ、俺だけか」  軽い口調だった。  だが、視線は映像から外れない。 「先生は偉大な方でした。感動で拍手をするのは当然かと」 「いえ、そうではなくて」  柏城は映像を戻した。  もう一度。  次の映像も確認する。  柏城の指が止まった。 「……見てない」 「何を?」 「絵です」  自画像へ顔を向けた直後には、もう手を叩いている。 「感動する暇がない」  全員同じだった。 「最初から、拍手をしに来たみたいです」 「あぁ、なるほど」  紫谷が小さく声を漏らした。 「分かったんですか?」 「ちょっとね」  紫谷はモニターへ顔を寄せた。 「拍手って、感動した時だけじゃないでしょ」 「どういう意味です」 「んー」  爪先で、こん、と画面を叩く。 「絵を褒めてるっていうより、返事してるみたい」  柏城はモニターを見る。  女性は立ったまま、両手だけを、静かに重ねた。  満たされた顔で笑っている。  何一つ不安などないように。  失うものなど、初めから無いように。 「……羨ましいくらいですね」  言葉が口から落ちた。 「何が?」  紫谷が聞く。  柏城はすぐには答えられなかった。 「いえ」  女性の顔が、ゆっくりとこちらへ向いた。  録画された映像だ。  こちらを見るはずはない。  それでも、目が合った。  唇が動く。  おいで。  そう見えた。  柏城は画面へ近づく。  もう少し近くで見れば、何を言っているのか分かる気がした。  指先がモニターへ伸びる。  その手首を、横から掴まれた。 「近い近い」  紫谷が明るく笑う。 「テレビは離れて見ましょーね」 「子供じゃありません」 「知ってる」  引き戻される。  紫谷の指は、笑い方に似合わないほど強く手首へ食い込んでいた。  柏城はわずかに眉を寄せる。 「痛いです」 「あ、ごめん」  紫谷は手を離した。  けれど、柏城とモニターの間へ入ったまま動かない。 「それで」  紫谷は画面を振り返る。 「何が羨ましかったの?」  柏城は口を開く。  答えは出なかった。  羨ましい。  確かにそう思ったはずなのに。  何を羨んだのか、自分でも分からない。 「……言葉の綾です、」 「ふうん」  紫谷はそれ以上聞かなかった。  もう一度、映像を最初から再生する。  女性が入る。  立ち止まる。  笑う。  柏城には拍手が見える。  紫谷には見えない。 「んー、でも」  映像が最後まで終わる。 「食ってるようには思えないな」 「どうしてですか」 「怪異にも性格があるわけ」  停止した画面。  自画像の前に立つ大学生。 「食うやつは、食った痕跡を残す。殺すやつは、殺した痕跡を残す」  紫谷は画面を指差した。 「でも、こいつは違う」  柏城は黙る。  血も争った跡もない。悲鳴もない。  どこかへ招かれたように消えている。 「綺麗すぎる」  確かに、今まで見てきた現場と比べて一番といえるほど綺麗だった。  ヴヴ、と紫谷のスマートフォンが震えた。  ちらりと画面を見る。 「はあい。もしもーし」  館長と柏城の前にも関わらず、紫谷は普段通りの声で出た。

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