志乃創 / 第21話

第21話 その顔、恥でもないけどね

 田中の喉が動いた。声にはならなかった。  紫谷は口の端を上げる。 「俺、勤務時間ちょっと余裕あるからさ。代わってあげるよ」 「代わって、って。いや、それは」 「いいから、黙って」  紫谷は席を立った。  小柄な体で、ひょいと田中の前へ出る。 「田中くん、顔がさあ」  紫谷は指先で自分の頬をつついた。 「仕事してた方が楽なのはね。だけどそういう仕事でもないでしょ」 「……そんなこと思ってませんけど」 「んーん。俺、内側見るの得意だし、合ってるはず」  紫谷の視線は、田中が次に作る顔まで待っていた。 「落ち込んで帰ってくるのも見えたからさ、待ってたわけ」  紫谷の机には、開けたラスクの袋が残っていた。  一枚食べるには長すぎる時間を、袋の口だけが吸って湿っている。  田中の眉がわずかに下がる。 「……わざわざ、そのために出てきたんですか?」 「うん」 「非番でしたよね」 「まあ、気持ち的には非番」 「そういうの、課長に怒られますよ」 「もう諦められてるから、大丈夫っしょ」  田中は呆れたように息を吐く。 「紫谷さん」 「なに」 「俺、別に慰められるようなことは」  紫谷はすぐに頷いた。 「その顔じゃ警察の恥だって。慰めてないよ」  田中が息を吸う。  紫谷は、その続きまで待たなかった。 「俺は大丈夫です」  一本の指が立つ。 「報告だけ済ませたら、外回りに戻ります」  田中の口が閉じる。  二本目が立つ。 「柏城さんは研修扱いなので、休ませてあげてください」  今度は自分の名前だった。柏城は背筋を伸ばす。  紫谷の手には、もう三本。 「朝倉さんの件は、また日を改めてちゃんと話します」  もう一本が静かに加わる。  田中の視線が指から机へ落ちた。  机の上には、もう拾える言葉がなかった。 「今は仕事中ですから」  最後の指が起きた。  田中の前に残ったのは、開かれた手のひらだった。 「ほら」  田中がしばらくそれを見て、口を閉じなおす。 「俺に口で勝とうなんて、十年早いね」 「……性格、悪いですよ」 「知ってる」  紫谷は悪びれもせずラスクの残りを口へ放り込む。  田中は何か言い返そうとして、諦めた。  その横顔を見る。  下がった眉の下に、帰ってきた時の色がまだ薄く残っていた。 「柏城は田中くんのことお願いね」 「お願い、とは」 「座らせて、報告書書かせて。勝手に外回り行こうとしたら止めて」  柏城は田中を見る。  一瞬だけ目が合って、田中が先に逸らした。 「俺にできますかね」 「できるできる」  紫谷の目元が、答え合わせを終えたように緩んだ。 「……はあ。分かりました」 「え、柏城さんまで」  柏城は隣の椅子を引いた。 「座りましょう」 「いや、本当に俺は」 「紫谷先輩に頼まれたので」 「そういうところですって」 「さっき褒めてくれたじゃないですか」  田中は数秒、柏城を見た。  それから諦めたように椅子へ腰を下ろす。 「ずるいなあ」  紫谷は机の上のコンビニ袋を引き寄せた。 「はい」  白い袋が放られる。  田中が反射的に受け取った。 「何ですか、これ」 「食べるかは任せるけど、あれば気まずくないかなって」 「別に気まずくなんてなりません」 「気まずいの柏城ね?隣にいるのに可哀そうでしょ」 「あの。流石にそんな失礼なこと考えませんよ、俺」 「気遣いすぎでしょ」  抗議すれば、紫谷が肩をすくめた。 「その人、夜にはいいお兄ちゃんする予定があるからさ」  紫谷の視線が田中へ動く。 「その前にここでへこませといて。自分じゃやらないでしょ」  田中が黙る。  その沈黙まで、紫谷には返事だったらしい。 「今のも当たり?」 「……十年早いんでしたっけ」 「そうそう」  紫谷は頷いた。 「じゃ、外回り行ってきまーす」  扉が閉まる。  田中の端末には、外回りの地図がまだ開いていた。  現在地の青い点だけが、九十九課から動かない。  香月の机から車の鍵が消えている。  柏城は隣の椅子を引いた。 「報告書、書きますか」 「……そうですね」  机の上で、コンビニ袋が小さく鳴った。  淡い緑の壁が、昼の光を鈍く返していた。  白に灰色を混ぜて、病室らしくなりすぎない程度に緑を残した色。  私なら使わない。  ……使わないも何も、ない。  点滴が一滴落ちる。  掛け布団は体温を逃がさず、じっとりと肌へまとわりつく。  朝倉詩織は、膝の上の退学届を見下ろしていた。  薄い紙。  指を置くと下のシーツの白さまで透けた。  もう来ないで。  ちゃんと言えた。 『捨てるものを、間違えないでほしい』  あの声が、まだ耳に残っている。  何も分かっていないくせに。  選べた人に、何が分かると言うのだろう。  朝倉は封筒の端を握った。  紙が小さく歪む。  その時、扉が叩かれた。 「失礼しまーす」  小柄な男と、背の高い男。  九十九課の人間だと分かるまでに少し時間がかかった。  田中とは、病室へ入る時の音が違った。  声を明るくする。  こちらと目線を合わせる。  返事を待ってから、次の言葉を置く。  二人にその間はなかった。 「朝倉詩織さん、で合ってます?」  小柄な男が言った。  病室の静けさには、まるで似合わない声で。 「……そうですけど」 「よかった。人違いだったら気まずいとこだった」 「緋毬さん、病室でその入り方やめた方がいいっすよ」  背の高い男が淡々と言う。  手には分厚い封筒があった。  朝倉の膝にあるものとは、比べものにならない厚さだった。 「何ですか」 「書類です」  背の高い男は、ベッド脇の棚へ封筒を置いた。 「被害者補償、大学関係。相談窓口と、作品保管、展示名義固定。あと賠償申請の説明書です」  必要事項を上から順に読み上げていった。  封筒の口から、色の違う付箋がいくつも覗いている。 「あの、私、退学届を出すので」 「じゃあ青い付箋のとこっすね」  朝倉は顔を上げる。 「………止めないんですか」 「あ、そういう感じ?」  緋毬と呼ばれた男は、自分を指差した。 「止める理由ないよ。俺の人生じゃないからさあ」  退学届の右上に、親指の跡がついた。  紙は思っていたより簡単に湿った。 「朝倉さんだって、俺が今悩んでること話されても、そこまで興味ないでしょ」  緋毬は棚の上の封筒を指で叩いた。 「この話って、被害者と警察じゃなくて。人と人じゃん?」  朝倉は男を見る。  黒いシャツの胸元に菓子の粉がひとつ残っている。  人と人、と言われても。見えるのはそこまでだった。 「だから絵を辞めるかどうか、とか。正直どっちでもいいよ」  朝倉は口を開いた。  分かったようなことを言わないで。  そこまでは用意していた。  けれど、宛先は見当たらなかった。 「緋毬さん、言葉選び終わってます」  隣の背の高い男が言った。 「あの、辞める場合の手続きも入ってます。学籍と作品記録を消えないようにする書類です」 「……消える?」 「契約痕が残ってるので。どれを選ぶにしても、記録固定は先にしてください」  男は封筒から一枚を引き出した。  用紙の上部に、自分の名前が印字されている。 「それから、夢や将来の話は俺たちの担当じゃないので」  低く、平坦な声だった。 「さっさと体治すのも手です。夢が叶う人なんて一握りですし、そんなに無理して追いかけなくてもね」  田中は朝倉の顔を見ながら黙って言葉を選んだ。  それを、薄情だと思っていた。 「そうそう。辞めたら楽になることもあるしね」  緋毬は病室の空気に合わない調子で続ける。 「ぴーちくぱーちく煩いでしょ、他の人。せっかく助かったのに、まだ若いのに、とか」  言葉は朝倉の中にあるものを、嫌に正確に撫でた。 「だから出したいなら好きにしていいんだけど」  棚の上の封筒をもう一度指で叩く。 「終わらせるにしても、損しない終わらせ方ってあるんで」  退学届はいつの間にかただのA4の厚みに戻っていた。  角だけが少し潰れている。  それが、ひどく気に食わなかった。 「あ。読まなくてもいいです」  背の高い男が言った。 「捨てるのはやめてくださいね。作り直すの大変なんで」 「そこ?」 「はい。資料揃えたの俺ですから」 「仕事熱心だねえ」 「緋毬さんよりは」  二人は病室に似合わない温度で言い合った。  もう用は済んだらしい。  緋毬の手が、ドアノブに掛かった。 「朝倉さん」  呼ばれて、顔を上げた。 「退学届は逃げないからさ」  緋毬は棚の上を指した。 「青いとこだけでも、読んでからにしてね」  扉が閉まる。  どちらも好きにはなれなかった。  封筒へ手を伸ばし、青い付箋をめくる。  朝倉詩織。  次の紙にもある。  朝倉詩織。  作品保管の欄にも。  大学へ出す紙にも。  怪異には一度消された名前だった。  それを紙だけが、しつこく何度も印刷している。  一番上の付箋だけ、印刷ではないことに気が付いた。  少し丸みのある字で《確認》と書かれている。  見覚えがあった。  面会票に、消えた名前を書き戻した字。  昨日のうちに、ここまで用意されていたのだろうか。  退学届を見せるより前に。  もう来ないで、と言うより前に。  朝倉は分厚い封筒を見る。  《確認》  もう一度、その二文字を見る。  分からなかった。  朝倉は退学届を引き出しへ戻した。  紙の端が引っかかり、一度では閉まらなかった。  指で押し込む。  今度は閉まる。  点滴の雫が、ひとつ落ちる。  空調の風が、棚の上の紙をかすかに鳴らした。  頁を閉じても、名前だけがまだ、何人も残っていた。

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