志乃創 / 第46話

第39話 同じ夜の隣で

 中庭の夜気が濡れていない髪の根元まで入り込んだ。  携帯の向こうで何かを置く音がする。  旅館の灯りが硝子越しに滲む。  耳元の声は、近かった。 「明忠、俺ご飯食べたよ」 『ちゃんと?』 「はるくんが見てた」 『じゃ、持ってきたの冷凍庫におくか』 「俺の自己申告より信用あるんだ……」 『そりゃまあ、あるよな』 「ひど」  鹿威しの竹筒が、風に押されて少しだけ動いた。  石までは届かず、また元の位置へ戻る。 『詩音君から泊まりになったって聞いたけど』 「あの人そういう報告だけ早いよなあ」 『お前が連絡返さなかったからだろ』 「仕事してたんだもん」 『今も?』 「今はサボってる」 『風呂行く途中じゃなかったっけ』 「明忠が電話してくるから」 『俺のせいにすんなよ』 「だって切る?って言った」 『切らないって言ったのお前だろ』 「それもそっか」  言ってから、紫谷は膝の間へタオルを挟んだ。  電話の向こうで何かを置く音がした。  明忠も、それ以上は拾わなかった。 『何かあった?』 「んー、仕事」 『それは知ってる』 「死人見たよ」 『いつもだろ』 「うん」  庭を囲む客室のひとつで、障子へ人影が横切った。  紫谷はその影が消えるまで見ていた。 『緋毬』 「なに」 『何が嫌なんだよ』 「別に嫌なことないよ」  返すのは早かった。 「仕事も、嫌いじゃないし。よく分かんない」  靴の先で白い小石を押す。  土へ半分だけ沈み、離せばそこに残った。 「今日さあ」 『うん』 「ちゃんと良くなってたんだよね」  明忠は聞かなかった。  誰が。何が。  どうして。  次を待つ時だけ、電話の向こうはやけに静かになる。 「寝れるようになって、仕事も行けて。ずっと嫌だった人のことも、嫌じゃなくなって」 『うん』 「それで死んでんの」  紫谷は笑った。 「意味わかんなくない?」 『狂ってんなあ』 「でしょ」  小石をもう一度押した。  今度は爪先から逃げ、隣の石へ当たった。 「……ね、帰りたい」 『あー、うん』 「はるくんもいるし、田中くんも柏城もいるよ。別に一人じゃないんだけど」 『知ってる。別にそのまま帰れば?』 「帰れないから言ってんじゃん」 『じゃあしばらく言っとけ』  笑うつもりだった息が、鼻から抜けた。 「何それ」 『帰りたいって言ってれば?俺に』  紫谷は携帯を持ち直した。  頬へ当たっていた端が生温い。 「明忠、今日何時に寝んの」 『えー、お前の仕事終わったら……?』 「いや寝なよ」 『どっちだよ。機嫌取らせておいて』  紫谷は笑った。  今度の笑いは、喉に引っかからなかった。 『もう風呂入れよ。冷えてるだろ』 「なんで分かんの」 『外いる声してる』 「声で外って分かる?」 『お前の場合はね』 「え、気持ち悪」 『切るからな?』  立ち上がって、尻についた砂を払う。 『ほら、さっさと行けよ』 「ちぇ、わかったよう」 「明忠、起きててね」 『はいはい』 「ほんと?」 『ほんと』 「ん、またね」 『おー』  通話が切れた。  耳から離した画面に、自分の顔が薄く残っている。  紫谷は、今度こそ右へ曲がった。  戻った時には、低い机から夕食の容器が消えていた。  濡れた髪の先から一滴落ち、猫屋敷が自分の端末を少し遠ざける。 「緋毬さん」 「入ったよ、お風呂」 「そこじゃないです」  紫谷は首へ掛けていたタオルで頭を拭いた。 「寄り道もしたけど」 「でしょうね」 「間に合ったからセーフでしょ?」 「知りませんよ」  追及はそれで終わった。  田中の前にはコメント保存用の端末。  猫屋敷の手元には、過去のアーカイブが二本開かれている。  壁際の唐傘は半分だけ開き、蛇の目を机へ向けていた。  柏城の前だけ、まだ白い紙が一枚残っている。  紫谷がその隣へ腰を下ろした。 「今日はこっちから書かないでね」 「見るだけですか」  田中が訊く。 「うん。条件増やしたくないし。非公開も、コメントも、投げ銭もなし」 『見るだけで仕事になるのか』 「今日はなるでしょ」  唐傘の蛇の目が細くなる。 『便利な仕事だな』 「傘に言われたくないなあ」 「紫谷さん、録画始めますよ」 「ん、お願い」  待機画面が消えた。 『こんばんは』  尾峰真子が映る。  薄く化粧をして、白いカーディガンを羽織っている。  背後の棚には、テレビで見た箱と封筒。  画面の外から手を伸ばし、何かの位置を直してから座り直した。 『今日もお疲れさまでした』  下からコメントが流れ始める。  躰が、少しばかり重くなった。  柏城は姿勢を直す。  椅子は変わっていない。 《こんばんは》 《今日も来たよ》 《真子様おつかれ》 《仕事終わらなくて泣く》 《村寒い?》  同時に見ている人数は、すぐに二百を越えた。  田中が数字だけを一度見て、コメント欄へ戻る。  真子は村のスーパーで新しい菓子を見つけた話をした。  袋を持ってくるのを忘れ、立ち上がりかけて、 『あ、もう食べたんだった』  と自分で笑った。  コメント欄も笑う文字で流れた。  柏城はペンを動かさなかった。  白布の下にいた人間が見ていたのも、こういう配信だった。  朝の部屋にあったものを、柏城は画面の中から一つも拾えなかった。 《今日上司にめちゃくちゃ怒られた》  真子が読んだ。 『何かやらかした?』 《別に 機嫌悪かっただけ》 『それ一番嫌だね』 《名前晒していい?》 『駄目だよ』  真子は笑ったまま、首を振った。 『その人を悪い人にしなくても、嫌だったって話はできるから。名前は書かないでね』 《はーい》 『えらいね』  画面の横で、猫屋敷の指が一度止まる。  紫谷は何も言わない。 《もう会社行きたくない》 『今日はそう思ってていいよ』  真子の声は変わらなかった。 『明日のこと、今日決めなくてもいいんだから』 《置いてっていい?》 『うん』  真子が少し画面へ近づく。 『ここに置いていって』  柏城のペン先が紙へ触れた。  何も書かなかった。  そのあとも、配信は普通に続いた。  近所の猫が最近太ったこと。  村の老人に野菜を大量に渡され、冷蔵庫が埋まったこと。  視聴者が勧める映画。  途中で一度、真子の目が画面の下へ落ちた。  コメントは流れ続けている。  真子はしばらく読んでいたものを止めたまま、 『うん、読んだよ』  と言った。  公開欄には、それに当たる文章がない。  田中が手元の記録へ印を入れる。  真子はもう一度、画面の下を見る。 『青空さん、しんどかったね』 『今日はもう、ここに置いていっていいよ』  その直後に、青空という名前でコメントが一つ流れた。 《ありがとう》 「今の」  紫谷が小さく言う。 「公開には内容出てないですね」  田中の声も落ちる。 「非公開の可能性はあります。ただ、向こうの通知までは見えないです」 「順番だけ残して」 「緋毬さん」  猫屋敷の画面に、別の日の真子が出る。  画面の下へ落ちる目。  少し置いて、同じ言葉。  指が次へ飛ぶ。もう一度。 「毎回?」 「まだ全部は。でも、相談っぽいところ優先したら出てきます」 「通知見てるように見えるね」 「ように、ですね」  田中が言った。 「端末もう一台あるかまでは、この画角じゃ分かんないです」  紫谷は猫屋敷の端末を戻した。 「俺達はこっち続けよ」  真子はもう別のコメントを読んでいた。  同じ目の落ち方を、もう偶然とは思えなかった。 《家族と喧嘩した》 《言っちゃ駄目なこと言った》 《もう顔も見たくない》 『そっか』  真子が頷く。 『今すぐ仲直りしなくてもいいんじゃないかな』 《嫌いって思ってもいい?》 『思うだけなら誰も傷つかないよ』  画面の下へ目が落ちる。 『嫌だったことは、ここへ置いていって』  柏城は画面の下端を見た。  真子の机は途中で切れている。  何もない。  朝の部屋にも、何もなかった場所があった。  金網の前。  水へ届かなかった傷が、何度も通っていた。 「……餌皿」 「え?」  田中が顔を上げた。  柏城は画面を指した。 「そこです」 「どこ?」  紫谷も見る。 「何もないところ」  真子の手元。  机の手前。  田中は画面を見たあと、柏城を見る。 「何か見えてるんですか?」 「いえ、何も」  柏城は首を振った。  床を思い出す。  金網の前。  そこから水場へ伸び、また戻っていた傷。 「でも、あそこにも同じものがあった気がします」  紫谷はすぐには返さなかった。 「……じゃ、それで残して」  田中のペンが動く。  《柏城所感》  その下へ書いたものを、紫谷は覗かなかった。 「今の発話も印つけといて」 「もう入ってます」 「ありがと」  唐傘は口を挟まなかった。  蛇の目だけが、真子の机の手前を見ていた。  田中の照会画面は増えなかった。  猫屋敷が追っている視聴者の方では、風呂だの明日の仕事だのが流れている。 《風呂入ってくる》 《明日早いから寝るね》 《今日もありがと》  流れては消える。  真子は一つずつ拾ったり、拾わなかったりした。  途中で水を飲み、咳払いをして、 『喋りすぎた』  と笑う。  田中が画面の端に置かれたグラスを一度見た。  すぐにコメントへ戻った。  終わりが近くなると、コメントの流れが速くなった。 《もう終わり?》 《明日もやる?》 《今日も楽になった》 《おやすみ》 『明日はどうしようかな。できたらやります』  真子が両手を小さく振る。 『今日嫌だったこと、明日まで持ってなくていいからね』  笑った。 『おやすみなさい』  画面が暗くなった。  柏城の肩から、何かが落ちた。  息を吐いてから、それに気づく。 「……消えました」 「何が?」 「さっきの」 「あー、餌皿のこと?」  田中のペンが止まる。 「配信が終わったらですか」 「はい」  猫屋敷が、止めていたアーカイブの再生ボタンへ指を置く。  押さないまま、その指だけが残った。  真子の部屋が消えた黒い画面に、四人と一本の部屋が薄く映っていた。

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