志乃創 / 第48話

第40話 幸福な村

 黒い画面から先に、夜が消えた。  障子は白み、昨夜の四人と一本は布団の皺と寝癖の中に散らばっている。  襖の向こうで、食器の触れ合う音がした。 「朝食、お持ちしました」  返事をするより先に田中が立った。  布団を避けて二歩。  昨夜どこから転がったのか分からない枕を端へ寄せて、襖を開ける。 「ありがとうございます」  盆が四つ。  女将らしい女性が一つずつ低い机へ置いていくたび、部屋に味噌汁の湯気が増えた。  焼いた鯵。  だし巻き。  青菜のおひたし。  小さな冷奴。  海苔と、白飯。 『四つしかないぞ』  窓際から唐傘が言った。  女将の手が止まる。 「あら、」 『俺も泊まっただろ』 「唐傘さん、もう」  田中が笑いを堪えきれず、鼻から息を漏らした。 「宿泊名簿書いてないでしょう」 『書く手がないからな』 「じゃあ諦めてくださいよ」 「お味噌汁くらいなら、もう一つお持ちしましょうか?」 『ほら』 「ああ、真に受けなくて大丈夫ですから」  田中がとうとう笑った。  女将もつられて笑い、空いた盆を胸へ抱える。 「賑やかですねえ」 「すみません、朝から」 『俺は悪くない』 「唐傘さんが一番喋ってるんですよ」  襖が閉まっても、田中の肩はまだ少し揺れていた。  布団から上半身だけ起こしていた紫谷が、髪を押さえる。 「朝から元気だね~」 「紫谷さんが寝起き悪すぎるんですよ」 「起きてるじゃん」 「身体だけですけどね」 「失礼な」  猫屋敷はもう布団を畳んでいる。  紫谷の枕を拾い上げ、そのまま本人の膝へ落とした。 「緋毬さん、顔洗ってきたらどうです?」 「昨日お風呂入ったよ」 「昨日の話してないです」 「彼氏くん厳し~」  柏城が味噌汁の蓋を取った。  昨夜と同じ部屋なのに、机だけが朝のものになっていた。  昨夜は端末が四台並んでいた机だった。  朝になれば、白飯と焼き魚に占領されている。  猫屋敷が布団を押入れへ詰め、田中が唐傘を退かし、紫谷はまだ枕を膝に置いている。  同じ部屋なのに、黒い画面だけがなかった。 「柏城さん、米いります?」  田中が飯櫃を持ち上げた。 「いただきます」 「多め?」 「普通で」 『猛虎は多め』 「自分でやりますから」 『昨日昼残したからな』 「朝から告げ口しないでもらえます?」  猫屋敷が田中を見る。 「残した?」 「時間なかったんだって」 「ちゃんと食えよ」 「今からね」  田中は笑いながら自分の茶碗へ飯を盛った。  紫谷がその横から飯櫃を覗いた。 「俺ちょっとでいいかな」 「緋毬さん」 「……朝から入んないもん」 「はあ、分かりましたよ」  猫屋敷がご飯をよそう。  柏城は鯵の骨を外した。  窓の外には、昨日と同じ村がある。  向かいの家で洗濯物が揺れ、道を自転車の学生が通った。  どこかで軽トラックのエンジンがかかる。  誰かがペットを呼ぶ声もした。  昨日一人が死んだことを、誰も知らないみたいだった。  味噌汁が半分ほどなくなったころ、田中が箸を置いた。 「今日の聞き取りなんですけど」  唐傘の蛇の目が田中へ向く。  田中は膳の脇に置いていた手帳を取らなかった。 「相談内容、最初から聞かない方がいいですよね」  紫谷が魚の身を取る。 「理由は?」 「せっかく尾峰さんに置いてきたって思ってるのに、俺らがまた持ってこさせるのもなって」  だし巻きを一口。 「必要になったら聞けばいいですし。今知りたいの、中身じゃないですし」  紫谷の箸が止まった。  ほんの少しだけ。 「じゃあ何聞く?」 「どうやって相談になって、どこで置いたと思ったか、とか……?」  田中が味噌汁へ戻った。 「そこなら、嫌だったこと自体は話さなくて済みますし」 『頭いいな、猛虎』 「どうも」 『たまにはだけどな』 「後半いらなくない?」  猫屋敷が吹き出した。  柏城も少しだけ口元を緩める。  障子の向こうでは朝が淡くほどけていた。  机の上には聞き取り用の紙。  その向こうの湯気のせいか。端末も唐傘の蛇の目も、輪郭だけが柔い。 「良いと思う。うん、それでいこっか」  紫谷が箸を置く。 「柏城は田中くんと一緒に行って」 「分かりました」 『俺も行くぞ』 「唐傘さんは元々俺と一緒ですよ」 『それは先に言え』 「はいはい、相棒」  田中が唐傘を寄せると、蛇の目の中へ陽が細く差した。 「ハルくんは昨日のオンライン側、同じ形で拾える?」 「やってみます」  窓の外を、軽トラックが一台通った。  運転席から宿の方へ手が上がる。  朝食を運んできた女将が、庭先から同じように振り返した。  一人目の家には、大根が干してあった。  玄関の軒下に五本。  白い根がお天道様に晒され、葉先だけが風に揺れている。 「警察って聞いたから、何事かと思ったわ」  女性は玄関先へ座布団まで出そうとした。 「いやいや、そこまでしなくて大丈夫ですから」  田中が両手を振って断る。 「ほんとに確認だけなので」 「だって寒いでしょう?」 「僕ら外歩く仕事なんで慣れてますよ」 『そうそう、俺も寒くないぞ』 「唐傘さんには聞いてないです」 「あら、喋るのね」 『だはは!よく言われるな、それ』 「勝手に会話始めないでくださいよ……」  女性が声を上げて笑った。  柏城はその横で、干し大根の下に置かれた泥のついた長靴を見ていた。  昨夜の配信にも、この村の野菜の話が出ていた。 「真子ちゃんに話したことならありますよ」  女性は玄関框へ腰を掛けた。 「昔からね。あのお家、そういうところだったから」 「そういうところ?」 「嫌なことがあったら行くのよ」  田中は手帳を膝へ置いた。  まだ開かない。 「行ったら、最初に何をするんです?」 「なにって」 「真子さんから聞いてくれるとか、自分から話すとか」  女性は膝の上で指を組み替えた。  軒下の大根が風に触れて、葉先だけが乾いた音を立てる。 「ああ、自分からよ。黙って座ってても分からないでしょう」 「ええ、確かに」 「それで、話したあとはどうですか?」 「聞いてもらって」 「はい」  女性の目が、玄関の奥へ一度だけ向いた。 「預かってもらって」  そこで初めて、田中の手が手帳へ行った。  ページを開く音は小さかった。 「預かってもらう、って言うんですね」 「そうねえ」  女性は葉を一枚摘まんだ。 「そのあとは?」 「水飲んで帰るわよ」  大根の葉が、ぱり、と折れる。 「水?」 「そう」 「お茶じゃなくて?」 「お茶は話してる時に飲むでしょう」  女性が笑う。 「最後は水」 「へえ」  田中も笑った。  大きく反応しない。 「飲んで、帰るんですか?」 「そうよ。それで終わり」  女性は当然みたいに頷いた。 「それ以上は話すことないもの」  軒下で、干した大根が一本だけ隣へぶつかった。  二軒目は商店だった。  入口のガラス戸に、手書きの《焼き芋あります》が貼られている。  田中が戸を開けると、柏城は一歩遅れて中へ入った。  足元の蜜柑箱を避けて、レジ脇へ寄る。 「水?飲んだ飲んだ」  店主はレジの中で新聞を畳んだ。 「最後に一杯な」 「やっぱ最後なんですね」  田中が言う。 「そうだよ。話して、水飲んで、はい終わり」  柏城の目が上がった。 「その水は、自分で飲むんですか」 「いや。向こうが出してくれるよ」 「毎回ですか?」 「ああ」  柏城はそれ以上訊かなかった。  田中のペンが、その答えの下へ一行増やす。 「誰かにそうしろって言われるんです?」 「さあなあ」  店主が首を傾げる。 「昔からそうだったからな」 『なんでも昔からで済むんだよなあ』  唐傘がぼそっと言った。 「いや、ほんとそうなんだよ」  店主が笑った。 「俺も理由なんか考えたことないっけ」 「まあ、大体そうですよねぇ」  田中もつられた。  口元を残したまま、ページを一枚戻す。 「飲まなかったことってあります?」 「ないな」 「なんででしょう?」 「出されるから」  店主はもう奥へ引っ込んでいた。  戻ってきた腕には、小さな段ボール箱が抱えられている。 「これ持ってく?」  蜜柑だった。 「いやいや、それはさすがに」 「傷あるやつだから売れないんだよ」 「そういう問題じゃないですって」 『俺は欲しい』 「こら。差し入れは賄賂になっちゃうので、せっかくですけど」 「そっちの兄ちゃんは?」  急に振られて、柏城が蜜柑を見る。 「……勤務中なので」 「真面目だなあ」 「柏城さん困ってるじゃないですかあ」 「田中さんもですよね」 「あ、ずるい。俺を盾にしないでくださいよ」  すみません、と結局、蜜柑は断った。    三人目は、村へ越してきて三年の女性だった。  小さな子供が、田中の膝のあたりを何度も見ている。  正確には、その横の唐傘を。 『触るか?』 「唐傘さん!」 「触らせませんよ、ごめんなさいね」  子供は一歩だけ近づいて、蛇の目が瞬きをした途端に母親の後ろへ逃げた。  田中が声を上げて笑った。 「びっくりしましたね、ごめんね」 『俺は何もしてないぞ』 「目ぇ動かしたでしょう」 『目なんだから動いて当たり前だろ』  柏城は少し離れたところで、そのやり取りを待った。 「尾峰さんとは、配信で?」 「はい」  女性は子供の頭を撫でる。 「引っ越してきてから知ったんです」 「相談したあと、どこで終わったなって思いました?」 「どこで?」  女性の手が、子供の髪の上で止まった。 「真子ちゃんが、置いてっていいですよ、って言ってくれて」 「そのあと何かしました?」 「別に」 「飲み物とか」 「飲み物?」  女性が笑った。 「家で見てたから、たぶん何か飲んでたとは思いますけど」 「真子さんに言われて?」 「いえ」  田中の笑いが、少しだけ遅れた。 「なるほど。ありがとうございます」  子供がまた唐傘を覗いている。  田中はページの下へ一行だけ足した。  家を出てから、しばらく誰も何も言わなかった。  田中は歩きながら手帳を閉じる。 『猛虎、元気ないのか?』 「いや」  田中が唐傘を見る。 「考えてただけですよ」  道の向こうから、自転車の老人が来た。  荷台に葱が一本、長く飛び出していた。 「おお、朝の警察さん」 「どうも」 「真子ちゃん、元気だった?」 「まだこれから会いに行くところですね」 「そうかい、いい子だよ」  それだけ言って、老人は走り去る。  田中がそれを見送る。 「……いい村ですねえ」  柏城は返事をしなかった。  葱だけが、老人の背中でいつまでも揺れていた。  四件目から、田中の字は紙の左右へ散り始めた。  左には《水》。  右には《置いていっていい》。  その下だけが、どのページも白い。  配信越しの視聴者にも、水の話は通じなかった。 『水ですか?』 「はい」 『なんで?』 「いや、ちょっとした確認で」 『普通にそのまま配信見てましたよ』 「ですよね。ありがとうございます」  通話を切った田中が、携帯を腿へ下ろす。  柏城は開かれた手帳を見た。  田中は左側の《水》を丸で囲まなかった。  右側の空白にも、何も書き足さない。 「田中さん」 「はい」 「違いますね」 「……そうなんですよねえ」  口元だけが少し上がった。 「内容は同じように楽になってる。なのに、終わり方だけ違う」  田中が手帳を閉じる。 「もうちょい集めましょう」  唐傘が田中の肩へ軽く当たった。 『飯までに帰れるか?』 「今朝食べたばっかでしょう」 『昼の話だ』 「早いなあ」  次の家のチャイムが鳴った。

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