志乃創 / 第15話

第15話 消えゆく名前

 署を出ると、青空がひらけていた。  庁舎前の植え込みでは、濡れた葉が陽を返している。  歩道の端を、足のない妖怪が買い物袋を提げて通り過ぎた。  向かいの薬局からは、保湿クリームを二つ抱えた河童が出てくる。  信号が変わる。  人も妖怪も、同じように横断歩道へ流れていった。  田中は畳んだ唐傘を片腕に抱え、庁舎裏の駐車場へ向かう。  直樹はその隣を歩いていた。  靴音はほとんど聞こえない。  骨の尾だけが、歩調に合わせて小さく鳴る。  カロ、コロ。 「猛虎君、また顔色悪いね」 「直樹さんこそ。顔色って概念、あるんですか?」 「失礼だなあ。今日もかなり人間寄りだよ」 「角と尾が出てる時点で、かなりではないです」 「仕事中は、これでいないといけない決まりだからね」 『珍しく翼も出てるぞ』 「……君、よく見てるね」 『ふふん。そうだろう』  唐傘が得意そうに笑う。  直樹は折れた角へ、細い指を触れた。 「この程度なら、十分人間らしいでしょう?」 「その基準、俺には分かんないです」 「猛虎君は人間に厳しいね」 「直樹さんに言ってるんですよ」  田中の声に九十九課で見せていた遠慮はなかった。  直樹も気にした様子はない。  言葉を交わす間、二人の歩幅は自然に揃っている。  柏城は少し後ろを歩いた。  人外と話すこと自体は珍しくない。  学生時代にも、同じ教室に妖怪や半妖がいた。  街を歩けば、角や尾を隠さない者とも普通にすれ違う。  それでも、悪魔が仕事仲間として隣にいる距離には、まだ馴染めなかった。  田中がセダンの鍵を開ける。 「柏城さん、助手席どうぞ」 「はい」  田中は唐傘を後部座席へ横たえ、自分は運転席へ回った。  直樹がその隣へ腰を降ろす。  遅れて、尾が座席の縁を撫でるように通った。 『狭いなあ』 「またそれ?」 『今は本当に狭いだろ』 「ふふ、俺が邪魔みたいに言うね?」 「違いますよ。唐傘さんが場所取ってるだけです」 『そりゃ悪かったなあ』  田中がエンジンをかける。  低い唸りが車内を満たし、傘先が座席の下で小さく鳴った。 「ほら、行きますよ」  車が駐車場を抜ける。  フロントガラスの端を、信号機と街路樹の影が順番に流れていった。  車内は賑やかだった。  笑い声が途切れた、ほんの短い間。  運転席と助手席のあいだから、直樹の目が柏城を捉える。  触れられてもいないのに、視線の落ちた先だけが温かく意識に浮いた。 「柏城君、病院は平気?」 「……平気、だと思います」 「いいね。曖昧で綺麗なお返事だ」  褒められたのかどうか分からない。  返す言葉を探していると、バックミラーの中で直樹に淡い笑みが浮かぶ。 「美術館、怖かったでしょう」  喉の奥が狭くなる。  声は軽い。  問いかけだけが、妙に近かった。 「……ええ、怖かったです」 「うん」  直樹は、それ以上聞かなかった。 「それでも来たんだ。偉いね」  子供へ言うような口調だった。  けれど、馬鹿にされている感じはしない。  田中が前を向いたまま口を挟む。 「直樹さん、新人を変な感じに甘やかさないでください」 「変な感じって何?」 「だいたい全部かなあ」 「猛虎君ってば厳しいよね」 『お前は甘やかし方が気持ち悪いんだよ』 「君まで。酷いなあ」 『褒めてるだけだぞ』 「褒められた気はしないかな」  田中がくすりと笑う。  ハンドルを握ったまま、肩が小さく揺れた。    交差点へ差しかかり、田中がウインカーを出した。  一定の間隔で、乾いた音が鳴る。  かち。  かち。  やがて、病院の白い建物がフロントガラスの向こうに大きくなった。  車を降りると、陽の熱がアスファルトから返ってきた。  病院の自動扉が開く。  冷えた空気と消毒液の匂いが、外の陽気を押し戻した。  淡い緑の壁が、廊下の奥まで続いている。  床は磨かれ、天井の奥では空調が低く鳴っていた。  受付の前を車椅子がゆっくり横切る。  廊下の先では、看護師が小さな巻き角の子供へ屈んで話しかけていた。  田中は唐傘を抱え直す。 「病院の中でも、持ったままなんですね」  柏城が言うと、田中は前を向いたまま答えた。 「見えすぎるんですよ」 「見えすぎる?」 「俺、うんと目が良いんです」  軽い調子だった。 「壁の向こうの人影とか、手術室に残ったものとか。誰のものか分からない不安まで、壁越しに入ってくるんです」  柏城は廊下の先を見る。  何もない。  扉と壁と、行き交う人の背中だけだった。 「近いのか遠いのか、今いるのか、残ってるだけなのか。たまに分からなくなっちゃって」  田中が唐傘を少し持ち上げる。 「だから、目印があると助かるんですよね。唐傘さん、柄が派手なので」 『派手で恰好良いだろ』 「病院だと目立つけどね」 『見失わないなら大正解じゃないか』 「まあね」  田中は笑った。  指は傘の柄を握ったままだった。  相談室の前で足を止める。  田中が一度、息を吐いた。  空調の音に混ざる程度の、短い呼吸だった。 「じゃ、行きましょうか」  唐傘の傘先が床へ軽く触れる。  乾いた音が、ひとつ落ちた。  扉を開ける。  中には、廊下と同じ色が続いていた。  壁際の車椅子に、朝倉詩織が座っている。  膝には薄いブランケット。  手首は細く、点滴の跡が残っていた。  スケッチブックを抱く指先に、乾いた絵の具がこびりついている。  救出された。  意識もある。  命に別状はない。  書類に並んでいた文言より、目の前の姿がずっと軽かった。  少し力を入れれば、輪郭ごと折れてしまいそうに見える。  田中の歩みが僅かに緩む。  それでも足を止めず、詩織の前まで進んだ。  車椅子の高さへしゃがみ、警察手帳を開く。 「朝倉詩織さんですね。警察官の田中です」  詩織が小さく頷いた。 「今日は、食事のことと、大学のことと、絵のことを聞きに来ました」 「……絵のことだけで、いいです」  細い声だった。  紙の端で指を切った時のような、薄い鋭さがある。  田中は頷く。 「絵のことを聞くために、食事のことも確認させてください」  詩織の指が、ブランケットを掴んだ。 「大丈夫です」 「はい」 「本当に、大丈夫です」 「……うん。言いたくないことは、話さなくて大丈夫です」  田中の声が少し低くなる。 「ただ、大丈夫かどうかは一緒に確認させてください」  田中は急かさず、詩織の反応を待った。 「それが今日の僕らの仕事ですから」  それから、「よろしくお願いします」と小さく頭を下げた。  僕。  九十九課で聞いていた一人称とは違う。  言葉の角が、外へ向けて一つずつ整えられていた。  詩織の視線が動く。  田中。  直樹。  最後に、柏城で止まった。 「……あなたも、あそこにいましたね」  美術館の匂いが、肺の奥へ戻ってくる。  濡れた床。  額縁。  油彩の向こうで蠢いていた指。 「はい」 「覚えていますか」  責める響きはなかった。  それでも柏城は、無意識に背中を伸ばした。 「全部ではありません。でも、覚えています」  詩織の顔に、初めて色が差した。 「みんな、忘れるんです」  天井の奥で、空調が低く鳴り続ける。 「怖かったことも、苦しかったことも。絵の中で聞こえた声も、私が描いたことも」  唇が震えた。  スケッチブックを抱く指へ力が入る。 「全部、絵は覚えてるのに」  一度、息を吸う。  細い胸が、ブランケットの上で動いた。 「私だけが、私を覚えてるんです」  田中の目が、詩織の膝へ落ちた。  スケッチブックの表紙へ目を落とした瞬間、田中の肩が強張った。 「っう、わ」  押し込めきれなかった声が、息と一緒に漏れる。  詩織の指が、スケッチブックの端をわずかに掴み直した。  田中はすぐに空いている手を上げた。 「っ、すみません。朝倉さんが悪いわけじゃないです」 『こいつ、見えすぎるとたまに声が漏れるんだ』 「唐傘さん、今はちょっと……」 『分かってるよ』  蛇の目が、詩織へ向いた。 『お嬢さんに驚いたわけじゃない。気にしなくていいさ』  詩織の視線が、スケッチブックから離れた。  くすんだ朱色へゆっくりと向けられる。  その横で、田中は鞄から鑑定書を出した。  スケッチブックと紙面を交互に見ている。  さっきまであった頬の赤みが薄れていく。  それでも、鑑定書の角を押さえる指はずれなかった。 「表紙の下に沈んでますね。紙の奥にも。喰画の痕跡と、契約痕が絡んでます」 「何が見えているんですか?」  柏城が聞く。  田中は短く息を吐いた。 「色々と。ちょっと見えすぎて酔ってる、かも……」 「大丈夫ですか」 「う、はい。慣れては、いるんですけどね」  唐傘の蛇の目が、田中へ向いた。 『無理するなよ、猛虎』 「無理はしてないよ。仕事してるだけ」 『それを無理って言う時もあるだろ』 「今はまだ大丈夫」  田中はスケッチブックから目を逸らさない。 「影はそこ。紙はこっち。朝倉さんは、ここ」  小さく区切りながら、鑑定書へ付箋を貼っていく。  紙。  絵の具。  喰画の痕跡。  詩織。  混ざっているものを、一つずつ分けるような手つきだった。 「名前がつけば扱えます。主症状は契約痕の残留かと」  田中は詩織の前にしゃがんだまま、顔を上げる。 「朝倉さん」  詩織の目が上がる。  田中は、膝の上のスケッチブックを見た。 「これは、朝倉さんが描いたものですか」 「はい」  答えたあと、詩織は表紙へ視線を落とした。 「……たぶん」  田中の指が止まる。 「たぶん?」  詩織は表紙を撫でた。 「描いたのが私だったかは、よく分からなくて」  空調が低く鳴っている。 「手は私のだったんですけど」  詩織は自分の指を見た。 「ずっと、こっちを見てて」  スケッチブックを抱く腕に、少しだけ力が入る。 「こっち?」 「絵です」  詩織は、当たり前のことを答えるように言った。 「ずっと、画用紙を見てたんです」  もう一度、自分の手を見る。 「だから、私の手も、たまに見えました」  田中はしばらく黙っていた。 「……絵は、残したいですか」 「はい」  返事は早かった。 「朝倉さん自身はどうですか?」  詩織の指が止まる。  自分のことを聞かれた意味が、すぐには分からなかったように見えた。  空調の音だけが続いた。  詩織の言葉を聞くあいだに、直樹は勝手に椅子へ腰を下ろしていた。  棚の花瓶へ手を伸ばし、硝子の縁を指先でなぞる。  カラ。  骨が椅子の脚へ触れて鳴った。  唇が、息を吸うようにわずかに開く。 「……契約は嫌、かな」  田中が、咎めるように直樹へ目を向けた。 「直樹さん、」 「分かってるよ。仕事で来てる」  直樹は詩織を見る。 「俺はね、綺麗なものが好きなの」 「被害者ですよ」  柏城の口から、言葉が出ていた。 「うん」  直樹は素直に頷く。 「顔や身体の話はしてない。君たち、すぐそこへ引っかかるね」  舌の上で溶かしたような声が、室内へゆっくり沈んだ。 「身体はいらない。忘れた人間に思い知らせたい。絵だけが残ればいい」  詩織の睫毛が揺れる。 「諦めも、復讐も。とても可愛らしいよ」  直樹が、首を傾けた。 「でも。今の君には少し、分不相応かな」  詩織の顔から血の気が引いた。  田中が唇を結ぶ。  直樹はその顔を見て、僅かに笑った。 「猛虎君」 「……はい」 「頑張ってね」  膝の上で指を組む。 「また俺を呼んで。次は拒まずに契約してあげよう」  田中はすぐには返さなかった。  詩織へ向き直り、頭を下げる。 「すみません。失礼なことを言いました」  詩織は何も答えない。  田中は顔を上げた。 「ただ、今日ここで賠償契約に進めないという判断は、僕も同じです」 「どうしてですか」  詩織の声が掠れた。 「助けてくれるって、聞いたのに」  田中はスケッチブックを見る。 「今の気持ちが、どこまで朝倉さんのものか。まだ分からないので」  詩織の指が、スケッチブックの端へ食い込んだ。 「絵を残したい。忘れられたくない。それは否定しません」  田中は、視線を落とす。 「ただ、自分はいなくていい、は別です」  一度、息を吐いた。 「そこには、まだ喰画が残ってる」  空調の低い音だけが残った。 「だから今は、契約できません」  詩織の手が震える。  田中は間を空けず、言葉を重ねた。 「見捨てるという意味ではありません」  食事。大学。絵。  忘れられないための手続きを、一つずつ挙げていく。 「順番に確認していきます」  詩織は俯いた。 「私が戻っても、」  掠れた声だった。 「また、忘れられたら」 「それは朝倉さんにとって、怖いことですか?」 「……当たり前じゃないですか」  田中の眉尻が、僅かに下がる。 「じゃあ、そこから始めましょう」 「怖いところから、ですか」 「はい」  田中は唐傘の柄を握り直した。 「怖いって言葉が出ているなら。まだ出来ることは、たくさんあります」  唐傘の傘先が床へ触れた。 『迷子なら、捨て子よりずっと良いなあ』  詩織がこちらを見る。  怯えと困惑が混じった目だった。  けれど、視線は確かにスケッチブックから離れている。  田中は息を整える。  次に出た声は、病室へ入った時と同じ明るさだった。 「今日はここまでにしましょう。このあと、僕たちは大学へ行ってきます」 「大学……」  詩織の声が薄くなる。 「私の名前って、まだあるんですか」  柏城は答えられなかった。  田中も、すぐには頷かない。 「確認してきます」  短い返事だった。 「消えかけているなら、留める手続きをします」  詩織は何かを言いかけ、口を閉じた。  代わりに、スケッチブックを胸へ寄せる。  直樹がゆるりと立ち上がった。 「必要になったら、また呼んで」 「はい。ありがとうございました」  田中が頭を下げる。 「お礼は、契約が済んでからでいいよ」  直樹は扉へ向かう途中で、柏城の横を通る。  不意に足を止めた。 「柏城君。彼のこと、よく見ておくといいよ」 「……田中さんを、ですか?」 「猛虎君って、綺麗でしょう。安心するよね」  意味を尋ねる前に、直樹は廊下へ出ていく。  カラ、カラ、コロン。  骨の音が、淡い廊下の奥へ消えていった。  田中が鞄を持ち直す。 「それでは、僕たちも失礼します」  柏城は詩織へ頭を下げた。 「お話、ありがとうございました」  詩織はすぐには答えない。  床へ視線を落としたまま、ほんの僅かに頷いた。  廊下へ出ると、昼を知らせる放送が流れていた。  澄んだ女性の声が、天井のスピーカーから静かに降りてくる。  窓の外は青かった。  風に押された雲が、遠くをゆっくり流れている。  柏城は、扉の横に差し込まれた面会票へ目を留めた。  午前十時五十分。  時刻だけが残り、その下が、白い。  ここへ来た時、名前は書いた。  そのはずなのに。 「田中さん」  柏城は足を止めた。 「消えてます」 「あ、……そうですね」  田中も戻ってくる。  透明なケースから紙を抜き、窓際へ持っていった。  文字はない。  斜めに傾けると、四文字分の凹みだけが残っている。  田中は鞄からペンを出した。  朝倉詩織。  透かした跡をなぞるように、一文字ずつ書き直す。 「これで残るんですか?」 「……今は、残ってくれると思います」  田中は紙をケースへ戻した。  かさり。  書き直した名前が、空調の風に小さく揺れる。  廊下の向こうを、清掃用のワゴンが通っていく。  からから。  からから。  田中は面会票をしばらく見ていた。  それから唐傘を抱え直す。 「大学へ行きましょう」  足元へ、窓から届いた陽が細長く伸びていた。

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