志乃創 / 第20話

第20話 花が枯れる前に

 駅前に着いた時には、もう朝というより昼に近かった。  改札前の人波は落ち着いている。  通勤客の代わりに、買い物袋を提げた人や、制服姿の学生がぽつぽつと流れていた。  田中は柱の近くに立っていた。  こちらを見つけると、片手を上げる。 「柏城さん」  声が大きい。  それだけで、少し現実に戻された気がした。 「すみません。遅刻ですよね」 「ああ、いえいえ」  田中は笑った。 「むしろ、こういう日は遅刻の方が助かりますって。課長が言ってました」 「助かる?」 「うち、人数ギリギリなんで。こういう時に余裕を作っておかないとね」  田中はそう言って、駅前の通りへ歩き出す。 「紫谷さんと猫屋敷は、だいたい詰められてますけどね」  柏城は勤務表を思い出す。  確かに。 「あの二人、勤務多くないですか」 「多いですね~」  軽い返事だった。 「まー、あそこは半妖枠採用なんで」 「……ああ、例の。今問題になってましたっけ」 「炎上してますねえ。体が丈夫で、時間の感じ方が違うから、って完全に建前ですもんね」  建前。  田中はあっさりそう言った。 「紫谷さんも猫屋敷も言ってました。人間社会で育てられて時間の感覚が違うわけねえじゃん、って」  言い方が、少し紫谷に似ていた。  柏城は思わず想像してしまう。  机に突っ伏した紫谷が文句を言う姿。  隣で猫屋敷が、資料の束を抱えたまま「誰だよこれ制定した馬鹿は」と吐き捨てる姿。  容易に浮かんだ。 「まあ、猫屋敷は特に文句多いですね」 「そうなんですか」 「紫谷さんは笑いながら嫌味言うけど、猫屋敷は露骨に機嫌悪くなるんで」  田中は楽しそうに言った。 「昨日は愚痴言ってませんでした?」 「……いえ、」  言っていた気もする。  けれど、思い出せたのは文句ではなく、毛布とホットミルクだった。  柏城が黙っていると、田中がこちらを見る。 「朝ごはん、まだですよね?」 「え」 「顔に書いてあります」 「そんなにですか」 「嘘です、猫屋敷が言ってました」  田中は駅前の通りを指さした。 「行きましょう。腹減ってる時に制度の話すると、全部嫌になりますからね」 「……ちょっと、分かる気がします」 「うんうん、」  田中は笑って、細い路地へ入っていく。 「仕事は飯の後です。空腹の人間を連れ回すと、猫屋敷が怒るんで」 「怒るんですか」 「意外と。すっごい分かりにくいですけど」 「……あー、そうかもしれません」 「でしょ?」  田中は路地を一本曲がった。  駅前の喧騒が少しだけ遠ざかる。  古い商店が並ぶ通りだった。  花屋の前には小さな黒板が出ていて、「今日はひまわりが入荷しました」と丸い字で書かれている。  パン屋からは焼きたての匂い。  向かいでは自転車屋の店主が、店先を箒で掃いていた。  どこにでもありそうな街並みには。  歩幅までゆっくりになってしまうような、不思議な空気があった。 「ここです」  田中が立ち止まる。  木の看板。  生成りの壁。  小さな窓辺には、季節の花が一輪だけ飾られていた。  ガラス越しに見える店内には、色とりどりのサンドウィッチがきれいに並んでいる。  卵。  ハム。  照り焼きチキン。  色鮮やかな野菜。  まるで絵本の挿絵みたいだった。  扉を開けると、小さなベルが鳴る。  からん、と澄んだ音だった。 「いらっしゃい」  奥から白髪交じりの女性が顔を出す。 「田中くん。今日はお仕事?」 「はい。どうしてもここの、食べたくなっちゃって」 「またそんなこと言って」  女性は笑いながら、ショーケースを軽く拭いた。 「こちら、お連れさん?」 「同じ職場の方です」  柏城は軽く頭を下げる。  女性も柔らかく笑い返した。 「初めてなら、卵がおすすめ。朝いちばんに届いたのを焼いてるのよ」 「じゃあ、それと」  田中はショーケースを覗き込みながら言う。 「照り焼きチキンもください」 「二つとも?」 「半分こするんで」  女性は「仲がいいのねえ」と笑った。  田中は照れた様子もなく、 「美味しいものは分けた方が得ですから」  と笑う。  包み紙にくるまれたサンドウィッチを受け取る。  紙袋はひんやりと心地いい冷たさだった。  外へ出ると、昼前の風が通り抜ける。  花屋の前で、小さな女の子が母親に手を引かれながら立ち止まっていた。 「おはなしゃ、かあいい」  その声に、店主が一本だけ小さな花を差し出す。  女の子は目を丸くしてから、自身にも花を咲かせた。 「あーとぉ!」  その笑顔を見て、柏城は思わず目を細める。  田中は紙袋を揺らしながら、 「車で食べましょうかね」とだけ言って歩き出した。  街には、焼きたてのパンの匂いと、小さなベルの音がまだ残っていた。  車は駅のパーキングに止まっていた。  セダンではなく、ソリオのミニパト。  田中は運転席に座るなり紙袋を開ける。 「いただきまーす!」  柏城も助手席で渡された包み紙を開く。  卵のサンドウィッチは、明るい黄色がよく映えていた。  パンはしっとりしていて、指で持つと少しだけ沈む。  一口食べると、ふんわりと卵の甘さが広がった。  やわらかい。  そこに、黒胡椒がほんの少しだけ効いている。 「……美味しいですね」 「そうでしょ、ここよく行くんですよ」  田中は満足そうに笑った。  自分で作ったわけでもないのに、誇らしげだった。 「照り焼きも食べます?」 「いいんですか」 「半分こするって言ったじゃないですか」  田中は包み紙ごと、照り焼きチキンの方を差し出す。  柏城はそれを受け取った。  甘辛い匂いが、車内に広がる。  昨日の唐揚げ。  朝のホットミルク。  今、手の中にあるサンドウィッチ。  気づけば、食べ物ばかり受け取っている。  そのことに少し笑いがこぼれた。 「どうかしました?」 「あ、いえ」  柏城は首を振る。 「九十九課の人、よく食べさせますね」 「そうですか?」  田中は本気で分かっていない顔をした。 「んー、まあ。食べないと動けないからじゃないですか」  当たり前のことを言う。  柏城はサンドウィッチをもう一口食べる。  腹の底に、温度が落ちていく。  食べ終わるまで、田中は朝倉の名前を出さなかった。  紙包みを畳んでから、ようやく話す。 「朝倉さん、今日も少しなら話せるそうです」  柏城の手が止まる。 「病院からの連絡ですか?」 「はい。長くは無理ですけど」  田中は指先についたソースを紙で拭いた。 「だから、先に食べときたかったんです」 「……どうしてですか」 「腹減ってると、余計なこと考えるんで」  田中は軽く笑った。 「こっちも、向こうも」  その言い方が、少しだけ胸に残った。  向こう。  朝倉詩織。  絵の中から戻ってきた人。  救出された人。  けれど、それだけでは終わらなかった人。 「行きましょうか」  田中がエンジンをかける。  車がゆっくり動き出した。  窓の外で、白い壁の小さな店が後ろへ流れていく。  木の看板。  窓辺の花。  からん、と鳴ったベルの音。  そういうものが、少しずつ遠ざかっていった。  病院へ入ると、空気が変わった。  消毒液の匂い。  磨かれた床。  安心させるための、淡い緑の壁。  さっきまでの街が、ずいぶん遠い場所のように思える。  田中は受付を済ませると、肩に掛けていた唐傘を軽く揺らした。 「起きてください。今日一番の寝坊助ですよ」  唐傘の目が、ぱちりと開く。 『なにを。重役出勤を知らんのか』 「備品でしょ……」 『年上は敬うもんだぞ』 「はいはい。今日もお願いね」  田中が小さく笑うと、唐傘は不満そうに柄を鳴らした。 『まったく、若いもんは傘のありがたみを知らん』 「知ってるって」  田中の声は軽い。  病室へ向かう廊下に入る頃には、昨日のように落ち着いていた。 「今日は相談室じゃなくて、病室です」 「病室?」 「点滴の時間らしくて。時間悪かったかな、」  ああ、と柏城は頷いた。  淡い色合いの廊下。  閉じた扉の向こうに、朝倉詩織がいる。  田中が扉の前で一度立ち止まる。  軽く息を吸って、いつもの顔で笑った。 「失礼します」  その声が、病室に入ってきた。  また来た。  朝倉詩織は、最初にそう思った。  明るい声。  能天気な顔。  何も知らないくせに、知っているみたいにこちらを見る目。  気に入らない。  仕事でもなければ来ないくせに。  放っておけばいいのに。  淡い緑の壁。  優しい色をしているくせに、どこにも出口がない。  色の薄いシーツ。  透明な管を、冷たいものがゆっくり通っている。  そのどれもが、自分はまだここから出られないのだと教えてくる。  絵から出たら終わりだと思っていた。  けれど、違った。  永遠みたいな苦しさは、まだ続いている。  なら。  私は、何を願えばいいのだろう。  何を言えば、この人たちは満足するのだろう。 「朝倉さん。体調はどうですか」  田中が言う。  その隣には、見覚えのある男が立っていた。  あの日もいた人だ。  朝倉は二人を見て、それから枕元の引き出しへ手を伸ばした。  封筒を取り出す。  薄い紙が、指先で頼りなくたわむ。 「……朝倉さん、それ、」  田中の目が、封筒に落ちた。 「退学届です」  病室の空気が止まる。  唐傘が、かさりと動いた。 『嬢ちゃん、それは』 「うん」  田中が静かに言った。  唐傘より、少しだけ早かった。 「ちょっと、時間を下さい」  止める声ではなかった。  考えるための声だった。  それが、余計に腹立たしかった。  すぐ否定すればいい。  そんなこと言わないでください、と言えばいい。  頑張りましょう。  夢を諦めないで。  あなたには才能がある。  そういう、分かりやすく綺麗な言葉を並べればいい。  そうしたら、拒む理由が出来るのに。  田中は黙っていた。  笑ってはいなかった。  けれど、目も逸らさなかった。  朝倉の握っている封筒と、その手を、交互に見ていた。  やがて、ゆっくり口を開く。 「喰画に、近いところまで来てしまいましたね」  胸の奥が、ひやりと冷えた。 「被害者なのに」  朝倉は思わず声を出す。 「怪異と同じって、言うんですか」  田中は否定しなかった。  その沈黙が、答えより薄情だった。 「同じになりかけているから、僕らは話しに来ています」  優しくはなかった。  けれど、突き放してもいなかった。  田中の指が、唐傘の柄を強く握っていた。  頬からは、いつもの色が消えている。  それでも、視線だけは動かない。  朝倉はそれが嫌だった。  田中は唐傘を見た。  それから、朝倉へ視線を戻す。 「僕は、家族との楽しい時間を取りました」 「……家族?」  急に、何の話を。  田中は掛けていた唐傘を軽く持ち上げた。  唐傘が、ぱた、と布を開く。 『おう。家族だぞ』  田中は困ったように笑った。  けれど、その顔は幸せそうでもあった。 「僕は、片目の代わりに家族が一人増えたんです」  病室が静かになる。  柏城が、わずかに田中を見た。  唐傘も何も言わなかった。  その沈黙で、朝倉にも分かった。  唐傘が、田中の片目を取ったのだ。  悪意ではなかったのかもしれない。  けれど、戻らない。  失くしたものは、失くしたままだ。 「賠償が上手くいかなかったので、今でも、体調を崩します」  田中は淡々と言った。 「距離を間違えます。知らない影に驚くし、たまに酔って吐きます」  唐傘がわずかに傾く。 「でも、一緒にいます」  田中は唐傘の柄に触れた。  指先が、慣れた手つきで木肌を撫でる。 「そうしたいと思ったので」  朝倉は黙っていた。  眩しかった。  痛いくらいに。 「あなたは」  声が震えた。 「奪った相手と家族になれたから、そんなことが言えるんです」  田中は何も言わない。 「私は、喰画と家族になんかなれません」  言葉が止まらなかった。  止めたくても、喉の奥から熱くこぼれてくる。 「私をこんなふうにしたものを、生活の隣になんか置けません」  点滴の管が、小さく揺れる。  腕の中で、針が異物みたいに重かった。  田中はすぐには返さなかった。  その沈黙の間に、朝倉の息だけが荒くなる。 「……そうですね」  やがて、田中は言った。 「そこは、僕と朝倉さんでは大きく違います」  同じように笑えとは言いません。そう続ける声は、低かった。  田中は朝倉の手を見る。  退学届を握る、細い指。  紙の端が少し曲がっていた。 「ただ、捨てるものを間違えないでほしいんです」 「……間違える?」 「絵が好きなら、絵を見ればいい。描けばいい。そこに救われる日もあると思います」  田中は一度、唇を閉じた。 「でも、絵を見ていたって腹は膨れません」  朝倉は息を止めた。 「その世界を見るあなたまで消えたら、もう、その絵はあなたのものじゃなくなる」  唐傘が、ぽつりと言う。 『邪魔な身体がなきゃ、雨の日に傘は差せないぞ』  田中が少しだけ眉を下げた。 「唐傘さん、それはだいぶ傘目線ですね」 『大事なことだろ』  唐傘の声は、からりとしていた。  それなのに、どこか湿って聞こえた。 『濡れる身体があるから、傘は役に立つんだよ』  胸の奥で、何かが熱くなる。  羨ましくて、苦しくて。  自分が、たまらなく惨めだった。 「……選べたなら、いいじゃないですか」  声が、思ったより重く出た。  田中が顔を上げる。 「選べた人に、何が分かるんですか」  病室の薄い緑が、急に冷たく見えた。  色の薄いシーツ。  透明な管。  全部が、自分を責めているみたいだった。 「私は、もう分からないんです」  喉が詰まる。  それでも、言葉は止まらない。 「描きたいのかも、描きたくないのかも。戻りたいのかも、全部捨てたいのかも」  封筒を握る手に力が入る。  紙が潰れる音がした。 「それなのに、また来て。話を聞いて。何か言って」  田中は何も言わなかった。 「私が、何を言えば満足なんですか」  沈黙が落ちる。  答えのように。  田中の顔から、いつもの明るさが少しずつ消えていく。  それを見ても、胸はすっとしなかった。  むしろ、余計に苦しくなった。 「帰ってください」  柏城が何かを言いかける。  けれど、田中が小さく首を振った。 「……分かりました」  田中は一礼する。 「また来ます」 「もう、来ないで」  田中は少しだけ目を伏せた。  それでも、もう一度だけ頭を下げた。  病室に残った音は、点滴の落ちる小さな気配だけだった。  扉が閉まる。  廊下へ出ると、消毒液の匂いが急に濃くなった。  田中はすぐには歩き出さなかった。  唐傘の先が、白い床へ触れている。  廊下の奥から、昼食のワゴンが来た。  軽い車輪の音が近づく。  からから。  からから。  看護師が病室の前で止まる。  扉を少し開け、中へ声をかけた。 「朝倉さん、日が眩しくないですか。カーテン、閉めます?」  短い間があった。 「どちらでもいいです」  朝倉の声が返る。  看護師は半分だけカーテンを閉めた。  白い光が細くなった。  扉が閉じる。  柏城は、大学を思い出していた。  雨が入れば、他の学生の作品が濡れる。  だから、最後に必ず窓を閉めていた人。 「田中さん」  田中は扉を見たままだった。 「前は、自分で窓を閉めていた人なんですよね」 「……はい」  閉じた和紙が、かすかに擦れた。 『選ばないと、選べないは別だぞ』  田中は答えなかった。  扉の下から、昼の光が細く漏れていた。  白い光と影が、ちょうど半分ずつ廊下へ落ちている。  どちらでもいい。  その言葉の形みたいだった。  田中は何も言わず、先に歩き出した。  柏城もその後を追う。  廊下には、二人分の足音と、唐傘の先が時折床を擦る音だけが続いた。  自動扉が開く。  秋の光が、目に痛いほど明るかった。  駐車場の端で、田中がようやく足を止める。 「……やっちゃいましたね」  笑おうとした顔だった。  口元だけがうまく動いて、目は追いついていなかった。  柏城は、すぐには返せなかった。  慰めの言葉なんて、いくらでも嘘になりそうだった。  正しい言葉で包めば、さっきと同じことを繰り返す気がした。  それでも、昨夜の毛布を思い出す。  言葉より先に届く手。 「田中さん」 「はい」 「俺は、助かりました」  田中がこちらを見る。 「さっきの話です。俺は、聞けてよかったです」  田中は黙った。  困ったように眉を下げる。  唐傘が二人の間で柄を揺らした。 『まったく』  呆れながらに、柔らかい声だった。 『痛いところを持って、痛いところへ行く。そうして痛がって帰ってくる。若いもんは忙しいな』 「誰が若いもんですか」 『全員だよ』  唐傘はからりと鳴った。  田中は反論しかけて、やめた。  病院の白い建物が背中にある。  消毒液の匂いはもう薄れているのに、喉の奥にまだ残っている。  車に戻ってから、田中は口数が減った。  商店街を抜けるまで、エンジン音だけが車内を行き来していた。  柏城は膝の上の資料に目を落とす。  文字は少しも頭に入ってこない。 「この後、どうしますか」  尋ねると、田中は一拍遅れて顔を上げた。 「ああ」  田中はすぐに笑った。  戻るまでが、早かった。 「報告だけして、今日は外回りを続けます。詩織さんの方は、まあ、また日を改めて」 「……はい」  それ以上は踏み込めなかった。  田中自身がまだ抱えているものを、こちらが先に崩してはいけない気がした。 「大丈夫ですよ。ああいうのは、慣れてます」  慣れている。  その言葉だけが、車内に沈んだ。  柏城は窓の外を見る。  唐傘の貸出所。  古い菓子屋。  閉じかけた画材店のシャッター。  朝倉詩織が見ていたかもしれない景色が、何も知らない顔で流れていく。  ポン。  田中のスマートフォンが鳴った。  車載ホルダーの画面に、香月詩音の名前が浮かぶ。 「課長ですね」  田中の声が硬くなった。  電話ではなく、メールだった。  信号待ちの間に確認した田中が、わずかに眉を寄せる。 「……一度戻ってください、だそうです」  柏城は横顔を見る。  田中はまた笑った。 「早いなあ。失敗報告、先に入っちゃいましたかね」 「失敗じゃないでしょう」 「どうですかね。相手、怒らせただけですし」 「怒らせたんじゃなくて、届かなかっただけだと思います」  田中が、ちらりとこちらを見た。  驚いた顔だった。  柏城は視線を逸らさない。  田中は数秒黙って、それから苦笑した。 「柏城さん、そういうこと言うんですね」 「おかしかったですか?」 「真面目だなあ」 「田中さんほどではないですよ」  今度の笑いは、少しだけ自然だった。  信号が青に変わる。  車が動き出す。  田中の指はハンドルを握り直していた。  署の駐車場に車を停める。  エンジンが切れると、車内は急に狭くなった。  田中はすぐには降りなかった。  膝の上の手を見下ろしている。 「怒られるなら、俺だけで行きますよ」 「一緒に行きましょう」 「いや、柏城さんは研修扱いですし」 「制服に研修もベテランもないです」  田中は困ったように息を吐いた。 「そういうとこ、本当に真面目」 「褒めてますか?」 「褒めてます」  田中がドアを開ける。  外の空気が入り、車内に残っていた沈黙がほどけた。  署内に戻ると、慣れた匂いがした。  紙と、古い床の匂い。  九十九課の扉の前で、田中の足が一瞬だけ止まる。  柏城は気づいたが、何も言わなかった。  田中が扉を開ける。 「お疲れ様です、戻りました」  中にいたのは、香月ではなかった。  机の上に片肘をつき、コンビニ袋を漁っている男が一人。  紫谷緋毬だった。 「おかえりー、お疲れさん」  まるで自分の家にいるような声。  田中が固まる。  柏城も、足を止めた。 「……紫谷さん?」 「うん。紫谷さんだよー」  紫谷は顔を上げる。  口の端に、悪戯っぽい笑みが乗っていた。 「いやあ、早かったね。もっと遠回りしてくるかと思った」 「課長は」 「香月さんはいないよ」 「いない?」  田中の声が裏返る。  紫谷はコンビニ袋からラスクを取り出し、袋の端を雑に開けた。 「うん。休み。俺が代わったもん」 「じゃあ、メールは」 「俺」 「おれ?」 「ふは、騙されてやんの」  紫谷は悪びれもせず言った。 「香月さんのパソコン借りた」 「借りた、ですか」  柏城が思わず聞く。  紫谷は目を細めた。 「勝手に使った、とも言うね」 「それは借りたと言わないのでは」 「細かいなあ、柏城ってば」  田中はまだ扉の近くに立っていた。  怒られると思っていた顔。  身構えていた肩。  その全部が、宙ぶらりんになっている。  紫谷はラスクをひと口かじり、田中を見る。 「で」  紫谷は椅子に腰を預け、二人を見つめた。 「嫌なことあって帰ってきたんじゃない?当たり?」

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