志乃創 / 第4話

第4話 兆し

「いいんですか」 「何が」 「課長一人で」  紫谷は、香月の消えた玄関を見る。 「香月さん? 平気。たぶん俺より強いし」 「いや、そういう話ではなくて――」  紫谷はもう歩き出していた。  傘も差さず、近所でも散歩するように。 「ちょっと、傘は」  柏城は慌てて追いかける。 「いらない」 「風邪ひきますよ」 「半妖だし平気~」  意味が分からない。  分かった試しは無いが。 「それで風邪ひかない理屈になるんですか」 「なる」 「ならないでしょう」 「なったから今仕事してる~」 「そんなの根拠とは言いません」  返事はくれず玄関から離れて行く。 「何してるんです?」 「現場確認」 「まだ中入ってないですよ」 「だから、」  ようやく足を止めて振り返る。 「中見る前に、外なの」  柏城は黙る。  紫谷が玄関を顎で示した。 「見て」  そう言われて目を凝らす。相変わらず美術館にしか見えない。 「何がです」 「歓迎されてないじゃん?」 「はあ、」  この人はまた何を。  紫谷は入口脇の案内板を指差す。  開館中。  そう書かれている。  受付の明かりは見えない。  人影もない。 「普通こういう場所ってのはさ、昼間はちゃんと起きてるはずなんだよ。客を呼ぶから」 「建物が、ですか?」 「他に誰がいるの」  柏城は黙る。  聞いた自分が悪かった。  紫谷は歩きながら話す。 「怪異事件は、現場だけ見ても分かんないんだよね」 「そういうものですか」 「犯人がいても、まだ被害者がいなかったりするし」 「それでは事件にならないでしょう」 「人間相手ならね」  柏城は眉をひそめた。  相変わらず説明になっていない。    紫谷の足取りは緩い。  それでも窓を通るたび顔が上がり、雨樋の切れ目や泥の跳ね方まで視線が移っていく。  柏城が追いつく頃には、紫谷はもう次の窓を見ていた。  不意に紫谷の視線が止まる。 「どうかしたんですか」  紫谷が立ち止まった。  視線の先は二階だった。  明かりのない部屋の窓際に、額縁が一つ立てかけられている。  カーテンが、内側へ膨らんだ。  風はない。  その白い布の奥を、人の形が横切る。  反射的に目を凝らす。  人などいない。空の展示室だった。 「……今、」  柏城が呟く。 「うん、いたね」  あまりにも自然だった。 「誰です、あれ」 「知る訳ないじゃん?」  紫谷はポケットから煙草を取り出しかけて。  柏城の視線に気付いてやめた。 「まあでも」  小さく欠伸をする。 「さっきのは怪異なんじゃないかな」 「それは、どうして」 「人間ならさ」  紫谷は窓を見上げた。 「わざわざ現場で隠れるなんてしないよね」  柏城は再び二階を見る。  変わらない。  それなのに。  見られている気がした。  沢山の視線が下から縋る。  ごめんなさい、そんな目で、見ないで。  誰に向けたものだったのかを思い出す前に、紫谷の背中が視界を横切った。  紫谷は正面入口を離れ、フェンス沿いに建物の脇へ回る。 「どこ行くんです」 「ん?裏」 「館長に許可取らなくていいんですか」  紫谷は振り返る。  心底不思議そうな顔だった。 「不法侵入ですよね、それ」 「まだ入ってないじゃん」 「時間の問題でしょう」 「……怪異ってさ、許可取ってから人喰うんだと思う?」  笑っていた口元が、わずかに下がる。 「もう四人じゃないよ」  その言葉で舌の奥に苦みが上がる。喉が痛い。  助けられなかった人間の数を、嫌というほど知っている。  その先の、最悪な結末も。 「ぼーっとしてると置いてくよ~?」  気怠げな声が飛ぶ。 「あ、」  どく、と自身の心音が耳についた。  そういう意味じゃない。分かっている。  思考を振り落とすように急いで後を追う。  紫谷はそのまま美術館の脇を通り過ぎる。  搬入口も素通りした。 「入らないんですか、」 「まだ」 「まだ?」 「今のだけじゃ証拠になんないし。たまたま誰かいた可能性だってある」  当然のように言う。 「でも怪異だって」 「怪異だと思うよ」  紫谷は肩を竦めた。 「でも、思うと証明するは別なの」 「二人とも見ましたよ」 「だから?」  紫谷は首を傾げた。 「二人で同じ間違いをすることもある」 「目撃証言は信用しないんですか」 「するよ、捜査中も参考にする」  紫谷は前を向いたまま答えた。 「一番最後に、だけど」  石畳は搬入口の先で途切れた。  地面に沈んだ靴跡の縁へ、雨水が溜まっている。  紫谷は足跡を踏まず、その間へ靴を置いて進んだ。  やがて二階の展示室の真下で止まる。  何も言わない。  その沈黙に耐えきれず、柏城が口を開く。 「今度は、建物と会話でもしてるんですか」 「それはもう俺が化け物みたいじゃん」  紫谷は視線を動かさない。 「柏城、壁見て」 「窓ではなく?」  柏城は言われるまま近付いた。  最初は分からなかった。  ただの石壁に見える。    あと一歩。  さらに半歩。  そこで気付く。何かが付いている。  黒い染み。いや――。  絵の具だった。  雨に濡れてなお壁へ張り付いている。  赤。  青。  黄。  黒。  色が壁を這っていた。  誰かが絵の具を叩きつけたみたいに。 「何ですか、これ」  紫谷がしゃがみ、指先へわずかに取った。  親指と擦り合わせ、爪の表面に残った艶を見る。 「油彩」 「見た目通り、絵の具ですか?」 「うん」  紫谷は顔をしかめた。  汚れだと思った。  だが違う。近くで見るほど形が気持ち悪い。  石壁の隙間に入り込み、枝分かれしながら広がっている。  植物の根。  血管。  なぜか血を連想した。  色は全く違う。形も違う。なのに嫌だった。  染みの先端が妙に揃っている。  全部が二階の窓へ向かっていた。下から、上へ。  ぞわり、と首筋が粟立つ。 「……これ」  柏城は思わず後ずさる。  紫谷は二階の窓を見ていた。 「気持ち悪い、ですね」  思わず呟く。  紫谷は満足そうに頷いた。 「そーだよ。そこ大事」 「え?」  柏城は眉をひそめた。  紫谷は壁の染みを指先でなぞる。 「理由の前に、体が嫌がったやつ」  紫谷は立ち上がり、濡れた指をハンカチで拭った。 「説明がつく頃には、だいたい近づきすぎてるからね」  柏城はもう一度壁を見る。  黒い染みは相変わらず窓へ向かって伸びている。  一歩下がる。  靴底が泥へ沈んだ。 「……ほら、」  不意に紫谷が笑う。 「そういう顔してる」 「どんな顔ですか」 「帰りたい顔」 「してません」 「あ、そ?俺は帰りたいよ」  柏城は反論しようとして、勢いよく顔を上げる。  違和感があった。  二階の窓。  何かがおかしい。  一拍遅れて気が付いた。  窓の内側に、人が立っている。  顔は暗がりに沈み、服の輪郭も見えない。  ただ片手だけがガラスへ触れ、五本の指を外へ向けて開いていた。

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