志乃創 / 第14話

第14話 油彩の残響

 廊下の向こうから、靴音が近づいてきた。  急ぐでもなく、緩むでもない。  一定の歩幅で、刑事部の奥まで届く。  九十九課の、扉が開いた。 「おはようございます」  田中猛虎が、片腕に蛇の目の唐傘を抱えて入ってくる。  もう片方の手には、厚い書類の束があった。  描かれた蛇の目が、ぐるりと傘をひと巡りする。 『相変わらず狭いなあ』 「昨日も言ってたよ、それ」 『昨日も狭かったんだろ』  唐傘が豪快に笑った。  声が壁と天井に跳ねる。  柏城は、田中の腕の中へ目を向けた。  赤い面に黒い蛇の目。  中心は白く抜けている。    古びてはいるが、和紙に目立った傷はひとつとない。 「……あの、それは?」 『それ扱いか、新人』 「あ、すみません」  反射的に謝った。  蛇の目が真っ直ぐ、柏城へ向く。 『なんか、細い気がするな。ちゃんと食えてるか?』 「あんまり無神経に突っ込まないでね、唐傘さん」 『心配してるだけだぞ』 「心配の仕方にも順番があるでしょ」  田中は慣れた手つきで、唐傘を抱え直した。 「備品扱いですけど、俺の相棒です」 『相棒を先に言え、猛虎』 「はいはい、相棒」  満足したらしい。  蛇の目がわずかに上を向いた。  刑事部の奥に押し込まれた九十九課は、今日も人ひとり増えれば窮屈だった。  古い棚には、誰のものか分からない上着が掛かっている。  箱や紙袋や、備品なのか私物なのか判別しづらいものが、当然の顔で隅を埋めていた。  田中は唐傘を机の脇へ立てかけ、抱えてきた書類を中央へ置く。  久留須美術館事件被害者名簿。  契約痕鑑定書。  同意書。  境界院から届いた照会票。  柏城は、表紙の事件名を見る。  二週間前。  雨の中で、壁一面の自画像と、油彩の奥から伸びる手を見ていた。  舌の奥に、冷えた絵の具の苦味が戻る。  壁一面を塞いでいたものが、今は、数枚の紙に収まっていた。  向かいの席で、田中が鼻をすする。  柏城は顔を上げた。  目元が赤い。 「……泣いてます?」  田中は勢いよく首を振った。 「泣いてないです」  声まで鼻にかかっていた。  窓から差す光が暖かかった。  田中の目の縁の赤みまで、よく見えた。 『泣いてるだろ』 「泣いてないって」  唐傘が愉快そうに笑う。  香月はいつもの穏やかな顔で、鑑定書を一枚捲った。 「田中君は、こういう話に弱いんです」 「弱いとかじゃないですけど……でも、藝大生だって、」  田中は名簿を持ち上げ、ずれていた端を揃える。 「絵を描きたい子が、絵のせいで身体を捨てようとしてるんです。泣くでしょう」  鑑定書を左へ。  同意書を右へ。  照会票には黄色い付箋。  赤ペンが必要な箇所を囲む。  一枚捲る。  次の紙へ移る。 「朝倉詩織さん。二十一歳」  香月が名簿を読む。  続けて、経口摂取困難。記憶混濁。契約痕残存。  名前よりも、症状の方が長かった。 「忘れられる代わりに、永遠を得る契約だったようです」  柏城は、書類の文字を目で追う。  その下にも名前がある。  さらに、その下にも。  田中のペンが止まった。 「朝倉さんは病院ですね。大学の記録も確認します」 「ええ、お願いします。柏城さんにも同行してもらいます」  香月の言葉に、柏城は顔を上げた。 「俺もですか?」 「はい。見ておいた方がいいでしょう」  別紙が机の中央へ置かれた。 「名前が残りにくくなっています。早めにお願いします」 「名前が……」  柏城は名簿へ目を戻した。  朝倉詩織。  文字はまだ、はっきりと読める。  それなのに、読んだそばから輪郭だけが頭の中でほどけていった。 「大学では展示申請と在籍記録ですね」  田中は付箋を一枚剥がした。 「病院のあと、そのまま行きます」 『昼飯はどうするんだ?』 「まだ朝だよ」 『今のうちに考えといた方がいいだろ。腹減ってから決めると、ろくなもん食わないじゃないか』 「今ちょっと仕事の話してるから、ね?」 『仕事中でも腹は減るぞ』 「唐傘さんは食べないでしょ」 『お前が食わないと俺が困る』 「何で?」 『運ぶやつが居なくなるだろ』 「結局自分の心配じゃん」 『相棒の心配でもあるぞ』  田中は笑いながら、最後の一枚へ付箋を貼った。 「賠償契約の担当者も来る予定です」  香月が別紙を確認する。 「……担当欄に悪魔、とだけありますね」 「誰ですかね。知らない人だったら緊張するなぁ」 『お前は誰にでも緊張するだろ』 「悪魔は特にだよ」  唐傘が「小心者め」と笑った。  香月は相手にせず、別紙へ目を戻した。  窓辺で、小さなものが触れ合った。  カロ、コロ。  音がした。  一拍遅れて、カラン。  硬質なのに、妙に耳馴染みがいい。  金属より柔らかく、風鈴よりも湿っている。  田中が音に反応して顔を上げた。 「あ、」  鑑定書の上へ落ちた影を追うように、視線を上げる。  開いた窓の内側で、男が窓枠に片手を添えていた。  背後の青空から、そのまま抜け出してきたように見える。 「直樹さん!良かったあ、知ってる人で」  田中の声が弾んだ。  黒に近い色のスーツ。  後ろで緩く束ねられた髪が、風に押されて首筋へ触れている。  男は香月を見た。  次に田中。  それから、柏城へ視線が移る。  目が合ったというほど強くはない。  水が器の縁をなぞるように、ただ緩やかにこちらへ届いた。  それでも、どこへ目を逃がせば自然なのかが分からなくなった。 「やあ、詩音君。猛虎君」  甘い声だった。  顔立ちより先に、その声を覚えそうな程。  男が窓枠から手を離す。  腰の後ろで、白いものが揺れた。  剥き出しの骨でできた尾。  先端には淡い水色の房があり、動くたび節同士が触れ合う。  カラ、コロン。  不穏な形なのに、音はやけに心地がよかった。  柏城は尾を追っていた視線を持ち上げる。  額には二本の角がある。  一本は滑らかに伸び、もう一本は途中で折れていた。  ジャケットの背には、小さな暗色の翼が沈んでいる。  綺麗な男だった。  顔立ちが整っている、という一言では収まらない。  男がわずかに口元を緩める。  薄い唇にだけ、誰かの熱を移したような赤みがあった。  柏城は一瞬、息を止めた。  その間へ、香月のため息が落ちる。 「窓から入らないでくださいねと、前にも言いませんでしたか」 「玄関は遠いからね」 「この建物の入口は一つではありませんよ」 「でも、ここが一番近いよ」 「それは理由になりません」  男は悪びれもせず、窓辺から一歩離れた。  遅れて骨の尾が窓枠を掠める。  カラン。 『入れたんだから、別にいいんじゃないか?』 「唐傘さんまで賛同しないでください」 『若宮さまは細かいなあ』 「貴方は貴方で、その呼び方をいつ改めるつもりですか」  唐傘が豪快に笑った。  男も口元を緩める。  香月は二人を見比べ、柏城へ向き直った。 「伊藤直樹。境界院の契約担当です」  直樹は長い指先を、挨拶代わりにゆるく揺らした。 「よろしくね」  柏城は姿勢を正した。 「柏城と言います」 「知ってるよ。美術館にいた子だね」  柏城の肩に力が入る。  資料で知っているのか。  現場に残ったものを見たのか。  直樹は何も足さず、香月の隣へ椅子を寄せる。  煙草を取り出し、唇へそっと挟んだ。  カチン、とライターが固く鳴る。  指先に生まれた火が、その横顔をひと撫でして消えた。 「あ。え……ここ、警察署内ですけど」  柏城が思わず言うと、香月が低い声を落とした。 「九十九課の人間もここで吸っていますからね。今更です」 「良いんですか」 「良いことにはしていません。諦めているだけです」 「詩音君も吸うくせにね」 「……直樹、煙をこちらへ流さないでください」 「ふふ。いいよ」  直樹は煙の向きを窓側へ変える。  香月も、それ以上は咎めなかった。 『俺にも寄越してくれ』 「唐傘さん、吸えないでしょ」 『気分くらい味わわせろよ』 「燃えちゃうよ……」    二人の椅子は近かった。  直樹が脚を組むと、香月は何も言わず膝を引いた。  直樹が紫煙を吐いた。  折れた角が、煙の向こうへ薄く霞む。 「それで?今回の子は、まだ“永遠”に引っ張られてるんだっけ」  笑みが、形だけ残して薄くなる。  骨の尾が机の脚に触れた。  カラン。 「魂は元の流れに戻せるよ」  直樹は鑑定書を引き寄せる。 「でも。出席簿に名前が残るかは、君たち次第だね」  田中が資料をまとめ直した。 「賠償契約は直樹さん。生活復帰は俺たちですね」 「早めに、ね」 「簡単に言ってくれますね」  田中は眉尻を下げ、口元だけで笑った。 「簡単じゃないから、君たちに回ってるんじゃない?」  直樹は煙草を指に挟んだまま、鑑定書へ目を落とした。  柏城も名簿を見る。  朝倉詩織。  怪異を処理しても、その名前まで元へ戻るわけではないらしい。  田中が鞄を持ち上げた。 「じゃ、行きましょう」  目元はまだ赤みが残っている。  それでも田中の声は、いつも通り明るく響いた。  柏城が頷く。  田中は机の脇へ立てかけていた唐傘を抱え直した。 『病院か?』 「病院と大学。で、そのあと商店街かな」 『そんで、昼飯は?』 「まだ気にしてたの?」  田中は笑いながら、扉へ向かった。 「行ってきます」 「行ってらっしゃい。お気をつけて」  香月が答える。  扉が開く。  田中の靴音が廊下へ出た。  その脇で、唐傘の傘先が一度だけ床を叩く。  乾いた音が、同じ速さで遠ざかっていった。

運営おすすめ

週間ランキング

全ランキング

反応スコアランキング

もっと見る

PV・ブックマークランキング

もっと見る

更新された連載作品

すべて見る
読み込み中…

新着短編

すべて見る
読み込み中…

作品一覧

読み込み中…

作品ダッシュボード

作品全体の公開状況と、読者からの反応をひと目で確認できます。

作品パフォーマンス

選択期間のPVが多い順

上位5作品
ライブラリ

作品の公開状況と構成

最近の更新

最後に編集した作品

要チェック

公開前に確認したい項目

プレビュー
読者に表示される見た目

表示設定

文字サイズ
100%
背景色
縦書き表示
リッチモード
目次
読み込み中…

キーワードを入力して作品を探しましょう

アクセス解析
アクセス解析データは 5分おき に自動更新されます
読み込み中…
ランクイン記録
通知
通知はありません
地形ブラシ
25
スタンプ
ツール
装飾
表示
100%

世界地図

100%

REACTION SCORE

反応スコアの内訳